8話『花を育てるにも血が必要で』
☆六月一日午前七時
「――この建物ですね。二階から屋根裏部屋に行くことができて、そこがこの集落の中で一番高い位置にある場所です」
ツユリに案内されて、中に入る。
木造。二階建て。ただし中央部分が大きく吹き抜けになっており、ベランダがあるわけでもないので二階はただ上がれるだけ、もしくは屋根裏部屋への通り道って感じだ。
特に装飾らしい装飾もなく、家具はベッドと簡素な椅子と机のみ。
なんというか、家というよりは倉庫みたいだな。
建物自体は大きくて立派だが、周りの民家と比べると急いで建てられたような荒さというか、本来は生活することを想定していない造りに見えた。
それが証拠に、陽射しがあまり入らず空気の通りも良くないから、例の正体不明の甘いニオイが充満している。
そんな状況の中でツユリは、やはり平然な態度を貫いているが、本当に何とも思っていないのだろうか。
この甘ったるい、ともすれば薄気味悪いニオイについて……。
「ここは元々集会所として建設、利用をしていたんです。紅い月が浮かぶようになってからは魔族の方々がここに集まり、月明かりを防ぐ結界を構築してくれて。それを維持するために泊まりこむ方が増えた結果、このように最低限の家具が集まりました」
「なるほど。魔族の方が結界を」
「はい。ですが朝方になると、全員の体内魔力がほぼ空になってしまって……」
「原理は《傘》と同じだが《支柱》がない以上、魔力効率の面でジリ貧だったというわけですね」
「……ええ。紅い月の出現頻度と、それに伴った魔力消費量は増えていく一方でしたから。最近では結界があっても影響を受けてしまう人や、魔力だけでなく命までも使い尽くしてしまう魔族の方も……」
そこで初めて、ツユリの声が沈んだように低くなった。
亡くなった人を悼み、魔族の献身に感謝しつつも、己の無力さに打ちひしがれているような……そんな複雑さが滲んでいた。
それを見たベル先生は、己の役目を再確認するように拳を握り、ツユリに向き直る。
「早急に《支柱》を設置します。場所は屋根裏部屋に。精密な作業を要するので、半日ほど誰も入れないようにお願いします。そうしたら、安心できるようになった夜の下で、弔いをさせてください」
「……分かりました。どうか、よろしくお願いします」
ツユリは深く頭を下げてから、この場をあとにした。
それを見届けたオレとベル先生は、互いの所感を確かめるように目を合わせる。
オレとしては、そうだな。あまりにもボーダーラインすれすれ。些細な違和感はあれど、際立って不審な点は最後までなかったと思う。
すべてが偶然で、もしかしたら彼女は本当に何も知らず、行方不明の使者についてもこの集落は関係ないのではないか。
そんな可能性を頭の片隅に、けれども着実に抱き始めていたのだが。
「――状況は、想定していたものよりずっと深刻かもしれない」
一刀両断するように、ベル先生が言う。
「マジすか」
「ひとまず屋根裏部屋に行こう。そうしなければ始まるものも始まらない」
そう言って先生は、自分の耳と集会所の出入り口を順番に指差した。
確かにこの木造なら、扉を一枚隔てても聴き耳は立てられるかもしれない。
今のところツユリやほかのヤツの気配はないが、用心して損はないだろう。
オレは頷いて、端のほうに備え付けられた梯子を使って二階に上がった。
簡素な手すりを掴み、老朽化したらあっさり踏み抜いてしまいそうな足場に立つ。
地上から五メートル強は上がっただろうか。
人間ではなく魔族、それもライカンなどの体格に合わせて造ったって感じだな。
《支柱》入りのケースを持ったままでは上りづらいだろうと、下にいるベル先生に目を向ける。
「せんせー、上がってこれそうか――――って、え……」
飛び込んできた光景に……絶句。
なんとベル先生は梯子を上るどころか、壁に沿うように並べられたベッドのひとつひとつに、顔を近づけて回っていた。
どういう理由か、丁寧にシーツを持ち上げて思いっきりニオイを嗅いでいる。
「……なるほど」
そしてそのまま最後のひとつを堪能……? し終えたところで、ベル先生は顎に手を添えて思考を巡らせながら、ふと二階で待っているオレを見つけて。
「ああ、今行くよ、クレハ」
と、何もなかったように呟いた。
「…………」
あまりにも理解できない行動にドン引きしているオレと、ケースを片手に、空いた手だけで身軽に梯子を上ってくるベル先生。
