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第5章(3) 料理番

 スナーク博士は仕事が早かった。公式試合の日取りはその二日後の早朝と決まり、俺は再び、謎めいた遺物(レリック)の並ぶ保存庫のドームに足を踏み入れていた。


 目の前に立つ《♠8》は、四十代の細身の女だった。

 化粧が濃い。黒ずくめの服を着て、シンプルだが高価そうなアクセサリーを身につけている。《同盟》幹部の身分証であるスペードのバッジさえファッションの一環のように見せている。鳶色の髪を凝った形に巻いており、美人ではないが妙にしゃれた雰囲気の女だ。

 女は髪と同じ色の瞳を輝かせて俺をじっと見上げた。


「あんたは私に勝つと昇格できて、《同盟》からもらえるお手当も増額されるからいいけど……私にはこの試合に参加するメリットが何もないのよ。あんたに勝ったって、私には何もいいことがない。燃えないわ。だから一つ、条件をつけさせてもらってもいいかしら?」

「何だ?」


 俺は、めんどくせえな、という響きがなるべく声に出ないよう注意しながら尋ね返した。女はにっこりし、人さし指をぴんと立てた。


「私があんたに勝ったら……あんたは一日、私のお店を手伝うこと。無給で」

「……あんたの店って何なんだ」

「服屋よ。紳士服も扱ってる。……あ、いいのよいいのよ。接客はしなくても。うちの商品を着て、その辺に立っててくれるだけでいいの。あんたはいい体してるから()えると思うわ。ちょっと見た目しょぼくれてるけど、それはまあ何とかなる。やっぱりただの映像なんかより、生身のマネキンの方がお客さんにはアピールするのよねー」


 ――いくら目的のためでも、殴れない。


 よく動く相手の口を眺めながら、俺はそんな思いにとらわれていた。


 そもそも女に手を上げるのは気が進まない。よほど邪悪な相手ならまだしも、ここにいるのは、普通の女だ。無給のバイトを確保したいというささやかな欲に瞳を輝かせている女。

 さんざん破戒の限りを尽くしたつもりでいたが。結局のところ俺はまだガイナント伝道教会の教えに縛られたままなんだろう。「自分より弱い者を守り慈しむ」ことが人の道であると幼い頃に叩き込まれた。女を痛めつけるのは生理的に無理だ。


 公式試合だか何だか知らないが、相手を殴り倒して降参させれば済むことだ、と高をくくっていたが。いきなり方針転換を迫られることになった。手荒な真似をせずに勝つには、やはりスクリプトによる戦いということになるのか。

 《バラート》でもそんな訓練はやったことがない。スクリプトを使える敵を想定していなかったからだ。



 俺の[収納自在イージー・コントラクション]には相手を屈服させるほどの攻撃力はない。

 相手が使ってくる攻撃的なスクリプトを限定(クオリファイ)し、反転(リバース)させるしかない。

 ただし限定するためには、相手が使ってくるスクリプトが何か、あらかじめ正確にわかっている必要がある。――「物を飛ばす」スクリプトというヒントだけでこの女の手の内を予測するのは、なかなかのギャンブルだ。飛ばす系のスクリプトは色々ある。ハクトの[茶菓山積(スイーツパラダイス)]だって菓子を飛ばすスクリプトだ。


 まあ、出たとこ勝負だ。相手のスクリプトを実際に一度食らってから、二回目の攻撃を反転させるという手もある。一回目の攻撃で頭を潰されたりしなければ、だが。



 ドームの奥へ向かって歩く俺たちの頭上で、例によって音楽が流れている。今度の音楽はピアノソナタではない。がちゃがちゃした、ファンキーな雰囲気の楽曲だ。男性ボーカルが「俺たちはみんな黄色い潜水艦の中で暮らしている」とか何とか歌っている。

 ――ドームの入口で待つスナーク博士とは、四十七・一八メートル離れた。完全にスクリプトの効果範囲外だ。


 俺の前を歩いていた女が立ち止まり、意外と敏捷な動作で振り返った。その双眸が光を放ったかのように見えた。

 圧力にも似た「気配」が高まる。[冗長大脳皮質(リダンダント)]の活性化が速い。さすがはトレーニングを積んでると言うだけのことはある。


illegal script detected ('hysterical_flier')

id ('pretty_cook')


