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鏡面のクロノスタシス  作者: 悠葵のんの
二章【地雷乙女の物語】
34/81

9話『恋は、知らねえよ』

「……どう、して……?」


 戸惑いの言葉。今度はミアがそれを口にした。

 なぜなら。鼓動を増す心臓。荒くなる呼吸。額に滲む汗。冷たく震える全身――発露したあらゆる恐怖を一瞬でねじ伏せ、絶対的な冷静さを以て、オレがミアの口づけを止めたから。


「――――」


 明鏡止水。相棒にそう名付けられた暗示がオレには存在している。

 それは生存本能が刺激されることをきっかけに発動するもので、スイッチが入った瞬間、思考は透明な海へと沈む。

 水面は凪。降り注ぐ月光は静謐なる青。

 絶対的平静。超然的冷徹。――生き残るために、脅威を退けるために全神経を注いでいる状態だ。


 理性が本能を完璧にコントロールしている状態と言い換えてもいい。

 だからこそオレはこう言える。

 自分の口から出ているとは思えないほど、冷淡な声で。


「そういうのは本当に好きになったヤツとするもんだよ」


「……ッ、知った風なこと言うなぁ! もういいよ、こうなったらお前の全部を暴いてやる! 見せてやるから……お前とわたしが同類だってッ‼」


 刹那、ミアの瞳が一際強く輝いた。


「――――、ぁ」


 見られたという感覚と、視られたという確信が脳を貫く。

 皮膚の下。骨でも臓器でもない、もっと内側にある概念的なもの――魂を、射抜かれたのだ。


 ツキヨミクレハが積み上げてきた歴史を、まるでアルバムでもめくるようにミアは遡っていく。

 その情景は、(あか)い瞳を通してオレにフィードバックする。


 ああ……オレも、オレ自身の過去を、覗くんだな……。


 リタウテットに来る前の毎日。廃バスで寝て過ごした夜。空白のページ。借金を返すために手伝わされた仕事。母親が自―した記憶。空白のページ。空白のページ。空白のページ。どこかの森を彷徨っている記憶。マリアとのたわいない時間。空白のページ。ある夏の日――アパートの一室。窓は開いていて。カーテンが揺れている。エアコンはついていない。むせ返るほどの湿気。熟れた果実のニオイ。セミの声が鬱陶しくて仕方がない。汗で肌に張り付く服。不快感と気怠さは緩やかな死の予兆。家具の少ない部屋で目立つ大きなベッド。腰かけて読書をしているワンピース姿の母親。肩紐はかかっておらず。髪もずいぶん乱れている。これは逆再生だ。コトは既に終わったあと。だからこのまま進めば見られるだろう。親に―される子供の、何でもない日常が。ああほら、オレの視線が窓から天井へ。天井から広げられた絵本へ。絵本から床に転がる自分の手足へ。手足からベッドの上の母親へ――そこでオレは、目蓋を閉じた。


 忘れていないことを、わざわざ再生する趣味はなかったから。


 そしてその選択は、()()()()()ミアの顔を見る限り正解だったみたい。

 同情か。嫌悪か。親近感か。それとも全部を見なかったことにするのか。

 一体どんな反応をするのだろう、なんて冷めた思考を走らせているとミアは。



「おかしい……変だよ。()()()()()()()()()()()()()()()……?」



 予想もしていなかった疑問を口にした。


「こんな継ぎ目、目を凝らさないと視えない。綺麗すぎる術痕。なのに記憶の空白が多すぎる。それに、誰がクレハに暗示(こんなもの)をかけたの? 自覚がない。深層心理が隠しているわけでもない。情報は確かに在るのに鍵がかかってる。誰が……こんなこと……」