その危なげない様子は、先ほどまでのオレの心配をすっかり吹き飛ばしてくれたが……代わりに見知らぬ誰かのベッドを物色するブルーベルという衝撃映像が、頭から離れなくなっちまった。
「屋根裏はこっちかい」
「……あのさぁ、聞いていいのか分かんねえけど……何してたわけ?」
オレの横を通り過ぎて屋根裏部屋へと上がろうとするベル先生に、恐る恐る尋ねてみる。
「ニオイを嗅いでいた」
「いや、真顔で言われましても……」
「……君なあ。露骨に冷めた目を向けるのはよしなさい。まったく、あれは必要なことだったんだ。いいから早く来るように」
「…………」
さすがに、やばいことをしている自覚はあったらしい。
先生の中にまともな感覚が残っていたことにひとまず安堵したオレは、言われるまま屋根裏部屋に入った。
そこは広くもなく、また狭すぎもしない空間だった。家具や置物がないからそう見えるのかもしれない。
一歩踏み出すと足裏には砂の感触。多分、風で舞い上がったものが、布一枚かけただけの小窓から入り込んだのだろう。
ベル先生はその小窓から見える裏山を一瞥して白衣を翻し、ケースに手を掛ける。
「結論から言おう」
そして中から《支柱》――呪文を書き込んだ三本のリングとランタンを組み合わせた魔具――を取り出し、ぽんと床に置きながら事も無げに言うのだ。
「五日前にこの集落を訪れた使者は、もう死んでいる。よって救出は不可能だ」
「――――は?」
想像もしていなかった言葉に、不意を突かれた間抜けな声が出てしまう。
それを聞いたベル先生は空になったケースに腰かけて、無念そうに溜め息を吐いてから、現状について語り始めた。
「正確には使者二名のうちひとりは依然として行方不明だ。しかしもうひとりは、ここに来る途中で発見した」
「え、どこだよ」
「畑だ」
「えぇ?」
すぐに記憶を手繰る。まさか数分前に見た光景を忘れるはずもない。けど、うーん……本当に畑、なんだよなぁ?
思い出してみた感じ、ライカンが鍬を持って土を耕したり、収穫できそうな野菜――多分リタウテット特有のモノ――の様子を見たりと、土いじりしていた以外の印象はないんだが。
あの景色の一体どこに使者が、それも救出不可能だと思わせる姿で居たというのか。
「先入観だな。君はリタウテット産の食物に関して見識が浅い。ゆえに見たことがないものでも、大抵は元の世界でいう、大根やイモのようなものだろうと思ってしまうのではないかな?」
「んー……まあ、店でも騎士団の食堂でも似せ料理は結構食べてるし、確かに」
多少変なモノが出てきても、食べてみたら味はちゃんと鶏肉だとか林檎だとか、そういった経験は今でも週に二回三回はある。
でもだからって、人と農作物なんか見間違えるはずが……、
「いや実際のところ、あまりにも堂々としているから僕も目を疑ったが――収穫した作物を入れるケースの中に、人間の手足が混じっていた」
「はあ――ッ⁉ ウソだろおい⁉」
人の、手足。
農作物と見間違えるほどに切り分けられた、人体。
クソ……胸糞悪い想像しちまったぜ。
「残念ながら事実だ。まあ、あれが使者のものであるという確実な証拠はないが、同じ集落の住民の死体を、ツユリや魔族たちがあんなふうに扱う理由が思いつかない。だからあれが使者のひとりだと仮定するとだな。ひとりがバラバラなら、もうひとりも無事ではないだろう」
五日。最初の使者が訪れてからオレたちが来るまで、それだけの間が空いてしまっている。
確かに生存は絶望的だろうと、オレは奥歯を噛み締めながら状況を飲み込んだ。
「だが、重要なのはここからだ。政府の使者が殺されたという最悪の事態――この集落がかつて中央都市を出奔した者たちで形成されていることを考えれば、この殺人は、政府と住民たちの間にあった何らかの確執が原因なのではないか、と推察できる……が、今回は違うと僕は思う」
「中央都市政府と喧嘩するつもりじゃなくて、別の事情があるって?」
ベル先生が頷く。
「おそらくこの集落では使者が訪れるよりも前に、既に事件が起きていたんだろう。使者は運悪く巻き込まれてしまったんだ。そこでまず、不審な点をふたつ挙げよう。第一に、君はここに来てからツユリ以外の人間を見かけたか?」
「……いや、見てねえ。でもそれは……」
ただの偶然という見方もできるぜ。
