番外編9 エルデリックと彼女の出会い
誰にも自分の言いたいことを伝えられない。
エルデリックにとってそれは普通のことだった。
だけどもっと小さい頃には、何一つ理解してもらえず、こちらに意志があることも無視されがちだった。
その時からすると、イレーシュ辺境伯夫人サエリが様子を見にくるようになってからは改善したと思う。
女官や召使から些細なことまで確認をとられることで、少しは不自由ではない生活を手に入れられるようになった。
けれど、それではまだ不足だと判断したのは、白髪まじりの亜麻色の髪を結い上げた、穏やかそうな顔立ちのイレーシュ辺境伯夫人サエリだった。
「あなたを守れる子を急いで呼び寄せます。けど、離れた場所に住んでいる上、あの子もまだ小さいから親と別れて暮らす覚悟をする時間が必要なの。予定より少し遅れてしまっているお詫びに、あの子が到着するまでは日に一度、私がここへ来ますからね」
そう言ったイレーシュ辺境伯夫人サエリは、約束した通りに日参してくれた。
むしろそうしてくれるなら、馴染みのある辺境伯夫人が傍にいてくれたらいいのにと思ったほどだ。
むしろこんなに自分の言いたいことが通じるのに、どうして今まで頻繁に来てくれないのかと思ったほど。
理由はなんとなく察してはいる。
王宮には、彼女をあまり歓迎していない人がいるからだ。平民あがり……という言葉を、側に控えていた女官たちが話していたことがある。
そんな辺境伯夫人と一緒に、夫の辺境伯もやって来るようになったので、この二週間ほどはそこそこエルデリックの周囲はにぎやかだった。
何よりイレーシュ辺境伯が、
「いつ見ても可愛いなぁ。これなんてどうだい?」
と、なぜかお菓子や服を持ってくるので、衣装棚がいっぱいになりかけたり、エルデリックの部屋は菓子の甘い匂いに満たされて、妙に華やいだ。
……その中に、なぜか女の子の服まで混じっていたせいで、イレーシュ辺境伯は召使達がいない隙に、サエリ夫人に蹴り飛ばされていたのだが。
「貴方、その趣味は止めたって言ってたじゃない!」
「ち、ちが……違うよ! そうじゃなくて、殿下に気晴らしをさせてあげたいって君が言うからだよ。もしかしたら特殊な趣味を内に秘めてたら……これでひっそり開放感を味わったりできるんじゃないかと」
「そんな特殊な人間は、貴方と婿だけで十分です!」
辺境伯夫妻の様子に、エルデリックはこの二週間で夫婦の形というものはさまざまなのだと知った。自分の父母のように、穏やかに礼儀正しい間柄というものだけではないのだ、と。
その二週間だけで、エルデリックは自分の世界が急速に広がった気がしたものだった。
女官や召使達は、彼らが来ると大人しく椅子に座って話しを聞いているエルデリックの姿に、驚愕していた。
そして、運命の日はやってきた。
「か……!」
明るく淡い薔薇色のドレスを着たサリカは、エルデリックに挨拶をして顔を上げたとたん、一音だけ発して口をつぐんだ。
顔立ちは、どこか辺境伯夫人に似ている。孫と祖母だからだろう。
でも灰青の目が大きく見開かれて、エルデリックをがん見している。
頬が紅潮しているので、嫌がられているわけじゃないのだろうと、エルデリックの方も感じた。
だがエルデリックは初対面の人が苦手だった。
イレーシュ辺境伯夫妻は、記憶もないような幼い頃から何度か接していたので、それほど抵抗はなかったのだが、サリカという少女とはその時初めて会ったのだ。
しかも常に大人に囲まれているエルデリックとしては、近い年の子供と話すことがめったにない。会話ができないので、もしものことを考えてエルデリックに近づけないようにしているためだ。
なんだか女官や召使達とは雰囲気も違う。
一歩引いているように、側にいるのに遠くから話しかけているような、遠さがない。
その近さにエルデリックは不安を感じて一歩下がってしまった。
サリカが気づいて表情を曇らせる。
そうすると悪いことをしたのではないかと思ったエルデリックは……やけに怖くなった。
――後になって思う。
怖くなった原因は、不愉快にさせたから、サリカに怒られるのではないか。また痛い思いをさせられるのではないかと、無意識に思っていたからだろうと。
だから傍にいた父フェレンツ王が、エルデリックの肩を叩いてなだめても、信じきれなかった。
「大丈夫だエルデリック。この子はお前が大好きなイレーシュ伯夫妻の孫で……って、エル!?」
エルデリックは思わず逃げていた。
たぶん、いつも同じように怖いことがあると逃亡する癖がついていたせいだろう。
けれど驚いたのは、恐るべき早さでサリカが追いかけてきたことだ。
無言で背後に迫り、
「つかまえた!」
上着の襟を掴むという暴挙に及んだサリカのせいで、エルデリックはつっかかって転びかけ、悲鳴を上げた。
「わ、ごめんなさい! つい近所の子供みたいに扱っちゃったけど、そうだよなぁ、王子様だもんなぁ」
エルデリックを抱きしめて謝るが、エルデリックは恐怖に震えた。