 正常ではない。つまり、異常な状態ということ。

 ツキヨミクレハの中には確実に、何者かが隠蔽した()()がある。

 その事実を自分に対する強い拒絶だと感じたミアは、ムキになってオレを見つめ直した。


「絶対特定してやる――」


 暗闇に浮かぶ赤い星。

 それは他人の瞳だけでなく、己の眼球さえ焼くほどに輝きを増していく。

 再び覚える、射抜かれたという感覚。言いようもない不快感にオレは目を逸らした。

 ミアを視界から外せばフィードバックは来ない。


 だからまあ、気が済むまでやればいいさ。

 どうせ見て困るものがあったとしても、見られて困るものは何もないのだから。


 オレは自分の魂の状態なんかに興味はない。

 と、結論を下した次の瞬間。


「、、、、、、――――――――――ぁ」


 息を吸う短い音が聞こえた。

 突如として呼吸を遮られたような、普段ならば聞かないはずの声。


「ミア?」


 見上げた彼女の顔は、固まっていた。

 時が止まったのかと錯覚するほどに視線も、呼吸も、垂れた髪の毛一本に至るまで、すべてが凍り付いていた。

 しかしそれも一瞬。

 氷解の時が訪れ、止められていた感情が動き出す。


 瞳孔が緩慢に開いていき。同時に視線はわなわなと揺れ惑い。

 手足が繊細に引き下がり。身を守るように自分を抱きとめて。

 酸素が浅薄に吸引される。二酸化炭素は吐き出されていない。


「はぁぁ――――」


 喘鳴(ぜんめい)。強引に息を吸い込む金切り音が響いて、静寂は切り裂かれた。


「いや――いやあああああぁぁぁぁぁぁぁああああああああ!!!!!!」


 ミアは仰け反るようにベッドから転げ落ちて、すぐさま走り出す。

 まるで檻から逃げ出した動物のように、家具をなぎ倒して物を散乱させながら、壁にぶつかっても止まることなく室内をぐるぐる駆け回っている。


 異様な光景だ。何がどうしてこうなったのか。

 はっきりしているのはミアがひどく怯え、恐怖し、何かから逃げているということ。

 瞳に映るミアの心も同様だ。とにかく圧倒的な畏れに支配されている。

 だからこそ、それ以外は何も読み取れない。


 ただオレにはその姿が、孤独に押し潰されそうになりながら必死に森の中を走る迷子に見えて――既視感。


「ミア……どうした、ミア!」


「いやだぁ! 来ないで! 来ないでぇ! 来るなってばぁ‼」


 ミアはオレを見て叫ぶ。

 オレの中の何かを視て叫ぶ。

 まずい。明らかにパニック状態に陥っている。

 呼吸は乱れに乱れ、汗の量も瞳の輝きも尋常じゃない。


 何よりたった今、オレの《血識羽衣(アルカードレス)》が解かれた。

 ミアからの共鳴とやらが無くなったのだ。

 つまりあいつはもう、自分の力を制御できていない。


「目を閉じろ! 今すぐ目を閉じるんだ! ――クソッ!」


 今さら声など届くはずもない。

 浮かぶ選択肢はふたつ。ミアの視界から消えて能力が収まるのを待つか、今すぐミアの目をこの手で閉じるか。

 ――即座に後者が確実と判断して動き出す。

 早くしないと、何もかもが手遅れになってしまう予感がした。


「んぐッ、はッあ、ぁう、ぎ、ァ……ゆき、ユキ、雪に混じって……花びらが……ぁぁあああああ!!!」


 錯乱した彼女は足を滑らせ、ドレッサーに勢いよく追突する。

 鏡の割れる音が悲鳴のように木霊し、衝撃で開いた引き出しからは、いくつもの化粧品と一丁の黒い()()が転がり出てきた。


 どうしてそんなものを持っているのか、考えている暇はない。

 鏡の破片で切ったのか、それとも元々あった傷が開いたのか、血の滲むミアの左腕を駆け寄ったオレが掴む。

 まずは暴れないようにして、それからもう片方の手で赤い星に手を伸ばす。


「――ッ、触らないでよぉ‼」


 力任せに拘束を振りほどき、ミアはすぐそこに落ちていた拳銃を掴み取った。

 引き金にかかった指は左の中指。

 止める間も避ける隙もなく、発砲音は鼓膜を貫いた。


「――ァ、――ぐッ⁉」


 明滅する視界。一秒遅れて、脳が漠然と理解する。

 撃たれた。……撃たれた、撃たれた。

 銃口から発射した弾丸が脇腹を貫通した。

 どうしてか血の一滴すら流れていないけれど、鳴り止まない耳鳴りが平衡感覚を喪失させる。


 オレは堪えきれずその場に膝をつき、一方でミアは両目を開けたまま、悪魔の目を発動したまま、倒れた。

 その意識は完全に失われていた。

 

「……ッ!」

 

 ふざけんな。なに致命傷を負った風な顔してるんだよオレは。吸血鬼の身体はやわじゃないだろ。こんな傷すぐ治るはずだろうが。ほらさっさと立ち上がれ。撃たれたことなんか気にしてないでミアを助けるんだよ――と、全身に力を込めた時だった。


 部屋の扉が音もなく開かれる。

 否。それは飛び込むように乱暴な開け方だった。音が聞こえなかったのは耳鳴りが止まないから。

 外から差し込む月明かり。

 否。それは南区特有のけばけばしい光。けれどスタァにかかれば洗練されたスポットライト。

 


「彼()――(何を)()

 


