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鏡面のクロノスタシス  作者: 悠葵のんの
一章【出会いの物語】
15/81

14話『紅涙滴る時が来たんだよ、その牙に』

 永遠に思えた二色の螺旋と深淵の鍔迫り合い。

 それはあっけなく終わりを迎える。


「ちぃ‼」


 なに、単純な話だ。

 オレは黒塗りの怪物との力比べに負け、後退させられた。

 ただ――それだけ。

 接地しているがゆえに抉られる地面。

 深淵と離れたがゆえに遠ざかる慟哭。

 それに対して、オレはほんの少しばかりの安堵を覚えつつも、すぐに戦意を立て直す。

 油断するな。即座に黒塗りの追撃が来る。


「クレハ!」


 男の声が背中越しに聞こえた。

 声の主は瓦礫の山を駆け抜け、素早くオレと黒塗りの戦場に介入した。

 

「――ッ、――‼」


 片腕に炎を灯した騎士ツバサは、オレに代わって黒塗りの斬撃を受けて流す。

 武器として使っているのは、すでに刀身の折れた剣。

 ましてやツバサはそれを片手でしか握っていない。

 炎を纏った腕を庇うような受け身。

 明らかに全力を出せていない様子だが、ゆえに彼は攻撃を受け流し、その矛先を誘導する形でオレとの距離を稼いでいく。


 力比べで敵わないのなら、同じ土俵には乗らない。

 倒すのではなく、時間を稼ぐ。

 それだけを目標とし、それだけに特化する。

 加えて刃との接触が僅かなら、その分慟哭に精神を汚染される可能性は低くなる。

 なるほど、理に適った戦法だ。

 これは剣士としての技巧を持つ彼だからこそできる芸当だろう。


 オレは静かに、その光景から目を逸らした。


 違うだろうが。

 オレが今やるべきはツバサの一挙手一投足を網膜に焼き付けることではなく、心の中にあの無機質で優しい灰色の世界を思い描くことだ。

 膝をつき、瓦礫の隙間に聖剣を突き立て、目蓋を閉じる。

 その姿はまるで、神に祈りを捧げる戦士のよう。


「落ち着け……想像だ、想像……」


 大丈夫。オレならやれる。

 これは夢を見るのと同じこと。

 夢ならば数えきれないほど見てきた。

 その多くは叶うことなく、記憶の彼方に置き去りにしてしまったけれど。

 海馬に無くとも血潮に、血潮に無くとも魂に刻まれているはずだ。

 見えないなら手探りで掴み取れ。

 足りないなら新たに創造しろ。

 そうやって空白を埋めて、どんなに小さくても()()を作り上げるんだ。


幽世(かくりよ)創世(そうせい)――」


 呪文を唱える。

 それが本当に必要かどうかは分からない。

 けれどこれは、オレの内側に強く刻まれたレイラの作法だ。

 この道筋をなぞることでより鮮明に、空想を形にできる。


 足元を中心に土台が展開された。

 大きさは直径で百メートル、あるかないか。

 あまりにも矮小。

 あまりにも不出来。

 けれど空想は確かに、現実を侵食し始めた――。


 灰色に塗り替えられていく血と汗と涙と雨に濡れた瓦礫の山。

 端から組み立てられていく空想の檻。

 焦るな。感覚を研ぎ澄ませろ。集中を怠るんじゃない。

 形の無いモノを具現化するということは、それこそ命綱のない綱渡りをするようなもの。

 一歩踏み外しただけで、イメージは奈落の底へ転落する。

 激しい感情に任せることはせず。

 情熱を胸中に。冷静を脳内に。

 《ディレット・クラウン》という指先を頼りに世界を上書き――、


「ぁぁぁぁあああああああああ⁉」


 とっさに目蓋を開いた。

 悲痛に満ちた絶叫はツバサのモノだ。

 数十メートル先。オレが目撃したのは、剣を完膚なきまでに破壊され、何度も、何度でも腹部を貫かれている騎士の姿。

 空いた孔から血液を垂れ流し、その身に逆流するのは慟哭しか映さない万華鏡。

 もはやその瞳に――光はなかった。


「やられた⁉」


 決して、ツバサの能力が低いわけではない。

 だが目算が甘かった。

 あの怪物は、生命を相手取ることに特化し過ぎているのだ。

 人間を超えたパワーとスピード。

 触れた相手の精神は汚染されて。

 狂気に包まれたアレには、およそ駆け引きというモノも通用しない。

 アレはもはや、機械的に生命を絶滅させるための存在だ。

 ならばむしろ、ツバサはよくここまで耐えたと称賛されるべきだろう。

 幽世がまだ完成していないのは、オレの落ち度だ。


 完成度はおよそ六十パーセント。

 展開はまばらにもほどがある。

 天蓋を構築している箇所もあれば、まだ壁すらできていない箇所だって。

 これではまだ、黒塗りを閉じ込めることは不可能だ。

 ――どうする。

 切れる手札がないことだけは、はっきりしている。

 そのうえで、オレの焦りを看破したように、黒塗りは移動を開始した。

 

「クソ‼」


 狙いは当然、展開が最も遅いウィークポイント。

 隆起した大地の丘を登った先だ。

 このままだと確実に土台の外へ脱出される。


 オレはほかの箇所を後回しにし、目視で距離を測りながら壁を編み上げていく。

 この際もう不安定だろうが構わない。

 とにかくヤツをこの広場から出すわけにはいかないんだ!


