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鏡面のクロノスタシス  作者: 悠葵のんの
三章【月下狂乱の物語】
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5話『紅い熱視線は誰の何のために』

☆六月一日午前一時四十五分


「ぐッ、ぁ――が――⁉」


 最初に覚えたのは、波に(さら)われたような感覚だった。

 密閉空間の中で轟音を炸裂させ、縦横無尽に反響する音の狭間に閉じ込められてしまったかのような……平衡感覚の喪失を促す波長が、寄せては返す透明な波として全身を包み込んでいく。


 一秒経つごとに震える身体。揺れる視界。崩れていく脳。

 ああ、ダメだ。間に合わない。戻れない。

 もうツキヨミクレハはどうしようもなく、空に浮かぶあの紅い月に、魅入られてしまっていた。


「ん、だよッ、これ……⁉」


 耳に届く音のすべてが左右に揺れて聴こえ、連続していた意識が断線し、何かがそこに割り込もうとしてくる。

 頭痛。眩暈。幻聴。脱力感。ありとあらゆる正常を失う中で――しかし最も深刻なエラーは、()()()()()()()()()()()ということ。


「ク、ソ……誰なんだッ、テメーはァ……⁉」


 相手が誰かは分からない。けれど確実に、身体の内側にあるツキヨミクレハの魂が、紅い月の向こう側で嗤う何者かと互いを認識し合っていて。

 脳を蒸発させる周波数に向けてカチカチとダイヤルを調節していくソレに、どこか既視感を覚えた――束の間。


「歯を食いしばれ!」


 懐に入り込んできた白い影が、蘇生のための電気ショックを実行するが如く、オレの胸を強く殴りつけた。


「うぼあァ⁉」


 それは月に魅入られた意識を現実へと引き戻すための、強烈な一撃。

 続いたのはあまりにも間抜けな声。

 呼吸が止まり、浮遊感を覚え、後頭部をぶつけ、オレはそのまま跳ね回るように腰と尻を強打する。


「……ッ、――ぐ、ぅ」


 脳震盪的な意味合いでいまいち定まらない視界。

 それでも何とかピントを合わせていくと、オレの身体が馬車の中に戻っているのが分かった。

 どうやらベルがオレを思いきり殴る形で、月下から遠ざけてくれたらしい。


 そして一瞬。月明かりから逃れたその一瞬で、それまで身体を支配していた異常は鳴りを潜めた。


「い、ってぇ……なんだ、今の……頭ガンガンしやがる……」


 悪夢でも見てたような気分だぜ。いや、悪夢が現実になりかけていたって感じか?

 自意識の境界を取り戻したところで、体内を換気するように溜め息を吐いた。

 反対側の扉に打ち付けた腰をさすりながら、顔を上げる。

 すると入り口には、乱れた前髪を掻き上げるベルがいた。


「ふー……手荒な真似をしたな、許せ。しかし君も君だぞ。まさか魔力防壁もなしに《支柱》の外に出るとは。自殺衝動には見舞われていないようだが、無事か?」


「おあぁ……わりー助かった。つか、ベルだって外に出てただろ。なのになんでオレだけこんな目に……」


「僕は《人形(ドール)》だ。馬車(こいつ)に繋がれている木馬同様、月の冥府に縁がないから、症候群が発現することはないんだ」


 機械仕掛けの身体だから、ということだろうか。

 ああもしかして、《傘》の外での活動が可能だからベルは今回、オレの同行者に抜擢されたのか?


「それよりクレハ。君、瞳が紅く光っているが……それは魔眼だな」


「あ?」


 手のひらを目元に翳してみると、確かに淡い光が反射した。

 魔眼が発動しているというベルの見立ては、どうやら間違っていない。


 でも、なんでだ。

 オレは別に魔眼を、吸血によって手に入れた悪魔の目を使用したつもりはない。

 その必要にも駆られていないのに、なぜ。


 と、そこでオレの中に、まるっきり心当たりがないわけでもないことに気付く。


 自分の意図しないところで発動してしまう魔眼――それは以前ミアが言っていた、共鳴という現象じゃないだろうか。

 正確には潜在意識の誘導だったか。

 少なくとも前に魔眼が勝手に発動していたときは、ミアがそういう風にオレに働きかけていた。


 となると、にわかには信じがたいことだが。


「まさか、月と共鳴したってのか……?」


 可能性を口にしてみる。


「月と? ふむ……」


 まあ月がオレの意識に介入して魔眼を発動させるなんて、意味不明なことこの上ないが……それでもそれを聞いたベルは、腕を組んで思案を巡らせているようだ。

 車内が夜の静けさに包まれること数分。


 小さな博士は短く息を吐いて、肩の力を抜くようにこう言った。


「ま、今は放っておこう」


「え」


 まさかの放置。白衣が様になっていたから、てっきり学者先生みたいに、仮説のひとつでも出してくれるのかと思ったんだが……。

 そんな肩透かしを食らったオレの表情が透けて見えたのか、ベルは、


「月と君の魔眼が共鳴したのはおそらく同系統の力だから、だろう。しかし現時点ではそれ以上のことは何も分からない。月がおかしくなったのは冥府で何かが起きたからだと考えられているが、地上で生きる生者が天の彼岸に干渉できるはずもない。……つまり、どちらの面から攻めても行き詰ってしまうんだ。ならば今は事実のみを記録し、できることを果たす。思考の簡略化と目的を見失わないことは、長生きの秘訣だよ」


 と、子供の姿ながらに貫禄のある考えを語った。


「……アンタ、実際のとこどんだけ生きてんだ? 年長者って言ってたけど」


「そうだな。聖戦参加者の中では二番目だ。二番目に長くこの世界に存在している」


「ふぅ~ん?」


 この外見で上から二番目って、いよいよ分からなくなってきたな。果たして最年長は誰なのやら。


 にしても、生きているとは言わず存在しているときたか。

 冥府に縁がないという言葉と合わせて考えると、その機械仕掛けの身体はどうやら、生命の定義には当てはまらないらしい。


 不死の吸血鬼、死んでも蘇る不死鳥、生命力のストックができる悪魔、そして――()()()()()()()()()()()


 それは、聖剣の譲渡のために通過しなければならない、死を乗り越えるための資格。

 人形はそういう風に、輪廻から外れているんだな。


 あれ、だとしたら……と、不意に疑問が浮かぶ。


 天使の店で出会ったブルーベルの眷属である女の子――あの黒い着物を纏ったカグヤは、人から人形の眷属になってどんな変化があったのだろう。


 聖戦参加者の眷属になった元人間は、オレも含めて三人とも主人の性質を受け継いでいた。

 オレは言うまでもなく、ツバサは死んだらちゃんと生き返るし、ミアもアネモネ以外としたことはないみたいだけど、生命力を奪う能力自体は持っていた。この世界に引き継いでしまった難病を治すきっかけになったのもそれだ。


 だったら、人形との眷属契約でもたらされる変化とは一体――?


 答えは出ない。出なくても構わない。

 これはきっと、次の瞬間には忘れてしまうような、ちょっとした思い付きだ。


 ただ何となく、ミステリアスな笑顔を浮かべていた彼女のことを思い出したというだけの、些細な――。


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