第11章(2) 帽子屋 5周目
「迷迭香だよ。ここが結び目だ」
そうつぶやいて、[帽子屋]は短く笑って見せた。
「逃げたりしないから、この腕、放してくれない? 尾行がバレちゃったのは計算外だったけどさ……けど、どっちみち、ここであんたと話をする予定になってたんだ。《♢A》にそう言われてる」
「……」
俺は不思議な既視感を覚えながら、砂色の髪の若者を見返した。
足元には、砕けた酒瓶と床に広がる透明な液体。周りには、白を基調とした壁と低い天井。受付カウンター、長椅子。壁にかけられたひまわり畑の絵。
今初めて足を踏み入れたはずのロビーだが、どういうわけか、これまで何度も眺めた光景のように思える。
「俺はあんたから最終的な返事をもらってこいって言われてるんだ、《♠10》。だからまず、平和的に俺の話を聞いてくれないかな。……そこの椅子にでも座らない? 俺、長い時間立ち話するの苦手なんだよ」
「…………おまえとこのやり取りをするの、初めてじゃねえな。何度ぐらい繰り返してる? 二度か……三度か」
その言葉はひとりでに俺の口からすべり出た。
[帽子屋]はじっと俺をみつめ、黒い目をゆっくりまたたかせた。
「あんた、記憶が残ってるのか。驚いたな」
俺もはっきりと覚えているわけではない。ただ、無視できない強烈な違和感があるだけだ。
「俺はもう、おまえのスクリプトに支配されてるんだな。いつからだ?」
「何て答えればいいのかなぁ。誰にとっての『いつ』かによって、答えは変わるよ」
「……すると、おまえが《♠A》なのか。『時間を結んで輪を作るスクリプト』を使うという」
「へえ? なんで知ってんの、俺のスクリプトのこと? 今もまだ生きてる人間で、それを知ってる奴はほとんどいないはずなんだけど」
力の抜けた俺の手から、若者の腕はひらりとすり抜けた。[帽子屋]は長椅子に歩み寄り、身を投げ出すように腰を下ろした。
「俺はあんたの時間線に結び目を作った。今日の十五時二十一分と、十五時三十四分とを結び合わせたんだ。世界の時間はその先へ進んでいくが、あんたの意識は結び目によって閉ざされた十三分間から出られない。いつまでもその円弧の中を回り続ける。……つまりどういうことかというと、あんたの体は実際には、この長椅子に座ったままなんだ。脳内で何度も、十五時二十一分から十五時三十四分までを繰り返している。あんたがこれまでに得たすべての情報を元に、その十三分間に起こり得る可能性があると考えられるあらゆる事象を知覚することになるだろう。
結び目を越えるときの衝撃で、前の周回で経験したことの記憶は飛んじゃうんだけど。脳のどこかに残るんだろうね、多少の欠片は。だから、そういった新しい記憶も含めて、あんたの十三分間の道程は無限のバリエーションをもって紡がれていく」
俺は思わず自分の体を見下ろさずにはいられなかった。
真っ白な床に突っ立っている見慣れた体は、現実のものとしか感じられない。「本当は長椅子に座っている」と言われても実感が湧かない。
「夢と同じで、あんたは十三分間を、ほんの数秒間で経験する。だから無限のパターンを経験できると思うよ……」
[帽子屋]の丸顔に、年齢に似合わない酷薄な笑みが浮いた。
「……飲まず食わずのあんたの体が餓死するまで。要するに、俺のスクリプトからは、死ぬまで逃れられない。何日もつかなぁ。あんた頑丈っぽいから、なかなか死ななさそう」
俺は体の脇で拳を握りしめた。目の前の若造をぶん殴りたい、というのが真っ先に湧き起こった衝動だったが、
「いま俺がおまえを殴っても、実物のおまえに痛みを与えることはできねえんだな。これは俺の夢みたいなものだから」
「そういうこと。あんたが自力でこの時間の輪から脱出する手段はない。だから俺のスクリプトはみんなから『最強』って呼ばれてるんだよ。……ねぇねぇ。俺のスクリプトをあんたに教えたのはLCだろ、きっと? もう嫌だ。あの何でもありのワガママ女、誰か何とかしてほしい」
ハクトがふらふらした足取りでロビーを横切り、[帽子屋]が座っているのとは別の長椅子に腰を下ろした。体力のないこいつも立ち話が苦手なのだ。
「そこまで喋ったんなら、ついでに教えてくれや。おまえのそのスクリプトは持続型か? つまり、いっぺん俺らの脳に悪さをしたら、おまえがその場にいなくなっても効果が残るんか? それとも、おまえはずっと俺らから二十五メートル以内の距離にいて、スクリプトを発動させ続けてるんか? 俺らが死ぬまで?」
[帽子屋]は肩をすくめた。
「『持続型』か。そういうスクリプトなら楽なんだけどね。……残念ながら俺のスクリプトは普通のスクリプトなので、効果の届く距離で、ずっと使い続けなくちゃならない。あんたらがくたばるまで、不眠不休でがんばらなくちゃならないんだよ。
あー。チャンスがあるかも、なんて思ってもらわない方がいい。俺は若いし、こういう仕事に慣れてるんで、うっかり居眠りしてスクリプトを止めてしまう、なんてことはない。一週間ぐらいなら寝ずに働けるよう、賦活剤も処方してもらってるんだ」
「……」
「あと、俺の実体を探そうとしても無駄だよ。あんたらと俺とは別の時間軸で生きてるからね。円弧の中にいるあんたらは、円弧の外にいる俺を知覚できない。たとえこの同じロビーにいても」
俺はロビーの入口に立ちつくしたまま、へらへらしている[帽子屋]を睨み据えていた。
「……そうやって喋っているおまえも、俺の想像の産物だ。本物じゃない。今おまえが喋った内容は……俺がこれまで見聞きした情報をベースに俺の脳が推測し、作り出したものだ。おまえのスクリプトが、いま話した通りであるという保証は何もない」
[帽子屋]は大きくうなずいた。
「その通り! ……でもさ。俺のスクリプトに限らず……世界のすべてがそうじゃないの? 『本物』なんて言葉に意味はないのさ。自分が知覚し推測したものこそが、自分にとっての絶対的な現実だ。他人にとっての現実と異なってる場合もあるけど……そんなこたぁ問題じゃない。現実が一つじゃなきゃいけないなんて誰が決めた?」
ラベンダーは青 ローズマリーは緑
あなたが王様なら 私は女王様よ
童謡を口ずさむ[帽子屋]の瞳が、黒から緑へとはっきりと色を変えた。
「ローズマリーの花は本当は緑色じゃないんだけどね。タイム・アップだ、ここが結び目さ」