 距離、速度、共に最短のさらに最短の道筋を辿る。が、それでも、こんな時でも冷静な思考が、半ば自動的に答えを導き出してしまった。

 どうしたってヤツの速度には追い付けない、と。


「ぐッ!」


 ならばいっそのこと、幽世を手放してでもオレ自身が止めに入るべきだ。

 そんな考えがよぎった、その時。

 黒煙を裂くように颯爽と――少年が、現れた。


「誰だ……?」


 既に役者の揃った舞台に、突如として姿を見せた来訪者(イレギュラー)

 見知らぬ顔。年齢はオレと同じくらい。

 黒髪黒眼。全身黒づくめの恰好。

 風に吹かれたような髪型と、右手にのみ黒の革手袋を着用しているという特徴はあるものの、この地獄の中にいるのが不自然すぎるほどの――一般人。


「――――」


 なのに少年は立つ。

 右手の革手袋を外し、自身よりも黒に染まった、正体不明の怪物の前に。

 それに合わせ、黒塗りが斬撃を射出する。

 過剰とも言える迎撃行動。

 オレはそこに、黒塗りの()()を見た気がした。


 思えば、ヤツには知性があった。

 オレの回避行動を予測し先手を放つ知性。

 この灰色の檻から抜け出そうとする知性。

 それがもたらした判断が迎撃(アレ)だというのなら、あの徒手空拳の少年は一体、怪物にどのような感情を抱かせたというのか。


 弱者に対する加虐精神か。

 あるいは全力で排除すべき外敵認定か。


 生命を終わらせるため、迫りくる斬撃。

 少年はそれを前にして、ただただ右手を構えた。

 避ける素振りなどまったくない。

 漆黒の三日月が少年を捉えるように、少年もまた、迫りくる死を見定めている。


 一秒後、何事もなく衝突は発生した。

 大気を、大地を、生命を焼き焦がす深淵の集合体は突き出された右手に直撃し、ちっぽけな少年の存在を蹂躙せんとして――その醜く滲んだ弧線を崩壊させた。

 

「打ち、消した……⁉」


 疑問の声を発したのは、いつの間にか傷を完治させていた灰塗れのツバサだ。

 オレも目を疑った。

 眼前で命を焼き焦がしたあの斬撃を、避けることしかできなかった災禍を、少年は触れただけで消したのだ。


 否。消したという表現は正確ではない。

 斬撃は右手に触れた瞬間、その全体を虹色の粒子に切り分けられ、辺りに拡散した。

 そして空間に満ちた粒子は、右手に吸い込まれるようにして少年の身体に蓄積されていく。

 

 つまりあれは消失ではなく、分解と吸収だ。


 息を呑んだ。

 この地獄を作り上げた原因のひとつを、あの右手はいとも容易く無効化した。

 さらに、それに加えて。

 先ほどまで黒髪黒眼だった少年の風貌が、変化している。

 髪の半分は白髪に。

 眼の半分は紫色に。

 それらのパーツは先ほどとは真逆の意味で、この地獄に噛み合っていない。

 主人の姿が脳裏をよぎる――今の少年の外見からは、どこかレイラ・ティアーズに似た神秘を感じる。


 一体何をどうして、そう思ったのか。

 オレが思考を要した一瞬。

 少年は躊躇いなく、駆け出す。

 隆起した大地の丘を下り、まるでそれが当然の行いだと言わんばかりに、拳を構えて世界の脅威へと立ち向かう。

 一方で黒塗りもまた軌道を変えることはない。

 回避不能の激突。深淵に対する神秘。


 その勝敗は、少年が黒塗りの顔面を殴り飛ばすことで決した。


「は……?」


 つい、間抜けな声が出てしまった。

 そりゃあ黒塗りは一直線に移動していたから、軌道を読んで一撃入れることは容易いことだっただろう。

 けどオレやツバサですら力負けしたあの底無し沼のような存在に、拳だけで打ち勝ってしまうというのは……呆れるに近い感情を抱いてしまう。

 

 またもや空間を跳梁する虹色の粒子。

 それらはやはり、右手を通して少年の身体に吸収される。

 髪と眼の色の変化も比例する。


 殴り飛ばされた黒塗りは、土台の中心部へと落着した。

 ヤツが立ち上がることはない。

 あの、ともすれば怪物より得体の知れない少年の一撃が効いたのか、ヤツは殴られた顔面を抑えるようにして――()()()()


「ぁ、ア、アアあああァァぁァアあアァぁ――‼‼」


 初めて捉えた黒塗りの声。

 それは鼓膜を震わせるノイズ混じりの咆哮。

 オレとツバサは吸い寄せられるようにヤツを注視して、そこで、ある変化に気付く。

 

「あ、れは……」


 人を殺し、命を焼き焦がし、建物を破壊し、思い出をぐちゃぐちゃにした正体不明の黒塗りの怪物。

 その姿が先ほどとは違う。

 明らかに様子が違う。

 不鮮明だった輪郭が明確に形を成している。

 滲み出ていた深淵が抑えられている。

 どころか、少年の右手が触れた顔面の黒が、ぽろぽろと崩れていく。

 剥がれ落ちた仮面。

 露出した貌。

 怪物の殻の下から出てきたのは、狂気に魂を売った――紛れもない人間だった。


「……シンジョウ、さん……?」


 シンジョウ。それは先日、町を案内されている際に路地裏で遭遇した男の名だ。

 娘を事故で亡くし、自暴自棄になっていた姿を覚えている。

 

「バカな! シンジョウさんがこんなこと……! 原因は? 相違点は? まさか……あの刀……?」


 動揺したツバサが独り言を垂れ流す。

 確かに以前のあの男は、あのような禍々しい刀など持ち合わせてはいなかった。

 自分で用意したのか。それとも誰かに与えられたのか。

 いずれにしても、人間を怪物に変えた原因があの刀にあるというツバサの予想には同意できる。


「だったらまだ……いや、望みは……」


 けれど、仮にそれが真実だとして何になる。

 刀を破壊すれば彼は正気に戻るのか?

