◆空白の三年間
僕は初めの世界、つまり『シブヤ・ザ・ワールド』で件のデバチ事件を含めて計三年半の時を過ごした。
デバチ事件が解決――というのは少し語弊があるが――してからのおよそ三年間は、僕にとってほとんど空白の期間のようなものだった。もっともそんな言い方をすれば、僕のこの生涯四○年間の内のニ三年間は、すべて空白だ。
もう就職もできないし、社会復帰も出来ない。まともに話すのはNPCと人工無能だけだから、普通の人と会話をするのも難しいかもしれない。
そんな絶望もこんな地獄のような環境が忘我させてくれるから、僕はまだ僕を保っていられた。自分の事を考えないのが、一番楽だ。
ともかく。
僕がこの三年を空白と呼ぶのは、正直な所ほとんど何もなかったからだ。
ネットに繋がっているか定かではないゲーム内PCを使って日記を記し始めたこと以外、これといって何もない。たまにバグが見つかってそれを修正する勤労ぶりは発揮したけれど、その他はただダラダラと過ごしていた。
別の世界に行くこともしょっちゅう考えていたけれど、移る最中にバグが発生してフリーズしたら最悪だから、そんな悪寒がずっと僕を引き止めていた。
そんな僕だからか、せめてただの戦闘では死なないようにレベルキャップを解放できるようにして、現段階で最大レベルまで上げることにした。限界に達したのはちょうど二年半が過ぎた頃だった。
暇つぶしに『マルキュー』を一ヶ月かけてソロで攻略したりもした。最上階のボスを倒すのに丸一週間かかったのは、さすがにくたびれたけれど。
そんな僕はがあと一年でしたことと言えば、人工無能の教育だった。
「私をパートナーに選んでくれるのですね?」
少し物を含んだ言い方だった。
「君はいつも少しズレたことを言うね」
「表面上だけ見れば間違ったことを言った覚えはないのですが」
「うん。表面上はね」
首を傾げる彼女に苦笑しながら、僕は続けた。
「幸い、君には職業が選択できるし、武装も可能なんだってね」
「それはマスターと私の親密度が一定値まで上昇したことにより解除された機能です」
「へえ、そんなのがあるんだ」
「はい。主にログイン時間と会話数に比例します」
「それはライトユーザーには切ない仕様だね」
彼女はニッコリと笑ってから言った。
「私を何の職業に?」
些細な言葉のキャッチボールもすぐに終わる。少し嫌われてるのかな、と思うけれど、彼女は人じゃない。仕方のない事だ。
「僕が万能タイプだし、君は軍人タイプでお願いしようかな。そっちのほうが強い装備結構揃ってるし」
「それでは職業安定所に行きましょうか」
それから僕のメインメニューに、『パートナーへの指示』という項目が追加された。攻撃しろ、防御しろ、援護しろ、逃げろ。主にこんな作戦がいくつか並んでいて、それぞれに積極的に、ほどほどに、消極的に、と追加項目がある。
まずは彼女に積極的に回避しろ、と指示を出して難易度の高いダンジョンに向かった。ダンジョンと言えど簡単に説明すれば、いわゆる狩り場だ。レベル上げにうってつけの場所は、さすがにこのゲームにも存在している。
一度倒したボスはプレイヤーが望めば何度でも戦うことは可能だけれど、ボス戦までをレベル上げに入れるのは効率が悪い。それは飽くまで腕試し程度にしたほうがいい。
もっとも効率が悪いなんて言ったところで、僕に無駄に出来る時間は腐るほどある。それこそサーバーが死んだ時か、僕が死んだ時まで。
彼女はまず半年で最初のレベルキャップまでが頭打ちになった。メキメキとパラメータを上げる一方で、僕の立ち回りを見て覚えたかのように、その動きも目を張るほどに良くなっていった。
また彼女が居ることで僕の死への恐怖も少し薄れていった。
誰かと共にする時間が増えたことで何かを考える暇がなくなったというのもあるし、なにより、自動仕様の復活アイテムの不具合という不安も少なくなったからだ。
僕の体力が尽きれば、すでにデバックも済んで自分自身何百回と使用した復活アイテムを、トモちゃんが使ってくれる。この安心感は強かった。
だからふと、僕はこう漏らしてしまった。
「そろそろ別のゲームに移って見てもいいかもね」
プレイヤーデータやホームアバターを引き継ぐことが出来る。次の――『ソード・オブ・マジック』のデータと仕様を読み解いているとそれが可能だと判明した。
だからいい加減飽きてきたこの世界を去るのも一つの手段かな、と僕は誤算した。
ぬるい世界にいれば脳みそがゆるく溶けていく。そんな予感が、僕を急かしていたのかもしれない。
トモちゃんは反対する理由を見つけられるはずもなく、心からそれに同意してくれた。
「良いかもしれませんね。新たな暇つぶしが、見つかるかもしれません」
僕は忘れていた。
これは単純なゲームだけれど、僕にとってはこれが全てであることを。
ぬるいのは日常だからだ。それを捨てるということは……非日常を選ぶということは、つまり地獄を再確認するということだ。
僕はすっかり忘れていた。
もう脳みそが腐っていたのかもしれない。だから忘我、焦燥という果てのミスを犯したのだ。
「移行出来るのはパラメータとレベルだけ。装備やアイテムは新しく向こうで仕入れなきゃだから、気を引き締めていこう」
可能であるならば僕はシブヤで腐って緩やかに生きたまま死んだほうが幸せだったかもしれない。
このニ三年間、確かに楽しいことはあった。苦境を楽しむことも、できた。
だけれどそれ以上の苦痛があったから、僕はそれを全て否定する。
この世界での苦労はどこにも活かされない。無駄な疲労だけが、ひたすらに精神を蝕んでいくだけだ。
それでも僕は、新たな世界に旅立った。
新たな地獄の始まりとも知らずに。




