47.そこにある闇の先①
三人は大通りに行き交う人々に混ざって歩を進める。
街に出て以降、まともな会話がないことに耐えきれなくなったシルキィは、意を決してコミュニケーションを図った。
「イライザは、アーリマンとは長いの?」
「出会ってからは三年くらい。でも、そこまで頻繁には会いません」
「そうなの? 一緒に仕事をしてるんでしょ?」
「レイヴンズストーリーがちゃんとした本になった頃、私は闘技場の片隅でひっそりとお店を出していました。できるだけ多くの人に読んでもらいたくて、色々と工夫もしてみたんだけど、売れ行きは全然伸びなくて。そんな時に声をかけてきたのが、あのアーリマンという人でした」
「なんて声をかけられたの?」
「この本の営業と販売を任せてくれないかって。提示された条件は悪くなかったから、せっかくなのでお願いすることにしたんです。そしたら急に人気が出始めて、増刷も追いつかないくらいに」
「へぇ。すごい手腕ね」
イライザはうんと頷く。
「まさかこんなに人気が出るなんて、思ってもみなかった」
「今や国中の人が読むベストセラーだもんね。すごいわよ」
シルキィが感心する傍ら、ティアは相変わらずの無表情である。
「イライザ様の作品が素晴らしいからです。決してアーリマンの力ではありません」
「もうティアったら。すぐそうやってアーリマンの悪口を言うでしょ」
「悪口ではありません。事実を述べているだけです」
滔々と口にしたティアに、シルキィとイライザは目を合わせて苦笑した。
一行はいつしか街のはずれの細い路地にたどり着いた。
賑やかな街の中心とは打って変わり、辺りの人通りは極めて少ない。ぽつぽつとすれ違う人々はこの付近の住民だろうか。
「この場所は、レイヴンとエリーゼが初めて出会った場所です」
「え?」
シルキィははっとして、周囲を見渡した。発展した大通りとは違い、辺りは古めかしい建物が並んでいる。朽ちかけた石造りの家々は、どこか寂しさを感じさせた。
「あ……言われてみれば」
小説レイヴンズストーリーの第一巻。主人公レイヴンが初めてダプアを訪れた章の舞台は、石造りの住宅街であった。この時レイヴンはただの農奴であり、物語のヒロインであるエリーゼは彼を所有する地主の子であった。
図らずも作中のワンシーンに想いを馳せ、シルキィは浮足立ってしまう。
「ここが、百年前に二人がいた場所……でも、どうしてここに?」
「アーリマンからの手紙に、あなたを作品内に出てくる名所に案内してほしいと書かれていました。今はもうほとんどなくなってしまって、残った所はほんの少しだけど」
「ううん、嬉しいわ! なんだか、作品の中に入ったような感じねっ」
「興味のない人からすれば、ただの寂れた路地。こういう場所にも、ちゃんと誰かの歴史が刻まれているんです」
「そうよね。レイヴンとエリーゼにとっては、とっても意味のある場所だものね」
小説の描写と、目の前の光景を重ね合わせる。同じ場面を何度も読み返したシルキィの脳裏には、惹かれ合う少年少女の姿が目に見えるようだった。
「次に行きましょう」
そんなシルキィを尻目に、イライザは歩き出す。
「あ、まってまって」
迷いのない足取りである。シルキィは慌てて彼女を追いかけた。
彼女達は再びダプアの雑踏に足を踏み入れる。間もなくしてたどり着いた巨大な闘技場の門前で、イライザは足を止めた。
「ねぇねぇティア。ここって、あれよね?」
「はい。ダプアの主幹闘技場ですね」
その建造物は、都市のちょうど中心に位置していた。ダプア最大にして最古の闘技場。現存する全ての闘技場の祖となった、人類史上初の円形闘技場である。
とにかく巨大であった。建物の直径は大陸共通の標準単位で三百ミトロを超える。帝国の一般的な成人男性の身長に換算して、約百七十人分に相当する長さだ。観客の収容人数は五万人であり、場合によってはそれ以上になることもあった。
強固な基礎と、定期的な増改築の賜物だろうか。長年使用されてきたはずの主幹闘技場は築後百数十年を経てなお若々しい威容を保っている。
「ここが、レイヴンの」
この場所こそレイヴンズストーリーで描かれる主戦場であった。百年前、剣闘士レイヴンはこの中で実際に剣を振るっていたのだ。彼を語る時、この主幹闘技場は決して欠くことのできない場所である。
「こっちです」
開場待ちの列は、目が眩むほどに長蛇であった。数十、数百、数千。それは待機列というにはあまりにも太く、整然と並んだ人の壁は軍の戦隊を彷彿とさせた。
開場を急かして声を上げる彼らを気にも留めず、イライザはさっさと列の脇をすり抜けた。門番が彼女の姿を見止めると、短い挨拶を済ませてほんの少しだけ門を開く。その隙間に潜り込むと、シルキィに向かって小さく手招きした。
「入っていいのかしら」
言いつつも、シルキィとティアはイライザに招かれて門を潜る。
建物内部は、外の晴天が嘘のように薄暗い。通路の両側に等間隔で設置された松明が唯一の光源である。夏場だというのに、中の空気は不思議なほどに冷たく、誇りっぽく息苦しい。そしてなによりも不快な臭気が鼻をついた。
「う。なに、この臭い」
「血の臭い。死臭です」
眉を寄せて鼻を押さえたシルキィとは対照的に、イライザは平然としていた。
「主幹闘技場では、百年以上も休むことなく殺し合いが行われてきた。数えきれないほどの剣闘士がその血を流して死んでいったんです。年月を経て、観客しか通らないはずのこの通路にまで臭いが染みついてしまうほどに」
ティアが咳き込む。袖元で鼻を塞ぎ臭気を遮断しようと試みても、幾分かましになる程度だった。