 正気に戻ったところで、この地獄を引き起こした責任は、彼をいかに断罪する?


「分かっているつもりだ。けど、僕は……」



「――――ツバサ‼」



 眷属の迷いを振り払うように、凛々しき不死鳥(あるじ)がその名を叫んだ。


「アヤメ、さん?」


 ここからおよそ二百メートル離れた建物の屋上。

 広場を覆う檻が一望できる位置から、遠雷のように届いた励声。


「……ッ!」


 何かを察知したのか、ツバサはすぐさま立ち上がった。

 それとほぼ同じタイミングで、雨粒を弾き、大気を切り裂く物体が飛来する。

 未完成の檻の隙間を縫うように投擲されたそれは――剣だ。

 直接見るまでもなく、それが剣だと判別できるほどのオーラを宿す一級品。

 オレがこの手に握ったモノと同じ格式を持つ武装。

 七つの種族によって争われている七本のうちが一本。


 即ち、聖剣。


「そう、ですね……ええ! 断ち切ってみせます。躊躇いも、この災禍も!」


 ツバサは主より託されたそれをしかと受け取り、洗練された構えを見せた。

 背筋を正し、胸元で固定された剣。

 切っ先は天へと捧げられ、掲げられしは黒煙の中であろうと失われない銀色の煌めき。

 たった一振りで歴史のある大聖堂を思わせるような荘厳さ。

 一点の曇りもない刀身は相対する者を、身を捧げた主を、何より担い手である己の本質を映す鏡。

 その名は、気高き白銀の誓い。


「《オース・オブ・シルヴァライズ》――ッ!」


 剣の名を呼ぶことで、それを宣誓とした不死鳥の騎士。

 その双眸に浮かぶのは主によって導かれた覚悟。

 それでいい。

 この命のやり取りに、相手の事情を考慮する余裕などないのだから。

 

 同時刻。

 事の成り行きを見届けた黒づくめの少年は、役目は果たした、とでも言うように踵を返した。

 去り際に一度。


「勝てよ、クレハ」


 そう言葉を残して。


「お前は……いや」


 誰だか知らないが、オレにとって都合が良い以上どうだって構わない。

 バトンは託された。その理解だけで充分だ。

 すぐに意識を集中し、途切れかけた空想を手繰り寄せる。

 再開された命綱無しの綱渡り。

 障害は、もう何もない。

 あとはただひたすらに、駆け抜けるのみ。


 怪物は正体を晒した。

 不死鳥は覚悟を決めた。

 そして吸血鬼は今、現実の侵食を完了する。


「出来た。オレの、世界――」


 ついに舞台は完成した。

 風景を覆うように展開された空想の檻。

 直径百メートルの小さな箱庭。

 再現されたのは噴水広場と積み上げられた瓦礫、隆起した地面。

 それだけだ。

 百メートルより先の景色はなく、途切れた部分が壁となる。

 曇天も、黒煙も、火事も、すべてが灰色に塗り直された世界。

 その中でオレの背負う紅は、ツバサの掲げる銀は、そしてシンジョウの纏う黒は、どれも圧倒的な存在感を放っていた。


「ミらiィ、を……お、ヲ……こス……ハ、まッ……マmあ、ダ‼」


 崩れた仮面が黒によって修復されていく。

 もうじき黒塗りは、活動を再開するだろう。

 その前にオレは、ツバサに駆け寄り声をかけた。


「それでどうする? オレたちはあの野郎にパワーでもスピードでも劣ってるぞ」


「聖剣を使えばヤツに追い付ける。それに加えて――炎を解放するよ。幽世が展開された今ならできる。一度放たれた不死鳥の炎は、水に濡れようと酸素がなかろうと、消えることはない」


「任せていいんだな?」


「ああ。――《開錠承認(チェック)》」


「――ウゥ――血ヲ、もット――チを――血、智、治、千、致ィィィ‼」


 刹那、ツバサの姿が視界から消えた。

 直後、がぎぃんと力強く鐘を鳴らしたような音に貫かれる。

 一歩遅れて振り向くと、眼前には黒塗りの斬撃を受け止めたツバサらしきものの背中があった。

 ツバサだと断定できなかったのは、その外観が変化していたから。

 おそらくは先ほど呟かれた呪文。

 それに聖剣が呼応した結果だ。


 灼熱を纏っているかのように、ゆらゆらとぼやける全体像。

 メッシュを入れた黒髪は炎を映し出すように赤く染まり。

 儚さと美しさを兼ね備えた――まるで咲いてから消えるまでの花火の如きその姿。

 

(これ)より先、拙な我が身は幻実揺らめく挽歌を奏でる――其即(それすなわ)ち《零刻陽炎(れいこくかげろう)》。シンジョウさん、貴方の狂気は不死鳥の炎を以て、灰塵に帰す」