なぜなら、紅い月の影響で魔族はこの集会所に集まるようになったって話だ。
そこをオレたちが立ち入るために人払いしてもらったのだから、魔族しか見かけないのは当然といえばそうだろう。
まだ朝も早いし、案外ツユリ以外の人間はほかの八つの家で普通に寝てるだけかもしれない。
それか……嫌な想像だが、紅い月の影響で姿を見せられないことになってるってパターンもなくはないだろう。
「確かに根拠はまだ薄い。偶然と考えることもできる。しかし事実のみを抜き出すと、僕たちは未だ集落内でツユリ以外の人間を目にしていない。そして第二に。この集落では薬物――イメージしやすいものに言い換えると、麻薬が蔓延している」
「麻薬ぅ?」
まさかそんな言葉を異世界で聞くとは思わなかった。
「間違いない。その証拠にさっきすべてのベッドを確認してきたが、どれも薬物中毒者特有の甘い体臭が染みついていた」
「あ~、だからさっきめちゃめちゃ嗅いでたわけね」
「めちゃめちゃ嗅いではいない」
「え、つーことはさっきから漂ってたこのニオイ、薬中のニオイってことかよ……うげ~」
「話を聞きなさい。めちゃめちゃ嗅いではいないからな。分析に必要な分だけだからな。でだ……僕は十数年前、騎士団による大規模な薬物の取り締まりに協力した際、出回っている主な違法薬物の成分をすべて記録させてもらったんだ。よって僕は体臭からでもある程度、使われている薬物の絞り込みが可能、なのだが……」
ベル先生は声を区切った。
それはつまり、想定外の状況下では、想定外のモノが動いているということだろう。
「一応、一致した成分はあった。薬物としては幻覚系、脳神経に作用し暗示もかけられるようなタイプが候補に挙がる。が、新種がぽんと群生していたのか、カクテルか、あるいは魔的要因によって生み出された変異種か……何にせよ未知の成分が多くてな。そもそも中毒者特有の香りとは、正確には甘いというより甘酸っぱい、刺激臭に近いもので、こんな数種類の花の匂いを凝縮したようなニオイとは違う。ここまで甘ったるいニオイを漂わせる薬物のデータはないんだ」
「ふーむ……」
「それに短時間の観察だが、先ほどすれ違った魔族たちに中毒者特有の目の充血や、咳をするなどといった症状は見られなかった。しかしその一方で、このニオイの濃度は、趣味や医療用でたまに使っているなどというレベルでは絶対にありえない。……まったく、これは都市外ならではのケースだ。今の中央都市が薬物に厳しいのは、こういった事態を避けるためなのだから」
……なんだかとんでもない話になってきたぜ。
使者が殺された原因が中央都市や政府との確執でないなら、この集落に蔓延しているというその薬物に関係あるのだろうか。
五日前より以前から住民には薬が出回っていて、それを外部の人間に知られるのは都合が悪かった。だから口封じをした……とか?
と、そこでふと思う。
「でもツユリから薬のニオイはしなかったぜ?」
「ああ。それも言い換えれば――この集落では魔族のみが薬物を摂取しており、人間はその状況を看過している、ということになる」
「わっかんねーな。魔族が薬を独占してるってことか?」
「不明だ。薬の効果を考えれば、その逆ということもありえる。ひとまず僕はこれから、裏山の調査に行ってくるよ」
「え?」
「もしこのニオイの原因が群生あるいは栽培されているとするなら、山中が怪しい。実物を見れば新たな情報が掴めるかもしれないし、どっちみち物証は必要だ。日が沈むまでには戻ってくるから、そのつもりで」
「いやいや、ちょっと待ってくださいよせんせー。日が沈むまでにって《支柱》の設置はどうすんの」
さっき先生はツユリに、精密な作業を要するから半日ほど集会所に誰も入れるなと言ってた。
だからてっきりオレは、《支柱》の設置にはそれなりに時間がかかるのだと思っていたのだが……しかしベル先生はなんとなしに言うのだ。
「それならもう済ませた。ツユリに伝えたのは僕が自由に動くための方便だ。大体僕たちは、道中で休憩時間が来るたびに《支柱》の調整をしていただろう。それ自体は簡単に済む。強いて挙げるなら《支柱》が盗まれないよう防犯システムを構築するべきだが、自分たちの身も危うくなる以上、集落内に下手な真似をする輩はいないだろう。それに、事件の発生によって《支柱》の設置そのものが不要になるかもしれない」
だからまずやるべきは調査だと、ベルトの金具を弄りながら言うベル先生。
