第二話 氷の宰相、執事になる
「あ、ああ……よろしく。俺はアイスヴァルト・グラシエールだ」
アイスヴァルトはスッと目を逸らす、クレイドールとの距離が近すぎるのだ。彼は氷の宰相と呼ばれた孤高の男、しかし実際は女性耐性の無いコミュ障である。なまじ能力が高く一人で何でも出来てしまうだけにそれでも何とかなってきたのだが――――
「あら大変……怪我をしてらっしゃるのですね」
「ああ、まともに歩けない状態で……」
この程度かすり傷です、と言いたいところだったが、歩くこともままならない状態で見栄を張っても仕方がない。令嬢が薬を持っているかもしれないと期待するアイスヴァルトだったが――――
「この程度なら唾を付けておけば大丈夫ですわ!!」
「……え?」
大抵の傷なら唾をつけておけば治る、父の言葉を実行するクレイドール。
かぷっ
「ひうっ、お、お嬢さまっ、な、何をっ!!」
「んん? 唾を……んむっ、付けているのよ」
いきなり足にかぶりついたクレイドールの行為に固まるアイスヴァルト。クレイドールは、傷口から膿を吸いだし、吐き出すと、ペロペロと柔らかい舌と唇で満遍なく唾液を浸透させる。
(こ、これは……もはや……キス、なのでは!?)
単なる治療、応急処置なのだが、耐性ゼロのアイスヴァルトは真っ赤になって悶える。
「はい、終わりましたわよ。歩けないのでしたら背負いましょうか?」
「いや、さすがにそれは……」
帝国男子たるもの令嬢に背負われるなどあってはならない、それ以前にそんなことになれば密着に耐える自信が無い。
「そうですの? ではこちらにお入りになって」
「……えっと、この麻袋に……か?」
「ええ」
嫌な予感しかしないが、どうやら選択肢はないらしい。クレイドールが広げた袋の中に転がり込むアイスヴァルト。
「では参りますわよ」
ぐっ、麻袋の口をしっかり縄で縛り、勢いよく引きずるクレイドール。平地ならともかく、山の中では石や木の根、岩、障害物はいくらでもある。クッション性ゼロの麻袋の中で、アイスヴァルトは体中を擦り傷と打ち身だらけにして生きた心地がしない。
「ぎゃあああああ!!!! 痛いっ、痛いいいいいっ!?」
「少しだけ我慢なさってくださいませ」
素直に背負ってもらえば良かったと、遠のく意識の中で思うアイスヴァルトであった。
「う……ここは?」
アイスヴァルトが目を覚ますと、見知らぬ部屋の天井が見えた。
「そうか……気を失っていたんだな」
足の傷よりも全身の打ち身の方が痛い。それでも――――生きている。
数か月ぶりのベッドも今はありがたい。
「それにしても――――」
アイスヴァルトは成人男子としては細身の方だが、それでも自分よりも重いであろう人間を令嬢が一人で山からここまで運んだという事実。あの時は平常心を失っていたのでその異常性に気付かなかったが、そのそも、山中に護衛も付けずに一人で居たことも普通ではない。
「あら、目が覚めたみたいですわね」
ちょうどクレイドールがお茶を持って部屋に入ってくる。
「お嬢さま……わざわざ淹れてくれたのか?」
帝国では令嬢が自らお茶を淹れることはまずあり得ない。少なからず感激するアイスヴァルト。
「ええ、あまり良い茶葉ではないのでお口に合うかわかりませんけれど」
「ありがとう、いただくよ」
数か月ぶりに飲むお茶は全身に染み渡るようで涙が出るほど美味しい。
「こんなに美味しいお茶は初めてだ」
「まあ……そんなこと仰ってくださった方は初めてですわ」
クレイドールは嬉しそうに目を細めながらアイスヴァルトが寝ているベッドに腰かける。
(ち、近いっ!?)
距離もそうだが、同じベッドの上にいるという状況がアイスヴァルトには無理すぎる。
「ねえアイスヴァルト」
「な、なんだっ!?」
クレイドールの顔がすぐそばにある。直視出来ずお茶を飲み干すアイスヴァルト。
「貴方は私の執事、ということで良いのよね?」
「ああ、そうだな」
命を救われた恩があるのだからと頷くアイスヴァルト。
「良かった!! では早速お仕事お願いしてもいいかしら?」
「え? 今から……か?」
「ごめんなさい、色々と困ってまして」
全身が痛むが動けないほどではない。困っているというのなら寝ている場合ではないだろう。
ぐう~ぎゅるるる
「す、すまない、何日もまともに食べていなかったのでな」
「まあ……すぐに食材を用意しますわね」
料理ではなく、食材という言い方が少し気になったが、久しぶりにまともな食事にありつけると思うと余計に腹が減る。
「お待たせしました」
どーん!! テーブルに食材が置かれる。
「……えっと、これは?」
「さきほど山で狩った角ウサギですわ」
……生である。というかそのままである。
「どうぞ召し上がれ」
満面の笑みで角ウサギの死体をすすめるクレイドール。
(こ、これは……どう反応するのが正解なんだ!?)
帝国の宰相として数々の問題に取り組んできたアイスヴァルトだったが、まるでわからない。
「な、なあ……料理人を呼んでもらえないか?」
「おりませんわ」
「え?」
料理人が居ないのなら仕方ない。いや、仕方ないで済む問題ではないけれど。
「はあ……調理場をお借りしても?」
「ご案内しますわ」
クレイドールの案内で二階から地下にある調理場まで移動するアイスヴァルト。
「他の使用人はいないのか?」
「おりませんわ」
「え? 家族は?」
「おりませんわ」
もしかして聞いてはマズかっただろうか? アイスヴァルトは軽率な言動を後悔するが、クレイドールは気にした様子もない。
「ここが調理場ですわ、アイスヴァルトは執事だから料理も出来ますわよね?」
「え? ま、まあ……一通りは」
「良かった、ここにあるものは好きに使って構いませんわ」
執事が料理をするなんて聞いたことがないが、もしかしたらこの国ではそれが普通なのかもしれない。料理が出来て良かったと安堵するアイスヴァルト。
「なあお嬢さま、今まで料理はどうしていたんだ?」
「え? 主に生ですわ」
「な、生っ!?」
野菜はともかく肉はヤバい。
「お嬢さま……これからは俺が料理を作るから」
「ありがとうございます。アイスヴァルトは頼りになる執事ですわね」
ち、近いっ!? このご令嬢は距離感がおかしい。不意打ち気味に腕を組まれて固まるアイスヴァルトであった。




