77.真実
イライザは宿のエントランスで見つかった。
こじんまりとしたロビーは深夜にも拘らず煌々と照明が焚かれていたが、壁に飾られた絵画を見上げる彼女以外に人影はない。
「こんなところにいたのね」
シルキィもイライザも、部屋に常備された寝間着に着替えている。ゆったりとしたお揃いの服。そんな些細な共通点に、シルキィは顔を綻ばせた。
「これって、何の絵?」
「この街の風景画です。なんだか懐かしくて、ずっと見てられます」
両手を広げてもなお足りないほどの大きな絵画には、街の風景や人物が描かれていた。
ダプアは古い都市である。この街には二度の大きな変革があった。一度目は、剣闘の文化が生まれた頃。二度目は、侵略によって帝国に色濃く影響を受けた時。
この絵に描かれているのは、一体いつの風景だろうか。
「なんだか、時代を感じる絵ね」
自然豊かな景色は、どことなくラ・シエラに似ているような気がした。
「百年以上も前に描かれた絵です。今ではもう、この美しい風景を見ることはできません」
その昔、ここがまだ一つの都市国家であった頃、街は自然に満ちていた。土は肥え、水は澄み、優しい風が流れていく。今のように巨大な建造物がひしめく場所ではなかった。剣闘が生まれ、帝国の一部となり、かつての有機的な美しさは失われてしまった。
シルキィはイライザに倣い、じっと絵画を見た。雄大な自然と、その中に生きる人々。絵に詳しくないシルキィにも、込められた想いの息吹が感じられた。
「これ、ありがとう」
ふと思い出して、抱えていた日記を差し出す。
一瞥して受け取ったイライザは、大切そうに表紙を撫でた。
「ねぇイライザ。あなたはやっぱり、エリーゼなの?」
シルキィの口から出た質問を耳にして、イライザはふと顔を上げた。
「どうしてそう思うんです?」
「その日記を読んでいたら、なんとなくそう感じたの。古語で書かれていたけれど、文章の中にレイヴンズストーリーと同じ文体を感じたわ。言い回しやリズム、よく使われる単語も、イライザの文章とそっくりじゃない」
「私がこの日記に影響を受けたとは考えないんですか?」
「それは考えたけど。レイヴンってローウェンの古語読みでしょ。エリーゼだって、イライザの古語読みだから」
イライザはこれまで明言こそしなかったが、自身がエリーゼであることを否定することも隠そうともしていなかったように思う。
イライザはふっと表情を和らげると、小さく拍手を叩いた。
「ラ・シエラの深い森に、悠久の時を生きる大魔導士がいる」
いつか聞いた話である。
「アシュテネを脱出したローウェンは、帝国の追撃を逃れるために大魔導士を求めた。ローウェンの境遇を嘆いた大魔導士は、彼をはるか過去、決して帝国の手の届かぬ時空の彼方に飛ばしてしまった」
古語に疎く、生活の基盤さえ持たないローウェンが奴隷商に捕えられるのは必然であった。奴隷となった彼が砂に書いた文字を誰かがレイヴンと読んだ。それが、彼の奴隷としての名となったのだ。
やがてレイヴンはダプアから逃れ、未来にラ・シエラと呼ばれる地を目指し、再び大魔導士と出会う。そして彼は一人、あるべき時代へと帰っていった。
エリーゼは、大魔導士に同じ時代に送ってくれと頼み込んだ。だがその願いは聞き届けられなかった。本来、時を超え歴史を歪めることは、最大の禁忌であるが故に。
残された彼女は世を儚んだ。もはや生きる意味も、希望も残っていなかった。大魔導士はエリーゼを憐れみ、彼女に一杯の毒を与えた。それは死をもたらす毒ではなく、死を殺す毒。悠久を生きる大魔導士が、百年に一度口にする呪いの秘薬。飲み干せば百年の間、肉体の老いから解き放たれるという。それもまた禁じられた外法の一つであった。
「時代が進めば言葉も変わる。永い時を生きるにつれて、エリーゼはいつしかイライザと呼ばれるようになった」
まるで本の一節を諳んじるように、イライザはすらすらと言い切った。
日記には書かれていない、その後のエリーゼの歴史である。彼女はもう一度レイヴンに会うために、百年もの永きに渡って生き続けてきたのだ。
シルキィの頬には涙が伝っていた。
