23.魔獣コヴァルド②
「ティア、お嬢は任せる。俺が直接足止めするから、エルンダまで走るんだ」
「馬車を降りる? 死ぬおつもりですか?」
「まさか」
コヴァルドが一際大きく地を蹴った。低く軌道で勢いよく跳躍し、セスごと馬車を引き裂かんとその鋭く巨大な爪を振り降ろす。
それとほぼ同時に、セスも馬車の上から跳んだ。
「させるかよ!」
セスの振るった剣が、コヴァルドの前脚の裏を斬り裂いた。強靭な皮膚や筋肉ならいざ知らず、柔らかい肉球ならば刃もよく通る。
痛みに驚いたのか、悲鳴を上げて姿勢を崩すコヴァルド。転倒し、怒りとも嘆きともつかぬ声を放っている。
致命傷とはいかないが、ひとまず足止めには成功した。
だが問題はここからだ。遠ざかっていく馬車の走行音を背中に、セスは額に汗を伝わせた。我ながら、たった一人でコヴァルドと対峙するなど正気の沙汰ではない。
分厚い体毛に覆われた巨躯を四本の足で持ち上げるコヴァルド。ぎろりと開いた瞳でセスを捉えると、身を震わせて牙を剥き、特徴的な甲高い咆哮を放った。大地を震わせ天を衝く、人に恐怖を与える声だ。
「いいさ。やってやる」
コヴァルドの巨大な頭部を前にして、乾いた笑いが漏れた。
「来いよワンちゃん」
コヴァルドは唸りを上げ、突進からの頭突きを放つ。彼我の体重差はあまりにもかけ離れている。まともに当たればひとたまりもない。
セスは大きく右方向に跳び、回避を試みた。コヴァルドの太い体毛が肌を撫でる。紙一重で回避、となれば格好もついたが、現実はそう甘くない。ほんの少しかすっただけだったが、セスの体は凄まじい勢いで弾き飛ばされてしまう。
木々の間を転々とし、地面を跳ね回りながらなんとか体勢を整える。ブーツの底で固い土を引っ掻き、やっと止まった時には、全身に裂傷と打撲を負っていた。
「痛ってぇ……」
剣を手放さなかったのは僥倖という他ない。打ちどころが悪ければ、今の一撃で動けなくなっていた。
セスは剣を構え、コヴァルドの追撃に備える。
森林を縫うようにして、コヴァルドが猛進してきた。距離が詰まると、鋭利な爪を横薙ぎに振るう。大きな前足はセスの胴体ほどもあり、回避する隙間を埋めている。
至近距離からの爪撃。左右にも後ろにも避けることはできない。かといって前進すれば致命的な噛みつきが待っている。
セスはその窮地を、大木を盾にすることで逃れようとした。不規則に並び立つ木々を利用して、コヴァルドの動きを封じる作戦だ。
が、巨体から繰り出された爪撃は、太ましい大木をまるで小枝のように叩き折った。木片が舞い、幹が倒れて土煙を巻き上げる。
「うそだろ……!」
まさかここまでの威力があるとは思っていなかった。しかし、たとえ一瞬でも自分を見失ってくれたのなら、狙い通りである。
姿勢を下げてコヴァルドの眼前に頭から跳び込んでいたセスは、立ち上がりざまに魔獣の無防備な鼻先を二度斬りつけた。体毛に覆われないこの部位は容易く刃が通る。好機は逃さない。大きく仰け反ったコヴァルドに肉薄し、その体毛を掴んで巨躯を駆け登っていく。
「これで――」
セスはコヴァルドの頭を蹴りつけ頭上高くへと跳躍。空中で全身を翻し、眼下のコヴァルドに照準を合わせた。
「終われ!」
降下によって全体重を乗せた剣が、咄嗟に頭を上げたコヴァルドの額に潜り込んだ。刀身の根元まで深く突き入れた刃は、頭骨を貫通して脳に直撃。
コヴァルドは一度大きく身を震わせると、断末魔を上げることも叶わずに力なくその場に倒れ込む。巨躯が地を叩き、土埃が舞った。
静寂を取り戻した森に聞こえるのは、荒い呼吸音だけだ。
骸となったコヴァルドの上で、セスは勝利というよりは生存の余韻を感じていた。
「なんとか、なったか」
長い溜息には、安堵と自虐が多分に含まれていた。