 静かに告げたツバサは、電光石火の如く刃を切り返した。

 散乱する火花は鮮やかに咲き誇り。


 そして鐘は五度、鳴り響く。


 目蓋を閉じた。

 降り注いだ雨は生暖かい紅。

 それが黒塗りの――シンジョウの流した血液であることを、オレはかろうじて把握していた。

 事はもう、一区切りついたのだ。


「…………」


 剣閃の軌道を思い返す。

 ツバサの動きは、吸血鬼としての視力を全開にしても捉えるのが困難だった。


 一撃目。

 ツバサは全力を込めて禍々しさを宿す刀を叩いた。

 切ったのではない。刃を打ちつけたのだ。

 音の波形は大きく揺らいで拡散し、ツバサはその一振りで刀の破壊は不可能と判断。


 二撃目。

 かまいたちを生み出すほどの一閃が放たれた。

 黒塗りはそれを刀身で受けたが、そんなのは防御ではなく、ただ偶然その位置に刃があっただけに過ぎない。

 黒塗りが一刀でオレを吹き飛ばしたのと同じことを、ツバサもまた行った。


 三撃目。

 宙を舞う黒塗りを追い越し、その落下先でツバサは剣を振り下ろした。

 黒塗りは何とか対応し刀身を構えたが、騎士の膂力には遠く及ばない。


 四撃目。

 再び吹き飛ばされた黒塗りは、幽世の中心で上空へと打ち上げられる。

 黒塗りの防御は間に合ったが、成すすべなく打ち上げられた時点で、それは失敗に終わったと言えよう。


 五撃目。

 黒塗りが迎撃を行おうとしたところで、跳躍したツバサがそれを阻止した。

 鐘が鳴ったのはここまでだ。

 以降、ツバサは黒塗りの反応速度を上回り、ひたすらに剣を振るうことになる。


 まずは継続中の上昇で、黒塗りの右手の健を切断。

 即座に身を捻り、幽世の天蓋を足場にして加速。

 今度は左手の健を切断し、地面に着いたところで再び跳躍。

 そのようにして幽世内を縦横無尽に巡り、続いて黒塗りの両足の健を切断した。 

 次に狙う急所は水月。逆袈裟斬りから入り、続いて左一文字斬りで首を、直後の袈裟斬りから、再び左一文字で両膝を斬り、振り上げで左脇、振り下ろしで右脇、最後に炎を解放し――爆炎を突きとして繰り出す。


 その結果。上空で切り刻まれたシンジョウの身体は血液をまき散らし、火だるまになりながら地面に叩きつけられた。 

 これが、紅い雨が降り注ぐまでの経緯だ。


「…………」


 無意識のうちに、ごくりと喉を鳴らした。

 ああ、むせかえるほどの、血の匂い。

 それは不快でもあり、官能的でもある。

 こんな感覚は初めてだ。

 酷く、喉が渇いている。

 思えば今日は、血を流し過ぎた。

 減った分は、補充しなければならない。


 オレはゆっくりと、恐る恐る舌を出した。

 口の端まで流れてきた血の一滴を、掬い上げる。

 それを牙と唾に絡めながら、本能のままに飲み込んだ。

 その瞬間。


 ――夢を、見た。


 それは、どことも知れぬ民家の一部屋だった。

 燭台に立てられた蝋燭の火と、開かれた木造りの窓から差し込む月光が照らす、仄暗い室内。

 部屋の中心に置かれたテーブル。

 向かい合うようにして椅子に座った男女。

 男は考え込むように腕を組み、女は背筋をピンと伸ばしているが、その表情には不安や懇願といった色が見える。


『嫌な理由、話してもらうわけにはいかない?』


『いや、そうじゃない。決して結婚が嫌というわけではないんだ。私はただ……引力を恐れてしまっている。《因果の引力》だよ』


 木彫りのコップに注がれた水をあおり、男は重い雰囲気のまま語り始めた。

 自らの、前世を。


『私は生前、娘と共に事故死した。車に轢かれたんだ。おそらくは居眠りか飲酒運転。避けようのない不慮の事故というものだよ。その後私はこのリタウテットに転生した。娘は分からない。この世界のどこかにいるのかもしれないし、いないかもしれない。少なくとも転生してから今に至るまでの五年間、会えていない』


『そんな……』


『私は君を愛している。君と結ばれたい。君と生きた証を残したい。だが……もし《因果の引力》が本当にあるのなら。私はまた大切なものを道連れにしたうえで、君を孤独にしてしまうかもしれない。それが恐ろしくて仕方ないんだよ』


『……恐ろしいのは、同意するわ。あたしの持つ因果も似たようなものだから。まだ十代だった娘を病気で亡くして、それであたしは、自分を終わらせた。けれどこの世界に来て、あなたと出会って……前に進むべきだと思ったの。それが、二度目の命を手に入れたあたしの義務でもあるって』


