40.イライザ①
アーリマンに促されて立ち入ったのは、街のはずれに佇む集合住宅の一室だった。石造りの建物は築数十年を思わせる年季の入りっぷりだ。扉を潜った先はきわめて殺風景な書斎。あるものと言えば、ぎっしりと詰まった本棚と、小さな机、簡素なベッドだけだった。
椅子には少女が座っている。予告なく現れたシルキィに少し困惑した様子だった。
「彼女がレイヴンズストーリーの著者。イライザさんです」
イライザと呼ばれた少女は、目を伏せて会釈する。
紫がかった長い髪には癖があり、毛先に向かって波打っている。髪の一部を編み込んで作った一房は、昨今の流行からかけ離れた古風な髪型だ。四肢は細く、シルキィよりも少し背が高い。彼女の眠たげな金色の瞳は、どこか蠱惑的であった。
彼女を見た瞬間、シルキィの中に驚愕と称賛、そして歓喜が一挙に湧いてくる。
「イライザさん。急に押しかけてすみません。こちらは――」
言いかけたアーリマンを遮って、シルキィはイライザの前に進み出た。
「はじめましてイライザ。ラ・シエラ辺境伯の長女。シルキィ・デ・ラ・シエラよ」
イライザの手を取って、親愛を念を込めて名乗る。
自分とそう変わらぬ年頃の少女があの壮大な物語を綴っているのかと思うと、名状しがたい誇らしさがこみ上げた。ただの親近感とも尊敬とも違う不思議な感情であった。
「はじめまして、ミス・シエラ。お会いできて光栄です」
眉尻を下げて微笑んだ彼女は、シルキィの握手に快く応じる。
「驚いたわ。まさかレイヴンズストーリーの作者がこんな女の子だったなんて。あ、悪い意味じゃないわよ。もっと年上の人だと思ってたから」
傾倒する小説の作者を前にして、シルキィは舞い上がっていた。目の前の素朴な少女がどうしようもなく偉大で素敵な人物に見えた。ただの読者では味わえない高揚と優越感もあるだろう。どことなく、ただの庶民にはない気品が漂っているようにも感じた。
「あなたの作品のファンなの。ほら、この前出た新刊も買ったわ!」
「わ、ありがとう。嬉しいです」
鞄から本を取り出して両手で顔の前に掲げた。シルキィは心底楽しそうであった。
「よかったらサインを頂けるかしら。もちろん名前入りで」
「ぜひ」
イライザの顔に喜色が浮かんだ。彼女は机の筆を取ると、シルキィから受け取った本の表紙裏にさっと筆を走らせた。
「ありがとう!」
サイン入りの本を受け取ったシルキィは、それを抱きしめて軽やかに飛び跳ねる。人生における宝物がまた一つ増えた喜びを噛み締めていた。
その様子をアーリマンが微笑ましげに見守っている。
「シルキィ様、本当に嬉しそうだ」
「お嬢様にとって、お歳の近いご友人ができるのは珍しいことですからね」
「そうなのかい? それは意外だな」
「決してお嬢様に問題があるわけではなく、そもそも貴族社会の性質として、同等の友人を作ることは難しいのです」
貴族社会は爵位や家格によって上下関係が明白であるし、たまたま同世代の者がいたとしても接点がないことも多い。
やっと友達になれそうな同年代の同性と出会えたシルキィは、ティアとアーリマンのやり取りなど耳に入らず、目の前の少女に夢中であった。
「ねぇ、一つ聞きたいことがあるのだけど」
「はい。なんなりと」
「世間では宣伝のための方便っていう意見もあるけど、レイヴンズストーリーってちゃんとノンフィクションなのよね? レイヴンって実在したのよね?」
イライザはすぐ答えず、壁際の本棚を一瞥した。そこには古めかしい装丁をした無地の背表紙がいくつも並んでいる。
「はい。あの作品は史実です。ほんのちょっぴり、脚色はしてるけど」
「やっぱり!」
原作者の確かな答えは、疑念を払拭できなかったシルキィに感動を与えた。
「なら、エリーゼも本当にいたってことよね。レイヴンを支えた仲間達も。あの意地悪な夫人も悪徳奴隷商も。もしかしたら、レイヴンの子孫だっているんじゃないかしら」
シルキィの声に合わせて、イライザは何度か首肯する。
「やっぱり。やっぱりそうなんだ。本当にいたのね」
うわ言のように繰り返し、顔を綻ばせる。