 ――入り口に、アネモネが立っていた。

 突如として現れた主は、眷属の姿と部屋の惨状を一瞥して言う。


「い()、も――(うい)い。すべ――(て理)()た」


 音の波形は未だ大きく揺らいでいるというのに、それでも言葉が届いているのはアネモネの卓越した発声技術のおかげ。

 何の言葉もなしに状況を理解してくれたのも、持ち前の鋭い洞察力によるものだろう。


「た―――(だ目を)閉じる()けでは―――(もうダ)メだ。今か()十五()前までの――(記憶)を改――(竄す)る。()さか、クレ――(ハの)――(にミ)アを狂わせ―――(るほど)()淵が()ったと()()()だっ()よ」


「……、……?」


 次の瞬間、アネモネによって()()が行われた。

 何をしたのかは分からない。

 強いて挙げるならアネモネの行動はふたつ。

 ミアを抱き起こしたことと、その燃えているような(あか)い瞳に、視線を重ねたことのみ。


 オレはすぐ、悪魔の目を使ってミアの内側に干渉したのだと思った。

 しかしアネモネの瞳の色は紅にはならず普段通り黒のまま。

 だとすればこの考えは、違うのだろう。

 方法は謎。手段は謎。それでもただ事実として。


「終わったよ。せめて……善い夢を見れますように」


 主による眷属の救助は十秒もかからずに完遂されたのだと、正常な脈拍を取り戻したミアを見て悟った。

 花を愛でるような優しい手つきで、ミアの目が閉じられる。

 鮮やか過ぎた紅い光は消え、荒れた呼吸はすっかり元に戻り、寝顔もいつもの少し寂しげなものに落ち着いたようだ。


「助かった、のか……。……よかった」


 安堵からため息を吐いてようやく、聴覚を阻害していた銃声の残響(みみなり)が収まったことに気付く。

 ついでに明鏡止水も切れちまったな。

 冷徹な思考が熱を帯びてきたのを感じるぜ。


「『今日はこのまま安静に。明日にはよくなるよ。何かお詫びを用意しておくといい』」


 言いながらアネモネが、ミアをお姫様抱っこして通り過ぎていく。

 目的地はベッド。到着したら抱えた身体をそっと下ろし、乱れた前髪を整えてあげてからシーツを被せた。


「……わりぃ、色々と」


「『謝罪ならミアに。ボクだって立場は同じさ』」


「……?」


「『……それにしても左の中指か。意外なチョイスだ』」


 アネモネが近くに転がっていた拳銃を拾い上げて、そう言った。


「『一応尋ねておくが君、この世界に家族は?』」


「いねえけど……なんで?」


「『発揮される効力が指によって変わる。左の中指は被弾者ではなくその血縁者にダメージが行く呪いのようなもので……いや正確には、被弾者にも何かしらの変化はあるか。虫の知らせと呼ばれるものや、因縁生起(いんねんしょうき)に介入される不快感とか。だが単なる攻撃なら右の人差し指でいいはずなのに、なぜ……いや、話し過ぎたな』」


