76.ダプア帰還
一大事を脱したといっても、依頼が終わったわけではない。新学期の始まりに間に合わせるには、旅の復帰は急務であった。一行は落ち着く間もなくダプアに帰還し、馬車の回収を急いだ。
そこでは、ある意味で重大な事件が起きた。
「ごめんなさい」
宿の一室で、シルキィはセスに深々と頭を下げる。
それまで悪態ばかり吐いていた彼女が真摯に謝罪を口にしたことは、セスにとって強烈な不意打ちであった。
「私、あなたにずっとひどいこと言ってた」
これまでの彼の扱いもさることながら、アシュテネを批判し、かの王をすら愚弄したことは、真実を知ったシルキィにとって陳謝せずにはいられない問題だった。その裏でレイヴンを称賛してやまなかったことは、まこと羞恥の限りである。
「それに……父が、あなたの故郷を」
「いいんだ」
セスは気を悪くした様子もなく、シルキィの頭に手を置いた。
「戦争の勝敗についてお嬢が謝ることはない。もしかしたら、立場が逆になっていたかもしれないんだから」
「でも、アシュテネ王を討ったのは――」
「やめよう。それはもう俺の中で決着がついてる」
シルキィは俯いて言葉を途切れさせた。セスがそう言うのなら、これ以上は何を言っても仕方なかった。
「それより俺の方こそ謝らないと。お嬢の大切な剣、壊されてしまった」
「元々あなたの剣よ。私は預かっていただけ」
シルキィはある日の記憶を探る。ラ・シエラの森で、行き倒れた少年がいたこと。その少年が、大きな虹と、一振りの剣を残して消えたこと。
「私たち、ずっと昔に出会っていたのよね」
アシュテネから逃亡する王子と、実質的にアシュテネを滅ぼしたラ・シエラの令嬢。
シルキィの中にある当然の後ろめたさ。罪悪感。セスはきっと恨んでいるだろう。
言葉にはしなかったが、彼女の暗い感情は隠しきれない。
そしてもう一つ、シルキィの心を捕らえて離さない事実があった。エリーゼの日記が真実を記しているとするのなら、セスはアシュテネのローウェンであり、また剣闘士レイヴンであるということ。
本当にそんなことがあり得るのだろうか。もし本当なら、セスは少なくとも百年以上生きているということになる。答えも出ず、聞くにも聞けないその疑問が、パマルティス脱出からこちらずっと頭の中を巡っていた。
「積もる話もありましょうが、今日はもうお休みになりましょう。早く体力を戻して、旅を再開しなければなりません」
「そうだな。俺も流石に疲れたよ」
「そういえば、イライザ様はどちらに?」
ティアが室内を見回すも、彼女の姿はない。
シルキィはどきりとした。部屋に入った時は一緒にいたはずなのに、どこに行ったのだろう。思わず机上の日記に目が行ってしまう。
「私、探してくるっ」
日記を取って、早足で扉に向かう。
「お嬢様、お一人で?」
「大丈夫。外には出ないから」
急いた様子で残して退室した後、部屋には数瞬の沈黙が通り過ぎた。
セスは椅子に腰を下ろして疲労の溜息を吐く。
「セス様は」
彼のすぐ隣に腰かけたティアは、彼の黒い瞳をじっと覗き込んだ。
「イライザ様とはお知り合いなのですか?」
セスは頷く。
「古い仲さ。少なくとも、あいつにとってはな」
ティアはじっと俯いていた。いつも通りの無表情にも見えるが、どことなく感情の揺らぎがある。それに気付くくらいには、セスはティアという人物を理解し始めていた。
「今回の事件については、旦那様に急ぎご報告を致します。セス様のご助力につきまして当家からの褒賞を上申せねばなりません。なにか、お望みのものはございますか?」
「褒賞? 俺は仕事をしただけだよ。事前に決めた依頼料さえ貰えればいい」
「それではラ・シエラの面目が立ちません。そも、アルゴノートとしての依頼は皇帝陛下から不干渉命令が出た時点で契約満了となっております」
「そりゃ紙面の上ではそうだけど」