エリーゼの想いは、レイヴンズストーリーに精細に描かれている。あの日記と、本人の口から語られた顛末。ばらばらだった欠片が、今まさに一つになった。
エリーゼはいかなる時もレイヴンを支え続けた。彼を励まし、助け、叱咤し、癒し、最後まで彼の拠りどころとなった。彼女がどんな気持ちでレイヴンを見送ったのか、シルキィには想像することしかできない。
「同情はいりません」
イライザは、シルキィの涙から目を背ける。
あの時ダプアでセスを貶めた時、イライザはどんな気持ちだったのだろう。彼という人間を誰よりも知っていたのはイライザであったというのに。アルゴノートという身分に囚われていた自分のいかに愚鈍なことか。イライザが怒るのも当たり前だ。
「ごめんなさい」
シルキィは弁明もなしにただただ謝罪した。過ちを犯した時は飾りなく誠心誠意の謝罪をする。レイヴンの物語から学んだ教訓だった。
「もういいんです。怒っていません。彼のことをきちんとわかってくれたのなら、私はそれで満足だから」
イライザはポケットからハンカチを取り出し、シルキィに握らせた。
「ありがとう……ちゃんと、セスにも謝ったから」
涙を拭い、嗚咽を抑え込む。イライザは一瞬だけ優しげな微笑みを見せたが、目元を押さえていたシルキィにはその笑みを見ることが出来なかった。
「ねぇイライザ。百年経っても、まだ彼が好き?」
「もちろん」
刹那の間もない即答だった。
「この百年、彼のことを思い出さない日なんかなかった。レイヴンズストーリーなんて物語を書いたのも、半分は自分への慰めだったんです」
「そう……そうよね」
百年前から、イライザはずっと彼に尽くしてきたのだ。強い信念と限りない愛情がなければ、否、それがあったとしても到底できることではない。
彼女の想い比べれば、生まれたばかりの恋心など吹いて飛ぶ塵芥も同然だ。
「身を引こうなんて考えないで」
その言葉は、弱気になっていたシルキィの胸に鋭く突き刺さった。
「あなたがその気持ちを秘めてしまったら、彼が報われない。剣と魔力を捨てたのも、誰一人知る者のいない過去に逃げたのも、奴隷に堕ちてまで生き延びたのも」
彼女の語気は次第に強まっていくが、ふと、静謐なまでの落ち着きを取り戻し、
「全部、あなたの為だった」
目を閉じて、静かに呟いた。
「私に遠慮して身を引いたりなんてしたら、あなたはあの人の生きた道を否定してしまうことになるんだよ?」
セスの心を真に理解した者の言葉であった。こんなことは、本当の強さと優しさを併せ持つ者にしか言えない。イライザの言動は常に慈愛に満ちている。
「私、セスを好きになってもいいのかな?」
彼を邪険に扱った。アルゴノートだというだけで、内面を見ようともせずに罵倒した。それが今は掌を返したように惹かれている。彼の正体が王子だからではない。憧れのレイヴンだったからでもない。誠実を保ち、報恩を貫き、命を賭して自分を救ってくれたアルゴノートのセス。その生き様に惹かれたのだ。
「いいも悪いもありません。あなたの心の思うままを、言葉にすればいいんです」
「私は、セスが好き」
自らに言い聞かせるように、この小さな胸に生まれた想いを確かめる。
「アルゴノートのセスが好き」
誰にも負けたくない。イライザにも、この先現れるどんな女性にも負けてなるものか。この世界の誰よりも、彼に愛される女でありたい。
虫のいい話だ。それでもいい。良心の呵責や後ろめたさをひっくり返してしまうくらいに、これからは彼を愛して生きていく。
心が定まれば、不思議なことにそれまでの迷いや悩みが嘘のように消えていった。
長いようで短く、短いようで長い旅の終わりが、間もなく訪れようとしている。帝都に辿り着けば、セスはヘレネア領に戻ってしまう。理由をつけて依頼を継続させることは可能だろう。けれど、自分の都合で彼を縛りつけたくはない。
よいのだ。これからは、こちらからセスのいる場所に足を運ぶのだ。
シルキィのどこか清々しい表情を見て、イライザも心なし満足気であった。
恋を知った乙女は強い。愛を持った女は豊かである。
由々しき出自と過去を持つセスの行く手は、今後も辛く険しいものになるだろう。
いつかその道を共に歩くのだ。
彼をよく助け、安らぎを与えることができるように。




