2話『ヒコウカイ/面接』
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部屋に入ってきた初老の男は、重い威圧感を放っていた。
いや、場を支配する威厳を身に纏っていたと言ったほうが正しいだろうか。
年月と共に色褪せてなお、歴戦の戦士のように揺るぎない力強い眼差し。それを遮る壁を取り払ったオールバックの髪型。身に纏うブラックスーツの上からでも分かる強靭な肉体。
背筋は真っすぐに、軽すぎず重すぎない規則的な足音を立て――男は空席を、飲み干された紅茶のカップを、そして壁際で呑気に佇んでいたオレを一瞥し、一言告げた。
「座りなさい」
「はい」
面接はもう始まっている――そう言われた気がしたオレは素早く返事をして、先に座った男の向かいのソファーに腰を下ろした。
先ほどまでの漠然とした緊張は、もう無くなっている。
だがその代わりに、警戒心が鳥肌のように立っていた。
……この感じ、あのときと同じだ。前の世界で、一度だけふらっと大人たちの事務所に現れた『おやっさん』――あの爺を前にしたときと。
経験という格差。年季という断絶。まるで頂上の見えない巨大な壁の前に立たされているような、己の矮小さを嫌でも思い知らされる感覚。
この人からは、どこか根本的なところで敵わないと思わせるだけのモノ……説得力が、些細な所作から感じ取れる。
ただ者じゃないぞ、アリステラ魔法魔術学院、副学院長――レイヴン。
と、剣を構えるときのように奥歯を噛み締めた、そのとき。
「ここでの会話内容が外部に公開されることはない。第三者に話すことも魔的法則によって読み取られることも、私からは無い。よって、君には、安心して私の質問に答えてもらいたい」
レイヴンは台本を読むようにすらすらと、しかし区切るところは区切り、強調するところは強調し、まるで集団を束ねる指導者のような傾聴を誘う話し方で、そう説明をした。
「ではまず、目蓋を閉じて、自分が線路の脇に立っている光景を想像しなさい」
「……、しました」
言われた通りにする。
てっきり自己紹介や志望動機なんかを訊かれると思っていたので一瞬戸惑ったが、これも面接のうちだとレイヴンの目が言っていた。
どうも、オレが予め用意していた形式的な答えは通用しない、そんな予感が脳裏を掠めた。
「よろしい。続けて想像しなさい。
その線路上では暴走状態にある列車が走っている。
そのまま進めば、レールの点検を行っていた五名の作業員が轢死する。
だが君の目の前にあるレバーを倒せば、線路が切り替わり、列車はもう一方の進路をとることができる。
それにより五名の命は助かるだろう。
しかし、新たな進路上にもまた、一名の作業員が存在している。
二つ目の分岐器はなく、そして避難を促す時間的余裕もない。
つまり、レバーを倒さなければ五名が、倒せば一名が確実に命を落とすということだ。
それでは目を開け、答えてもらおう。
――このような状況に立たされた場合、君はどのような判断を下す?」
「―――――」
この問いを、オレは知っていた。
いや、正確にはオレの中にあるツバサやアネモネの記憶に記されていた。
これはいわゆる、トロッコ問題と呼ばれる思考実験だ。
一人を助けるために五人を見殺すか。五人を助けるために一人を殺すか。大勢のために少数を切り捨てるか。決められた運命に介入することを良しとするか。
そんなことを問いかけている話であり、そこに明確な正解は存在していない。
ならばレイヴンが見たいのはオレがどう思考し、どう答えるか。
価値観や判断を下すまでの時間、その際に現れる、個性だろう。
だったら下手に取り繕わず、思った通りに、オレらしく答える以外ない。
「どうにかして、全員を助けられるように動きます」
思考実験における前提条件の無視に、意味がないことは理解している。
だけどその場に居合わせた時点で、オレはその出来事に関わることを選び、最善最良の結末を目指す。
それが今の、無いモノなりに色々詰め込んできたツキヨミクレハだから。
「どうにか、とは具体的に」
「オレが使える力を使って――」
「それは、吸血鬼としての力や、血液を媒介とした能力の借用、結界の構築や位置の入れ替えを行える剣のことを言っているのかね?」
「……はい」
下調べは完璧ってわけか。まさか聖剣のことまで知られてるとは……。
けどそれなら少なくとも、大言壮語を吐いているわけではないと、多少の説得力は得られたはず。
「確かにそれならば可能だろうな。線路上の人間の避難、結界への隔離、列車を力尽くで止めるなど、方法はいくつも考えられる。――だが、その力は真に、君自身の力と言えるものだろうか」
「――――、」
息を呑んだ。レイヴンは、また別の切り口からオレを試すつもりらしい。
「彼の麗人レイラ・ティアーズから授かった力も、譲り受けた剣も、吸血によって繋がれた縁も、すべては所詮、借り物だ。それらが永遠に君の手元に存在する保証はどこにもない。これまで使えたはずの力が使えない状況に陥った場合でも、君は同じ選択をすることができるか?」
「…………」
すべては借り物、か。
そうだな……否定できない。いや、するつもりもない。
確かにオレは、他者から得た記憶や力を自分のカードとして扱っているが、不死鳥の炎が潰えたことにより、それらが真に自分自身の力とは言えないことを既に実感していた。
でも同時に分かったこともある。
一度灯った炎が消えてしまったとしても、その事実や痕跡までが無くなるわけじゃない。
己が身を焦がすまでに熱いあの劫火――あの温度は、イメージは、オレだけのモノとしてまだこの身体に焼き付き、燻っているんだ。
だから。
「最初は借り物でも、自分のモノにならないわけじゃない。何かは残るから……やれるだけ、やります」
「ふむ」
オレがそう答えると、ふとレイヴンは目を細めて、眼差しを鋭くした。
まるで瞳の奥を覗こうとするような視線。色のない表情。
長く短い沈黙を招き、そしてまた自ら破るために、レイヴンは口を開く。
「ところで数日前……」
選定の双眸は一体オレの中の何を見ようとして、そして何を見透かしたのか。
男は言うのだ。
「君は《列車》に乗ったそうだな?」
意表を突くように、あるいは弱点を的確に突くように、その事実を。
「ッ――――、そ……それは……」
「狼狽えるな。この場において秘匿義務は発生しない。なぜなら私も君と同じく、権利を、持っている側だからだ」
何だって? アリステラの副学院長も……あの権利を……?
都市の治安組織を束ねる騎士団長のアヤメさんですら持っていなかった、オレだってお姫様との奇縁がなければ一生縁がなかっただろう、あれを?
「疑問か? なぜ一介の、学び舎の教員程度がと? 何も難しい理屈はない。この世界には知っておく役目と知らないままでいる役目があり、私と君は前者だった。ただそれだけだ。さて、次の質問に移ろう」
本題はそこではないと言うように、レイヴンは続けた。
「君は何を感じ、思い、獲得した? リタウテットの――海を目の前にして」