 ()()()()()――だったね。小さく呟いたアネモネはぬいぐるみでも置くように拳銃をミアの枕元に添えて、そのまま部屋を出ていこうとする。


「行っちまうのかよ?」


「『知ってるだろう。ボクはミアに嫌われている。今回も、また余計なことをした』」


「じゃあどうして近くにいたんだ?」


「『君に明日の追加台本を渡しに来ただけさ。けど、もう必要ない』」


 扉が開かれた。再び差し込むけばけばしい光はアネモネの横顔を浮き彫りにする。

 清廉であり、流麗であり、壮美であり、冷徹である――夜の青さをそのまま宿したような表情。


「『君は残り二週間と少し、ミアの側で恋の押し引きをするといい。最初からきっと、それが良かったんだ。じゃあね……男のクレハ』」


 アネモネは静かに告げて部屋を出た。

 残された静寂。しばらくして響いてきた階段を下る足音は、どこか重く。

 それは未練に引っ張られた足取りにも、後悔を抱えて逃げ出す足取りにも思えて。


 抜け殻のように眠るミアと、その目蓋を優しく閉じたアネモネ。

 オレは両者の間にどうしようもない()()()を感じた。

 たとえ一方が一方を嫌っても、拒絶したとしても断ち切りがたいような――深い感情(なにか)を。


「おっ、起きた。あー……水とか飲む?」


 翌日の昼。突如電源が入ったようにパチリと目を覚ましたミアに、オレは聞く。


「わたし……あれ、なんで……?」


 身体を起こし、普段着のまま寝ていた自分を不思議に思うミア。

 荒れた部屋をぼんやりと眺めて、ふと枕元に拳銃を見つけた彼女は、記憶を手繰るように黙り込んだ。

 それから数秒。ミアはオレの頭から爪先までを確認して言う。


「そっちの身体なんだ」


 そっちというのはつまり、伸びた金髪、膨らんだ胸、細い手足に少し縮んだ背のこと。

 ああそうさ。昨日紅い瞳によって取り戻した男の身体は、見事女のモノに元通りだ。


「なんかちょい寝落ちしたら戻ってた」


 ほんと勘弁してほしいぜ、まったく。


「つか昨夜のこと、どこまで覚えてるんだ?」


 アネモネはミアの記憶を改竄すると言っていた。

 それが見てはいけないモノを見た記憶を削除するということなのか、それとも認識できないようにするのかは分からないが。

 少なくとも、昨夜の出来事が丸々無かったことになってるワケじゃあないらしい。


「えーっと……はっきり思い出せるのは……クレピの記憶を覗いたところまで」


「ふむ」


「あと、ちゅーの邪魔された」


「……ふむぅ」


 軽く目を潤ませて、親指を口元に当て、守りたくなるような上目遣いをするミア。

 きゅっと胸が締め付けられる。

 ミアの気持ちを断ったこともそうだし、何より言われて気付いたんだ。

 オレはオレに向けられる好意を嬉しく思って、自己肯定っていうのかは分からないけど、それを何かの土台にしてた。


 本当はミアの好きと、オレの好きが重なることはないって分かってたはずなのに。

 そんな曖昧な態度だったからこそオレは女の身体になっちまったし、ミアを傷つけちまった。

 この罪悪感は、またも負うべき責任を見逃していたオレへの、当然の報いってやつだ。


「……悪かった、ホントごめん。昨日は……いやこれまでも、オレはミアに向き合ってなかった」


 好意を向けられた相手としても、聖戦の対戦相手としても。


「……ううん。ミャアもごめんね。ひとりだと色々考えて、不安になっちゃって……良くないって分かってるのに……」


 ひとりだと、か。

 この十日間オレたちは一緒に暮らしてたけど、オレはアネモネの舞台に夢中になっていて、ミアはそれにずっと孤独を感じていた。

 ひとりで居る時に。それ以上に、ひとりじゃない時に。

 そうしてお互いの気持ちはすれ違い、衝突は起こるべくして起こった。

 

 難しいな……人間関係ってのは。


 ミアにはオレのことを想う気持ちがあって。

 でもオレにはミアのことを考える土台がなくて。


 この世界に来て、半分吸血鬼になって、仕事にありつけて、好きにできる金があって、メシにも困らなくて、知り合いも信頼できるヤツもできたけど……根っこのところでオレはまだ、借金まみれで大人にこき使われてた友達ひとりいないクソガキのまんまだった。


 誰かと関わることを望んでいたのに、それができない理由を環境に押し付けていたあの頃と。

 特に今は、悪魔の目のフィードバックで過去を覗いたあとだから、余計に痛感しちまうんだ。


 忘れていないことは濃密に思い出せるようになり。

 忘れていたことは――輪郭を取り戻せた気がする。


「ところでクレピ、舞台は? いかなくていいの?」


 時計を見てミアが言う。

 そういや、確かに最近のこの時間帯は、ずっとアネモネの舞台に通ってたな。

 自分でも不思議な感じだ。

 あれだけのめり込んでいたモノが、これほどまでにあっさり終わってしまったのだという事実。


「……もういいってさ。ま、今にして思えばオレらしくないことしてたし」


 そこそこの喪失感はある。でも未練を覚えたり、へこたれるほどじゃない。

 まあ自惚れたことを言えば、オレを応援してくれたお客さんを投げ出して舞台を降りることに、期待に応えられなくて申し訳ないという気持ちはあるが……。

 そこを除けば、切り替えは上手くできてる。


 今のオレに必要なのは、ミアの気持ちに向き合うことだと気付いたから。


 だからオレは、オレの役割をこなさないと。

 なんて意気込んだところで、ぐ~と健康的な音が部屋に響いた。

 どんな時でも腹は減るでお馴染みのツキヨミクレハが、その本領を発揮しちまったらしい。


「何か作る? クレピ」


「いや……病み上がりなんだし、さすがにわりーよ。ちょっくら外で買ってくる。ミアはなんかリクエストあるか?」


「うーん……じゃあお肉! 大通りにある有名なとこ!」


「あいよ」


 病み上がりに肉は重いのでは、なんて野暮なことは言うもんか。

 むしろ再び立ち上がるために、ガツンとした食事を求めることもあるだろう。

 オレは財布を手に颯爽と部屋を出た。


 お値段以上に上質で美味い物が食べられるという評判のその店が、まさか注文してから持ち帰るまでに最低一時間はかかることなど、露知らず……。


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