 [仮想野(スパイムビュー)]の下端を走るアラートを読むより速く、俺はスクリプトを限定(クオリファイ)するためのシーケンスを開始していた。


qualify target=('hysterical_flier')

 id=()

  attribute=('direction:reverse')


 女のログインIDは[可愛い料理番(プリティ・コック)]、スクリプト名は[凶器乱舞ヒステリカル・フライヤー]。


 料理番って何だよ。服屋じゃなかったのかよ。「可愛い」に関してはもうツッコむ気も起きねえよ。

 そんなくだらないことを思う余裕が生まれたのは、相手のスクリプトを正確に読み切ったという安堵感からだ。


 女が使ってきたのは予想通り、周囲の物を浮遊させて敵にぶつけるスクリプト[凶器乱舞]だった。俺は瞬時にそのスクリプトを反転(リバース)。女の[凶器乱舞]が女自身に対して発動した。

 すぐそばにあった変わったデザインの椅子がまっすぐ飛んで女の背中にぶつかった。

 椅子の飛ぶ速度は三十・五六キロメートル/時。速いとは言えない。その上、浮遊させられる重さの限界がこの椅子だとすれば、相手の事象支配力(スクリプトの威力)は大したことはない。


「いっ、たぁぁぁっ!」


 [料理番]は顔をしかめて背中をさすった。振り返って自分の背中を襲った物の正体を確かめると、眉をつり上げた。


「ちょっと! それ、ヴェルサイユ宮殿の便器椅子(シューズ・ペルセ)じゃない。そんな物ぶつけないでよ!」


 無数の遺物に囲まれたスペースで、俺たちは睨み合った。飛ばす物は周囲に事欠かない。[凶器乱舞ヒステリカル・フライヤー]を使うにはうってつけのシチュエーションだ。

 [料理番]は、スクリプトが反転されたことを知らない。なぜ自分のスクリプトが発動しなかったのか、と不思議がっているだろう。だが、のんびり考える時間を与える気はない。


「上位の幹部はみんなスクリプトの扱いに慣れてる、と《♢A(エース)》は言ってたが……それほどでもねえみたいだな。悪いが次の攻撃で決めさせてもらうぜ。あんたもただ働きの人手が欲しけりゃ、本気出せよ」


 基本戦略は挑発だ。

 女にスクリプトを使ってもらわなければ困るのだ。俺には固有の攻撃手段がなく、相手の攻撃を反転させるしかできないからだ。


 [料理番]は挑発に乗った。濃いルージュの唇が怒りに歪み、粒の揃った歯をむき出した。


「口は達者なようね。それならマネキンだけじゃなく接客もやってもらうわよ!」


illegal script detected ('hysterical_flier')

id ('pretty_cook')


 ――相手の手の内はもうわかっている。[料理番]がスクリプトを発動させるのとほぼ同時に、


qualify target=('hysterical_flier')

 id=('pretty_cook')

  attribute=('amplify'+'amplify'+'direction:reverse')


 俺はそれを二重に増幅(アンプリファイ)して反転(リバース)させた。


 モアイ像が宙に浮いた。ついでに、像の周囲に置かれていたジャパニーズサムライの兜と一ダースほどの蓋つきのエナメルポットも浮き上がった。一斉に、時速八十キロメートル超で女を襲う。


「いやああーっ! チャンバーポット(おまる)は、いやーーっ!!」


 悲鳴をあげる[料理番]の頭に、澄んだ間抜けな音をたててポットがぶつかった。次に兜が降ってきて、最後にモアイが女を圧し潰した。

 



 スナーク博士がそれほど急がない足取りで近づいてきて、戦闘続行不能の判断を下した。スクリプトの効果範囲外にいた博士には、俺たちが睨み合って言葉を交わしているうち、女が急に気を失って倒れたようにしか見えなかっただろう。いや、実際に(・・・)起きたことは、まさにその通りのことだったのだが。


 [料理番]に勝利した俺は《♠8》(スペードの8)に昇格した。

 

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