『それは……私だってそうだ』


『あたしは信じたい。あたしたちならきっと乗り越えられる。大丈夫、因果なんてただの噂よ。前世と同じ過ちを犯さないようにっていう、誰かからの忠告なんだわ』


 女は笑った。

 不安も、期待も、絶望も、希望も、すべてを抱え込んで笑ってみせた。

 その笑みに一瞬、男は見惚れて。

 愛という情を未来に結い付けたいと思った。


『参ったな。私はいつだって、君のその笑顔に救われてきた。……今回もだ』


『じゃあ!』


『ああ、結婚しよう』


「《施錠承認(ロック)》」


 《Count Lock. Leftover time is 50270》――聖剣を通じ、脳内に機械的な音声が響く。

 同時に開け放たれた扉は施錠され、変化していた外見も回帰した。


 聖剣――《オース・オブ・シルヴァライズ》。

 その能力は端的に言えば、潜在能力の解放。

 いずれ辿る未来において手にするであろう力の前借りだ。


 一分を十秒に。もしくは一時間を一秒に。あるいは一年を一瞬に。

 そんな具合に前借りした生命を圧縮することで、使用者は身体能力や魔力を数十倍にも引き上げることができる。

 無論、圧縮した分の生命は戻ってこない。

 だからこれは寿命を代償にした行為だ。

 消費量は前借りした額に応じて上下するのだが、今回の場合は一分未満でおよそ。


「四年、か……」


 これほど生命を圧縮する戦闘を行ったのは初めてのことだ。

 アヤメさんが騎士団を立ち上げてからは大きな戦闘もなく、適切な消費量を見極める経験がなかったといえば、それもそうなのだが。

 一方で、これほどの代償を必要とする相手だったこともまた事実。


 こう言ってはなんだけど、シンジョウさんのように突出した魔力を持たない一般人を、ここまで恐ろしい存在に仕立て上げるとは。

 不死鳥の炎に包まれた男を見る。

 その手に握られた漆黒の日本刀。

 あのようなモノ、一体誰が何のために生み出したのか。


 そういえば日本刀の中には持ち手を狂わせる、あるいは周囲に呪禍(じゅか)をもたらす、《妖刀》と呼ばれるモノがあると、何かで読んだことがある。

 銘は確か――村正、だったかな。

 あまりの不吉さに切られた銘を潰されたり、書き換えられたこともあるらしいが、あの刀にも記されているのだろうか。


 不安定な黒に握られた柄の部分。

 その下にある(なかご)に、作り手の名が。

 

 あれが呪具の類いであるならば、持ち主の死後は力を使い果たし、自壊してしまう可能性が高い。

 作り手に繋がる証拠……見過ごすわけにはいかない。


「クレハ」


 少し離れたところでぼうっとしている少年に声をかける。

 証人は多いほうがいい。

 見分に付き合ってほしかった。

 しかしどうも彼は先ほどから、虚を見つめて心ここにあらずといった様子だ。

 血を浴びたというのがまずかっただろうか。

 彼は半分吸血鬼とはいえ残りは人間で、この幽世の外に広がっているような地獄は当然見慣れないものだったろう。

 さらに半分人間とはいえ残りは吸血鬼で、むせ返るような血の匂いは衝動を刺激してしまったのかもしれない。


 ならば、不死鳥の炎が狂気を灰に帰すまでしばらく時間がかかるだろうし、今は彼の精神安定を優先しよう。

 彼のもとへ歩き出す。

 ふと、踏みしめた砂利の音に混じって、風切り音が聞こえた。

 それはアヤメさんが聖剣を投擲した時のものと符合する波形――刃が大気を撫でる音だ。

 気付いた時にはもう、立ち尽くしていたクレハの心臓を、矢のように放たれた刀が射抜いていた。


「ぅぁ――ッ⁉」


「クレハ⁉」


 鮮血が開花するように舞い散る。

 漆黒が舞い散るように開花する。

 不死鳥の炎に身を焼かれながら、怪物が向かい来る。

 

「ッ――《開錠承認(チェック)》!」


 《Count Start. existence compression is from 50270》――機械的な音声が脳内に響き渡り、いずれ解き放たれる扉を今強引にこじ開ける。

 削れていく命。

 比例して湧き上がる魔力。

 それを不死鳥としての属性に変換し、現出させる。

 メッシュが広がるように黒髪を赤へと染め上げ、全身に滲み出す灼熱。

 短き命が燃え尽きるまで、生と死の狭間を揺蕩う儚炎――《零刻陽炎》と成った僕は、怪物を視た。


「――――」


 極限まで研ぎ澄ませた感覚で、意図的に時間を引き延ばす。

 スローモーションになる世界。

 相対的に加速する思考。

 異なる時の流れの中、僕が真っ先にするべき行動は観察だ。


 僕は先ほど、確かに怪物を斬った。

 かろうじて生きていたとしても、通常であれば行動不可能になるように、人体の急所を根こそぎ切断したのだ。

 にもかかわらずヤツは活動を再開した。

 投擲した刀でクレハの心臓を貫き、今まさに僕目掛けて拳を振り下ろそうとしている。

 

 それを可能にした理由は、対面してみると一目で分かった。

 切断された箇所を、身に纏った黒いオーラが補っているのだ。

 もしかしたらあの黒いのにとって、中身はもはや重要ではないのかもしれない。

 ただ器として使役されるだけの、ゾンビのような存在。

 命の冒涜としか思えない所業に僕は怒りを覚え――白銀を振りかざす。

 

 瞬く間に五分割される怪物の身体。

 黒いオーラによる再生がどこまで対応できるのか。

 これは様子見の一手でもある。

 宙を舞う身体のパーツ。

 それは紐状となった黒いオーラによって、瞬時に縫い上げられる。

 そして災禍は三度、顕現した。


「しぶとい……!」


 生命圧縮のギアを一段階落とす。

 このままではこちらの終わりが先に来る。

 落ち着け。冷静を保て。

 見たところ、怪物を包み込む不死鳥の炎はまったく効いてないわけじゃない。

 ジリジリと端から焦げ落ちてはいるんだ。

 おそらく今この時点で、怪物の再生速度はある程度抑えられている。


 つまり、持久戦に持ち込めば勝機はある。

 何分か。何時間か。何年か。

 その間、絶えず燃やし続けることができるなら、いつかは破壊が再生を追い越す。

 