怖い。この人は怖い人だ。逆らっちゃいけない、と思って身動きしないようにする。
「ね、大丈夫ですか? もうしませんから」
そうは言うが、信用できたものではない。とにかく早くどこかへ行ってくれないかとエルデリックが思っていると――不意に、水を飲みこんだような感覚が訪れた。
そうしてサリカが言う。
「うわーごめんなさい。確かに乱暴だったけど、ちょっとくせで変なとこ掴んじゃったかも。今度からはもうしませんから、ね? でもこれぐらいなら、男の子だったら平気かと思ったんだけど……えと、分かんないかな? じゃあこれならどうですか?」
そうして再び水の感覚がしたかと思うと、エルデリックの脳裏に白昼夢のような光景が広がった。
冬の光景だ。
真っ白な雪に埋もれた場所で、エルデリックと同じ年頃の子供からサリカのような年の子供までが沢山あつまって、雪玉を投げつけたり、後ろから捕まえた子供の首筋に雪玉を突っ込んだりしている。
エルデリックはショックを受けた。
なんだこの乱暴な光景は、まるでケンカをしているみたいだ。
そんなエルデリックに、サリカが笑う。
「違うんですよ。市井の子供ってこういった遊び方するんです。ほら、楽しそうにしてたでしょ?」
確かに子供たちはみんな、笑顔だったけど……と、そこでエルデリックは気づいた。
サリカが自分の心の声を聞き取っていることを。
「お祖母ちゃんに聞いてませんでした? 私、お祖母ちゃんよりは弱いけど、同じ力を持ってるんです。だから殿下の側にいなさいって言われて来たんですよ」
だから言いたいことが伝わるのかと納得したが、でも乱暴で怖いので離れたい。
また逃げだそうとしたエルデリックだったが、今度はすぐに腕を掴まれてしまった。
「とりあえず慣れてもらいたいんですけど……どうしようかな。逃げられてたら困るし。側にいないといけないし……あ!」
何かを思いついたサリカは、エルデリックをひょいと抱き上げた。
びっくりしたエルデリックだったが、
「予想より軽―い、可愛い、あったかーい」
そんなことを言って、サリカは抱っこしたエルデリックの頭に頬をすりよせる。
なんで抱き上げただけで、こんなに楽しそうになるのか。理解できないエルデリックは、とにかくこれ以上なにかされては困ると思って身動きできずにいたのだが、歩きながらサリカがエルデリックの背中を柔らかく叩き始めたことに困惑する。
「いい子いい子。殿下はいい子ですねー」
怖がって逃げたのに、いい子と言うのはどうしてなんだろう。
その疑問が彼女に伝わったんだろう。くすくすと笑いながら、サリカは言った。
「子供が怖がって逃げるくらいで、悪い子なんて言いませんよ。別に何か悪さをしたわけじゃないですもの。ほら大丈夫でしょ。お父様のいる所に戻るだけですから、安心なさって下さい」
そう言ってサリカは、父王や辺境伯夫妻が待つエルデリックの自室に連れて行ったのだった。
後になって思えば、サリカは王子の扱い方を知らなかったのだ。
だからこそ、子供らしい自由さでエルデリックを構った。
まずはエルデリックが怯えているので自分に慣れさせるため、そしてどこかへ逃げないようにエルデリックの腰に紐を結び、その端を自分に結び付けたりしたのだ。
繋いだ犬……というより、山登りの命綱のようだったが、それを見た召使達は悲鳴を上げ、父親でさえ驚愕に顎を外しそうになっていたのはよく覚えている。
辺境伯夫妻も「だ、だめだよサリちゃん!」と慌てたり、
「やっぱりあの娘にしてこの子あり……」
遠い目になってりしていた。
破天荒ながらも、サリカは幼いエルデリックを我が子のように可愛がった。
驚きながらもエルデリックの父は、サリカにそのままの対応を続けることを望んだので、彼女の態度が変わることはなかった。
……多少、辺境伯夫人によって王宮の雰囲気を逸脱しないようにと、礼儀作法を修正されたり、エルデリックへの言葉遣いなどを改めさせられたりはしていたようだが。
とにかく自分の心の中のこともありのまま表現するサリカに、怯えていたエルデリックも懐いた。彼女は嘘をつかないと、その能力でいつもエルデリックに伝えてくるのに、疑いようもなかったから。
やがて母親の代わりとしてサリカを独占したいと考えるようになっていた。
なにせ彼女がいるからこそ、エルデリックが最も近づきたくない人物が遠ざかっていったのだから。
自分の側にずっといてもらえる方法を考えていたが、他人だからいつかは離れなければならないと言う女官の話に、だったら家族になりたいと思って、サリカの祖母にもそう話した。
あの時の自分はまだ幼くて、側にいてくれさえするのならなんでも良かったのだ。
サリカの祖母には諦めるように言われたけれど、離れたくないという気持ちは強まるばかりで。
親子のように懐いてみせることで周囲には分かちがたい相手だと印象付けて、独占することぐらいしか思いつけなかった。
それでも、恋になる前から彼女を独占し続けられて良かったと、今でも彼は思っている。
たとえ彼女が、自分を子供としてしか見てくれなくても。