どうやら先生はそこに仕込まれたワイヤーを使い、さながら特殊工作員の如く、小窓からこっそり集会所を出るつもりらしい。
「じゃあオレは? 調査なら魔眼があったほうがいいかもよ」
「ダメだ。必ずしも必要になるわけではない。そうでなくとも今は使用を避けるべきだ。魔術が隠匿されてる元の世界や、痕跡を完璧に消せるマジックアイテムがあるならともかく、リタウテットでは魔法魔術は身近な法則……対人で使えば必ずと言っていいほどバレる」
痕跡を消せるマジックアイテム……アネモネが使ってたコンタクトレンズみたいなものか。
確かにオレはそんなの持ってない。となるとあの場で魔眼を使っていたら、ツユリを疑っていることがバレて状況がややこしくなっていたかもしれないのか。
「ああ、だからさっき足踏まれたわけね」
「む、そういえば謝罪を忘れていたな。悪かった、クレハ」
「や、理由があんならいいけどよ。結局じゃあオレは、ここで待つの?」
「そうだ。ツユリが様子を見に来るかもしれないから、僕が作業しているように誤魔化してくれると助かる。なに、クレハ。白状すれば僕の戦闘能力は君よりもずっと低いんだ。いざというときは頼りにさせてもらうから、今は温存していてくれ」
そう言ってベル先生は、止める間もなく白衣を脱いだ登山スタイルで、ワイヤーを使って外に降下していった。
「……温存ねえ」
なんだか上手いこと言い包められたような気もするが、確かに魔眼のような強力な力は使いどころを間違えちゃいけない。
使うべきときには使い、使うべきでないときには使わない。
聖剣や吸血と一緒だ。そんな当たり前のことを再確認しつつ、オレは横になった。
とはいえ何もしないわけにもいかない。そう思ったオレは目蓋を閉じ、これまで抑えていた感覚を少しずつ鋭敏に研ぎ澄ませていく。
嗅覚は人並みに抑えたまま、聴覚を吸血鬼に相応しいモノへと。
「――――」
さすがに建物の外となると風音に阻まれてノイズ混じりのラジオを聴いているみたいになるが、魔力を使わない純粋な身体能力であれば相手に影響を与えず、悟られることもない。
集中する意味も込めて目を閉じていれば、休息にもなる。
まさに一石二鳥。我ながら時間を無駄にしない冴えた作戦だぜ。
……妙な気分だな。前までのオレだったら多分、何もせず昼寝してたと思う。
でも今はそうじゃない。お姫様の依頼を引き受けた責任感か、ベル先生に対する意地か、それともオレの寿命があと一年しかないからか。
なんとなくオレは、今ある時間をどう使うべきなのか、それを常に意識し始めているような気がした。
☆六月一日午前九時四十分
――朝顔が、咲いていた。
否。それは朝顔とは似て非なる、チョウセンアサガオという強い毒性を持つ花……いや、それともまた似て非なる、ナニカ。
その花は淡い陽の差し込む山窟の中で咲いており、紅い月光のようなトリップに誘う性質を持つと知ってなお、美しいと思わされる花園を築いていた。
雄々しくも艶やかなる真っ赤な花弁。生命力に満ちた深緑の蔓。それらは渦巻くように伸びて、そして。花園の中心には、刺々しい荊に全身を縛られた――女の子がいた。
瞬間。これらの花はすべて、あの女の子の血を吸って咲き乱れているのだと、直感した。
無いはずの心臓が震えた。
一目見ただけで、あの子は運命に翻弄されていて、そのレールを敷いたのが集落の住民たちであると理解し、激しい怒りを覚えた。
「――――――――」
その虚ろな目と、視線が交わる。
女の子は何も言わない。何も言えない。ただひたすら、成すすべなく諦めるように、あるいはそれすらも理解していないように、荊の棘が突き破る自分の肌を、流れる鮮やかな血液を、じっと受け入れていた。
思う。女の子は、抵抗したのだろうか。暴力に屈したのだろうか。欺瞞に踊らされたのだろうか。
それとも――。
分からない。はっきりしているのは、女の子には人並外れた魔力が宿っているということ。
それが血液を通じて、荊を通じて、朝顔もどきを新種の麻薬……魔薬草に変異させているのだということ。
そして、もうひとつ。
女の子の髪は、血液よりも紅月よりも傷付いた赤色をしていて。
それがたとえ、本人の意志でなかったとしても。
長い蔓のように腰まで伸びたそれが僕には、青い鈴の人形には。
ひとつの命が、必死に生きようとしている証に――見えたのだ。