 しかしそうなると――これは、()()()()()()()()()()()()()()()


 落としたギアの分だけ鈍重になる身体。

 僕はついに、怪物の攻撃を避けきれず食らった。


「がッ……⁉」


 身体は容易く飛ばされ、瓦礫の山に背中を抉られる。

 間髪入れずに差し込まれる追撃。

 怪物の手には既に、クレハを射抜いた刀が握られていた。

 すかさず応戦の姿勢を取る。が、その上を行く亜音速の攻撃には間に合わず、肩から腰に至るまでを大きく斬り裂かれる。


「うぐッ、ア……⁉」


 まるで最初から、僕かアヤメさんを相手取ることを想定していたようじゃないか。

 不死鳥の炎は、一度放たれてしまえば水をかけられようが、燃やす酸素がなくなろうが消えることはない。

 言い方を変えれば、使用者である僕とアヤメさんにすら、炎を消す方法は存在しないのだ。


 ただひとつ――例外を除いて。


 それは制約。

 文明を崩壊させかねない力に敢えて、甘んじて施された弱点。


「ッ――――ぁ」


 失血が生命維持できないレベルになった。

 電源を抜かれたように、ぷつんと視界が途切れる。

 僕の命はあっけなく終わりを迎えた。

 灰となり、砂時計の砂が落ちていくように崩れる身体。

 反転。

 火花が弾け、復活が始まる。

 それは祝福すべき生命の誕生。

 不死鳥が不死鳥たる所以。

 新たに生まれ直した僕は、再生された両目で怪物を見返した。

 覚えたのは復活を遂げた余裕などではない。

 むしろ真逆の、一抹の不安とでも言うべきもの。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 そう。これこそが、その例外。

 不死鳥の炎は使用者が死した場合のみ、その存在を消失(ロスト)するよう設計(デザイン)されている。

 死する不死。それは一見、破綻した論理だろう。

 しかし僕やアヤメさんの場合は、何も矛盾しない。

 なぜならば、決して死なないのではなく。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()、不死鳥の持つ不死の仕組みなのだ。


 ゆえに、死という過程に課せられた制約は、正しく弱点として機能する。


 そこに聖剣の能力だ。

 怪物の相手をするには、生命を圧縮して身体能力を底上げする以外ない。

 けれどアヤメさんならいざ知らず、僕の生存限界は残り十年と元から短い。

 無論、寿命の終わりを迎えても不死鳥の眷属である以上、僕は契約時の地点(じゅみょう)まで遡ることができるが――しかしそれでは炎が消えてしまうことになる。

 

 生命の復活と、再び炎を放つまでのタイムラグ。

 それはこの場において、あまりにも致命的だ。


 悔しいが認めるしかない。

 僕一人ではこの怪物には勝てない。

 その狂気を滅することができない。


 ゆえに、残された活路に眼差しを向ける。

 《麗しき夜の涙》が選んだ眷属へと――。

 

 娘が生まれた。

 男の子でなかったことに肝を冷やした。

 なぜなら因果が、忍び寄ってきているように思えたからだ。

 その子は私が事故で亡くした娘の、妻が病気で亡くした娘の、面影を充分に宿していた。


 名前はミライと名付けた。


 ママ、パパ。

 そう呼ばれた時の感動はあまりにも大きく、私は涙を流した。

 死んだ娘が蘇ったような気がしたのだ。

 私は自分を殴った。

 ミライはミライだ。

 私たちの明日を生きてくれるミライなんだ。

 あの子じゃない。

 履き違えてはいけない。

 絶対に……。


 ミライは賢い子だった。

 幼い頃からこの世界と元の世界の両方の学問に興味を持ち、十五歳になる頃には将来有望な研究者として仕事をするようになった。

 リタウテットの文明はどう発展するべきか。

 リタウテットと元の世界の共通項は何か。

 あの子はこの世界で生きる人々のために、手広く研究を行っていた。

 慈愛に満ちた優しい子だ。

 他人のために自分を犠牲にすることを厭わない、危うくて尊い存在だった。


 それが災いした。


 数週間前から、突如としてリタウテット全土でみられるようになった奇病がある。

 夜空に紅い月が浮かび、朝を迎えると一定数の人間が謎の死を遂げているという病だ。

 死因は様々だが、共通しているのはみな、自死を選んでいるということ。

 自分の喉を切る。高いところから飛び降りる。

 毒を飲む。火をつけてその中に飛び込む。


 多くの人々がその現象に恐怖し、多くの学者がその現象の解明に取り掛かった。

 結果、奇病の原因は、紅い月から降り注ぐ魔力にあると判明した。

 それは人を狂わせる性質を持った、電波のようなもの。

 受信してしまったものは、妖しい月光に溺れて、沈んでしまう。

 無論、外的魔力に耐性のある魔族やごく少数の人間に対して効果はないが、人口の九割を占める一般人はそうではない。

 実際、奇病で亡くなったのはいずれも、魔力の乏しい人々だった。


 そんな仮説を立て、自らの命を使って実証したのが、ミライだ。


 ――実験にトラブルはつきものだよ。

 あの子の最後の言葉はそれだった、らしい。

 月から降り注ぐ毒電波を遮るための結界を騎士団が構築しようとした時、結界外に置き去りにされた子供を救おうとして。

 紅い月に魅せられたあの子は、人間に相応しくない死を遂げた。


 代わりに得た他人からの感謝は、深い悲しみの中にあっさりと消えた。

 あの子だって、まだ、子供だったのに。

 妻は笑顔を失い、私は青白い光にも、紅い光にも照らされることのない暗闇に堕ちた。


 そうして深淵を覗いた時――深淵に見返された。


 路地裏。

 死者がそのまま立って動いているような少女が、目の前にいた。


 ――本当なのか。本当に、娘が生き返るのか?


