69.死と邂逅
人の行いの中で、戦争ほど醜いものはない。
戦火をその身に浴びた者だけが、真にその意味を理解する。
帝国歴四十五年。六月。
アシュテネの王位継承者。王子ローウェンもまた、戦争に翻弄された一人であった。
血の滴りが湿った土に染み込んでいく。自身の鮮血に染まった少年はほとんど死の最中にあった。こうして歩いていることが信じられないほどに。
帝国の侵略。圧倒的な物量に飲み込まれ、アシュテネはついに滅亡した。
父王は既に討ち取られた。優しかった母。厳しかった乳母。共に育った子女達。彼らはどうなっただろうか。彼らを置き去りにし、見捨ててまで逃げ出した自分はなんと卑怯な臆病者であろう。国を捨て、恥を晒してまで生きる意味がどこにあるというのか。ただ一人歩く先に、いかなる未来があるというのか。
アシュテネ王家は臣民に慕われていた。建国まもなくして隆盛を誇った祖国で、ローウェンは何不自由なく育つことが出来た。十分な教育を施され、臣下と共に大陸一と称される王家の剣術を学んだ。
思い出を愛おしみ、腰に提げた剣の鞘を掴む。これは、父より託された王者の剣。
王都よりの脱出から都合七日。時折降る雨だけが、少年の喉を潤した。足取りはおぼつかず、自分がどこを歩いているかさえわからない。
トゥジクスとの戦いの後、ローウェンはラ・シエラの森を彷徨った。死に瀕しながら力を出し尽くしたのだ。やがて訪れる眩暈は必然であった。気付けば、柔らかな大地が目の前にある。湿った土はひんやりとして妙に心地よい。
涙は枯れていた。全てを捨てて生き延びるための旅も、じきに終わりを迎えるか。
死にたくない。少年の胸に、唐突な恐怖が去来する。
なんという無情。なんという無力。彼は呪った。傲慢な帝国と、自身の無力を。
言葉にならない感情を抱いたまま、少年はついぞ瞼を落とす。
王子ローウェンは森の中で息絶え、アシュテネ王家の血は永遠に失われるのだ。
身体から滲み出る七色の燐光は、肉体から抜け出す彼の魂かもしれない。それは明け方の空に微かな虹を作り、木々の間から差し込む陽光に溶けていく。
ローウェンの意識は次第に遠のいていった。眠るように、緩慢な死が訪れる。
「虹! 虹だわ!」
ふと、声を聞いた。それと一緒にやってきた足音が、彼の傍らでぴたりと止まる。
「た、たいへん!」
それが誰のものなのか。それすら判別できないほど曖昧な思考の中で。
「ね、ねぇ……生きてるの? 息、してる?」
傍らで呼びかける声に、ローウェンは反射的に答えていた。それは言語にならない呻きに過ぎなかったが、息があることを主張するには十分だった。
「よかった……ってよくないっ。待ってて、いま治してあげるから」
声の主がそっと、体に触れた。湿った服越しでも、その手には温かさがあった。身体の中からじわりと広がるような心地よさ。痛みや疲労が和らいでいく、感じたことのない不思議な感覚。それは、母の抱擁にも似ていた。
全身に広がった温かさと心地よさに魔力の波動を感じる。決して大きな力ではないが、魔力の光は少しずつ確実に彼の心身を癒していた。
荒っぽい息遣いが聞こえる。声の主は、治癒魔法の連続使用によって額に汗を浮かべていた。それでも治癒をやめることはない。
「へいきだからね。きっと……助かるから」
それが幼い少女の声であることに、ローウェンはやっと気付くことができた。
重たい瞼を持ち上げた彼の目に映ったのは、白く華奢な腕と、艶やかなプラチナブロンド。少女の顔は、ぼやけてはっきりとは見えない。
ローウェンは再び瞳を閉じて、彼女がもたらす心地よさに身を任せた。
その心地よさが消滅すると、胸の上に重たさが生まれる。魔力を枯渇させた少女が気を失って彼の上に倒れていた。
少女を押しのけて、ゆっくりと立ち上がる。先程までの衰弱が嘘のように、身体には力が満ちていた。視界も驚くほど鮮明になっている。
倒れた少女は、貴族の出で立ちだ。ここは帝国領内。ラ・シエラの森である。すなわち、この少女はラ・シエラの娘。故郷を侵略したトゥジクスの娘だ。
憎い。戦争を始めた皇帝が憎い。諫めなかった臣民が憎い。故郷を攻めた将兵が憎い。彼らの守る家族が憎い。彼らの掲げた旗が、彼らの握る剣が、彼らの駆る馬が。
帝国の全てが、憎くて憎くて堪らない。激情のままに、少年は剣を抜き放つ。
自分よりもいくつか幼いこの少女は、帝国の貴族。敵なのだ。憎悪に任せてこの剣を振り降ろせば、いとも容易く彼女の命を奪うことが出来る。
「いいのか……?」
高く掲げた剣が陽光を映して煌めいた。その刀身に虹色の光が生まれ、眩いばかりの強い輝きを放つ。虹は天を衝き、七色の輝きを撒き散らした。
ローウェンが継承した虹の魔力。その根源が彼の肉体から離れ、宝玉に宿っていった。
白い頭髪が根本から黒く変色する様は、その現象を証明するかのようである。
「ごめん」
そしてローウェンは、剣を振り降ろした。