ただでさえラ・シエラ領は財政が逼迫しているし、人の良いトゥジクスから褒美を受け取るのは躊躇われる。セスに恩賞を与える余裕があるのなら、その分をラ・シエラの再建に回せばいいのだ。
「実際のところお嬢を救出したのはクローデンなんだ。そっちにも謝礼を送らないといけないだろう」
「無論そうですが、ミス・クローデンがお嬢様を救出しに来られたのも、セス様あってのことではありませんか」
「参ったな」
ティアは頑なだ。アーリマンを叱責した時に見せたような、一歩も退くつもりはないという意志が垣間見え、セスは心中で頭を抱えた。シルキィを助けたのは恩に報いるためだ。それで褒美をもらうのは、セスの信条に反してしまう。
セスは思案する。トゥジクスへの報告にその旨を含ませなければいいのだから、説得するべきはティアだろう。彼女個人に関わる無理難題を吹っかけて、諦めさせるのが次善であると思い至る。
「じゃあ、こうしよう」
セスはしたり顔で手を挙げる。
「ラ・シエラから一人メイドが欲しい」
「メイド、ですか」
「そう。けど俺は人見知りが激しくてね。ある程度お互いのことを知ってる人がいい。剣が振れることと、歳が近いというのも条件に入れようか」
「セス様」
ティアも気が付いたようだ。求められているのは自分だということに。
流石に突っぱねるだろう。彼女のラ・シエラに対する、というよりシルキィに対する情と忠誠は並々ならぬものがある。簡単に離れるわけがない。
ティアは俯いたままだ。何か思うところがあるようだった。
「……わかりました」
その声から、静かな決意が感じられた。
「お嬢様と旦那様には、お暇を頂けるようお願いしておきます」
「え、あれ?」
まるで予想外の返答に、セスの方が困惑した。
「いやいやちょっと待った。そんなこと、お嬢が絶対許さないだろう?」
彼女達は姉妹同然であり、家族とは一緒にいるべきだ。シルキィがティアを手放すなど天地がひっくり返ってもありえない。セスはそう信じている。
「命の恩人なのです。セス様がお望みであれば、お嬢様もご了承下さるでしょう。離れ離れになるのは辛いですが、今生の別れというわけではありませんゆえ。それに」
ティアの手が、ロングスカートをぎゅっと掴む。
「私はセス様を、その……憎からず思っております。義に厚く、誠実で、強靭な意志を持つ。まるで物語の主人公のよう。お嬢様の為に命を賭ける姿を目の前で見せられたのですよ? 私も年頃の女です。何も思わないはずがないではありませんか」
どうやら、セスはティアの心を見誤っていたようだ。
正直、こんな不躾で図々しい要求が通るとは露とも思っていなかった。ティアのことだから、生涯シルキィに仕えるに違いないと勝手に思い込んでいたのだ。
ところが彼女は個人の意思として積極的に誘いを受けようとしている。
やってしまった、というのがセスの本音だった。
「あー……この件はしばらく保留にしよう。なにも今すぐっていう話じゃないんだ。落ち着いた時に、また改めて話し合う方がいい」
いまさら冗談だったとも言えず、セスはその場しのぎの方便を口にした。
ほっとしたのか、それとも残念なのか、ティアの複雑な心境が柳眉に表れている。
「私では、不満ですか?」
「違うって。今はまだその時じゃないってだけだよ」
「では、いずれその時が来るのを心待ちにしております」
セスはひとまず胸を撫でおろした。これでラ・シエラからの褒賞の件も有耶無耶になってくれるだろう。セスはヘネレア領のアルゴノートだ。隣の領とはいえ、依頼が終わってしまえばラ・シエラとの関わりは希薄になる。
「セス様」
ティアの語調は心なしか弾んでいる。
顔を上げると、清楚でいて乙女らしい魅力ある笑顔があった。
「きっとですよ?」
期待の眼差し。セスは引くに引けない事態であることを悟る。
まったくもって、自身の未熟を認めざるを得なかった。