『ええ。等価となる代償を差し出すなら』


 悪魔との契約であると、本能で理解していた。

 それでも私は頷いた。懇願した。

 寒かったのだ。どうしようもないほどに。

 だから温もりが欲しかった。

 あの幸福だった日々を取り戻すため、私は世界を敵に回すことを決めた。

 魔女が嗤う。

 妖艶に。空虚に。

 はたまた、聖母のように。

 いつの間にか、その手には一本の刀が握られていた。

 

『孤独に耐えかねた、寂寞なる父親へと授けよう』


 ああ、這入(はい)ってくる。

 外から内へと。

 途方もない全能感が。

 理性を侵食する狂気が。

 直感する。

 これは手を出してはいけないものだった。

 願いは叶うだろう。

 歪んだ方法で。間違った方法で。

 そしてそれは、ワたシのネがいデはなイ。

 ケド。わカッてヰテ喪、もウて刃なスこ十はデキなななななななななななななななななiiiiiiiiiiii――――だ、っ、て、み、ら、い、が、ほ、し、い、か、ら。


 ――長い夢を見ていた気がする。

 今のは多分、記憶だ。

 血に宿った存在の情報。


 液体が頬を伝う。

 どうしてだろう。

 胸が痛い。苦しい。冷たい。

 当然だ。

 心臓を貫かれたのだから。

 だけど。

 もっと鋭く。もっと深く。突き刺さっているものがある。

 あの言葉。


 孤独に耐えかねた、寂寞なる――。


 その言葉を以前、誰かから聞いたはずなのに。

 誰から受け取ったのか、思い出せない。

 どうしても。どう頑張っても。思い出せない。

 なのに、どうしようもなく涙がこぼれそうで。

 切なさに身を任せるほど、奥底から熱が湧いてくる。


 目蓋を開ける。

 紅い雨が降っていた。

 それはオレの全身を濡らし。

 やがて勢いが落ちると。

 ぽつり、ぽつり、雫が滴る。


「クレハ」


 名前を呼ばれたので、目を凝らす。

 ああ、オレの頭上に、ツバサがいる。

 漆黒の刃に背中から貫かれて。

 血液が刀身を伝って、オレの牙へと落ちてくる。


「――――ぁ」


 ツバサの身体が、灰になって崩れた。

 それを見送った刹那。

 吸血鬼に必要な血液。

 人間に必要な生命力。

 その両方が、同時に満たされたのだと理解した。


 不意に、黒塗りと視線が重なる。

 深淵に覆われたヤツに眼球は見当たらないけど、そんな気がした。

 だからオレは静かに、事実を口にする。


「――アンタにとってはもう、死ぬことが一番の救いなんだな」


 まあ眉唾だって、分かってるだろうけどさ。

 仮にこの先、本当に娘が生き返ったとして。

 生き返ったそいつは、きっと、アンタが犯した罪の重さに耐えられない。

 他人のために命を投げ出せるほど優しいんだ。

 自分が他人を大勢殺した果てに生き返ったなんて知ったら、もうおしまい。

 そしてアンタは、その刀に操られていようが、解放されて正気に戻ろうが、待ってるのは復讐とか断罪とか、そんな暗い展開だけ。

 

 まったく。そんな袋小路に巻き込みやがって。

 もう、いい加減終わらせよう。


 大丈夫。オレはツバサの血液を飲んだ。

 やり方ならちゃんと、分かってる。


「要はさ、ただアンタをバラバラにするだけじゃダメで。ツバサが死んで炎が消えちまうのもダメなんだろ。……ってことはだ。オレが代わりに燃料になってやりゃあいい」


 軽く指を動かして。

 きちんと感触を確かめて。

 聖剣――《ディレット・クラウン》を握り直した。


 その時。

 心臓の隙間を埋めるように、道が繋がった。

 炎の螺旋が産声を上げる。

 紅蓮は竜巻のようにオレの身体を覆い――邪魔だ、前が見えない。

 切っ先で薙ぎ払い、視界を切り開く。


 熱い。

 焼けるほどに熱い。

 燃えているので熱い。

 熱くて、溶けて、焼けて、焦げて、落ちてしまいそうだ。

 でも不思議と痛みはなかった。

 脳が麻痺しているのか。それともこの炎自体が、痛みを与えないものなのか。


 まあ、細かいことはどうだっていいや。


 ゆらりと立ち上がったオレは、身に纏った業火を聖剣に載せて振るう。

 速度はない。でもその分、重い一刀だ。

 黒塗りはそれを受け止めた。

 オレはそのままヤツを地面にねじ伏せる。

 そうできるだけの力が、今のオレにはあった。

 さらに黒塗りの胴体に聖剣を突き刺し、抜けないように気合いを入れて押し込み、ダメ押しに自分を重りに見立てて馬乗りになる。


 黒塗りは拘束から逃れようと、オレの横腹に切っ先をねじ込んだ。


「うッ、く――」


 構わない。刀身が今以上に深く刺さることも気にせず、オレは黒塗りの首筋に二本の牙を突き立てた。

 グルメじゃないことに、これほど感謝したくなったのは初めてだ。

 顎に力を入れる。

 牙が刺さった感触がして、口内に粘っこい液体が満ちていく。

 それをぐっと飲みこんだ。

 失くした分の補充というやつだ。

 

「オレはどんなに燃えようが、傷を受けようが、こうして血を飲めば治る。けどアンタは違う。本当に少しずつだけど、燃えカスになっていく。だからさ」


 深淵に業火をくべたオレは、厳かに宣言する。


「勝負しようぜ。オレとアンタ、どっちが先に燃え尽きるか――」


 派手じゃなくて悪いな。

 でもこういうのは得意なんだ。

 炎の熱も、刃の痛みも、脳内に刻まれる慟哭も。

 嫌なこと、面倒なこと、全部から目を逸らしてやり過ごすのは。


 けど、そんな負け犬のやり方でも。

 今回ばかりは、勝ちってことでいいらしい。


 ――孤独に耐えかねた、寂寞なる父親へと授けよう。


 そこで一度途切れたはずの記憶が、巻き戻されて、再生される。

 緋色の鏡に映るのは、在りし日の団欒。

 家族が、幸せそうに笑っている。

 父親と母親と愛すべき娘。

 その陽だまりのような光景に、優しく心を貫かれた。


 オレの知らない光景。

 オレの知らない温度。

 オレの知らない愛情。


 それらは等しく炎に包まれる。

 焼かれていく。どこまでも、どこまでも、思い出は灰になっていく。

 まるでアルバムの写真に一枚一枚火をつけているような感覚だ。


 積もる塵を見ては、涙が出そうになる。

 だって、あんなに幸せそうに生きていたんだ。

 日々の不満なんて、今日は仕事が忙しくて疲れたとか、野菜や果物が高い時期になってきたとかで。

 そんなのは人生を退屈させないためのスパイスだった。


 一日の始まりに家族で食卓を囲めば、生きる気力が湧いた。

 一日の終わりに家族で食卓を囲めば、心が安らいで幸福を覚えた。


 本当に、それだけで、充分だったというのに。


「どうして、こんなことになってしまったのだろうな」


 隣には男が立っていた。

 シンジョウと呼ばれていた男だ。

 そうか。珍しく浸っちまったと思ったら、感情が流れ込んでいたのか。


 これはシンジョウという男の終わりの痕跡。

 言ってみれば最後に抱く幻想――走馬灯だ。


 オレはそこに存在を許されている。

 あるいはオレが存在を許している。


「君はなぜ、私を燃やす」


 燃え盛る炎を瞳に映したまま、シンジョウは問う。


「オレがあの日、宿舎の扉を壊しちまったからだ」


 あれがきっかけで、オレは『力を持つ者の責任』というものを知った。

 あれがきっかけで、オレは黒塗りの怪物と対峙することになった。


「悪夢のような星回りだ」


「だろうな。でも人生って、そういうの結構あるんじゃねえの」


「適当なことを」


 鼻を鳴らす。

 そうだ。オレは思いついた言葉を口にしただけ。

 だって当然だろ。

 オレたちはまったくの赤の他人なんだから。

 気前のいい別れの言葉なんて出てこないし、送る義理もない。


「……ああ、でも。記憶の中でアンタの戦いを見ていて、思ったことがあるぜ」


「なんだ」

 

 もしも世界を、無理やりにでも善と悪の二種類に分けるなら。

 シンジョウという男はどうしようもない悪だ。

 無関係な命を沢山殺して。

 大勢の大切なものを奪って。

 正義を掲げる騎士と相対した。

 それはもう、どうしたって悪者にしかならない。

 それでも男には、譲れない願いがあった。


 ――これ以上誰も死なせない。災禍を断ち切ってみせる。

 そんな立派な正義(しんねん)を前に何度も、しぶとく立ち上がれるほどの望み。

 オレはその在り方を見て。

 

「世界を敵に回してでも娘を取り戻したいってアンタの想いは、不思議なことに、結構、負けてないなって思った」


 答えを見せられた気がした。

 オレに課せられた宿題の答え。

 聖戦に対する向き合い方のようなものが。


「ま、だからって、悪いヤツだってことに変わりはねえよ。アンタを灰にすることに罪悪感なんざこれっぽっちもない」


「そうか。では私からもひとつ、事実を述べよう」


「あ?」


「私はミライを失ってからずっと、凍えていた。妻も同じだ。熱を生み出す方法を忘れてしまったのだ。だが君の炎は――私を温めてくれたよ。それこそ、燃えて灰になってしまうほどに」


「はぁ……」


「今はもう、寒くない」


 その言葉は、無感情に呟かれた。

 満足や受容はなく、同時に後悔や未練も感じさせない声だった。

 それを聞いたオレは何となく、ムカッときた。

 何をいい感じに終わらせようとしてんだよと。

 だから恨み辛みを、たっぷり込めて言い返す。


「オレは服が燃えちまって寒いよ、チクショー」


 返事はない。

 男の姿はもう、どこにも見当たらなかった。

 あーあ……。

 残ったのは人ひとり分の灰と塵。

 それは風に乗って雪のように舞い、視界を覆う。

 静かに目蓋を閉じた。


 きっと次に開いた時が、夢の終わり。

 達成感と虚無感に包まれた、目覚めの時だ――。


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