番外編1 女官長ゾフィアのその後 1
「叔母様」
彼女を呼ぶ声は、ささやき声ほどの微かな大きさだった。
けれどそのかすれた声に、窓辺に置いた安楽椅子に深く座っていたゾフィアは目を開き、振り向いた。
「アリス」
名前を呼ばれたかすれ声の主は、はにかむように微笑んでゾフィアの側に駆け寄った。
動く度にふわりと揺れる波打つ金の髪が、あと二年もしたら二十歳になるという彼女を、幼く見えさせる。けれどその面立ちも、目が大きくあどけないものだった。
妖精のように儚げな美しさも、その幼い印象を助長しているようにゾフィアには感じられた。
とても苦難を経験した子供に見えないのは、彼女の純粋さゆえなのだろう。
「叔母様、今日はお茶を庭に用意しましたの。一緒にお花を見て下さる? お花の話を、また聞かせて頂きたいの」
きらきらとした眼差しで自分を見るアリスに、ゾフィアの頬もわずかに緩む。そうすると、部屋の隅にいた侍女がほっとしたように息をつくのがわかった。
たぶん、ゾフィアが無表情のままだから、何か落ち度があったのかもしれないと緊張していたのだろう。
(悪いとは思うのだけど……)
それでも彼女は、なかなか元のように表情豊かに過ごす、ということが難しくなっていた。
原因は分かっている。
ほんの三月前のことだ。
まだ王宮で女官長として働いていたゾフィアは、夫の関心が欲しいあまりにいうことを聞き、夫の妹夫婦の陰謀に係わってしまった。
妹夫婦は自分たちの娘を王子の妃にしようとしていた。
そのために、ゾフィアよりもよほど長く王宮に勤めていたサリカという女官を、妹夫婦達は殺そうとしていたのだ。
王子は女官のサリカにべったりで、貴族の親族である彼女を、一度祖父母である辺境伯家の養女として王子妃にするつもりでは、と思われたからだ。
けれど、ゾフィアの目から見て、サリカは王子を子供のように思っていると感じていた。
だから庇うためにお見合いをさせようと思い立ち、ロアルドに白羽の矢を立てたのだが。
(まさか……死神の血族とは)
かつてバルタの軍に壊滅的打撃を与えた死神と、同じ力を持っていたのだ。
あまりに不吉な力を持つことに、ゾフィアは恐怖した。そんな者を王族の側に置いていてはいけないと、女官長としての義務感からサリカを殺そうとしたのだ。
結果、サリカの怒りに触れて、彼女のことを知っていて庇護していた王に牢へと押し込められた。
その後は妹夫婦の手の者が、自分たちのことをバラされては困ると、ゾフィアをも殺そうとしたのだ。
けれど、ゾフィアを殺そうとしたことは、妹夫婦ら黒幕の目を欺くための演技だった。
多少なりと毒で危険な状態には置かれたものの、ゾフィアは一ヶ月後には回復。その時に国王直々にサリカのことを他言しないようにと誓約させられたのだ。
正直、あの時の事を思い出すと、まだ指先が震える。
それほどまでに未知の力を思い知らされたことも、殺されかけたことも恐ろしく、ゾフィアの心をむしばんだのだ。
だから王宮に居続けるのは恐怖を伴った。
ゾフィアは囮として捉えられたのだと公表され、他言無用の誓いと引き換えに自分の名誉は守られ、女官長を続けることに問題はなかったのだが、引き止めるフェレンツ王の言葉を振り切るように彼女は王宮を辞した。
しかしゾフィアは、家に帰ることも恐ろしくなってしまっていた。
今回の原因を作った夫は、妹夫婦の麻薬売買に関わっていたために捕まった。だから恐ろしい者は既にいないとわかっているのに、家にいると落ち着かない。
だから養子にした妾の子に爵位を継がせる手続きを行った後、心配して様子を見に来たロアルドを頼り、逃げるように屋敷を出てたのだ。
(どうせもう、私は必要ないのだもの)
家督を継いだ子供にとって、ゾフィアはただの邪魔者だろう。今頃は、法律上の母よりもよほど実母を頼りにしているはずだ。
何もかもを失い、心底恐怖で疲弊したゾフィアは、一か月もの間表情が抜け落ちたように戻らなかった。
それでも今は、薄くでも微笑むことができる。
全てはロアルドとアリスの兄妹のおかげだ。
行き場を失った彼女を招いたロアルドの前では、ありがたさに涙がこぼれたせいか、無意識に取り繕うという気持ちが動かないようだ。
そしてアリス。
ロアルドが救うのを、ゾフィアも手伝ったせいだろうか。彼女は母親のようにゾフィアになついてくれていた。
そんなアリスは、過酷な環境を経験したせいで見知らぬ人間を怖がる。昔は男性も年上の女性にもつい平伏してしまう癖がなかなか抜けなかったほどだ。
それなのに、ゾフィアに懐いてくれるのはなぜなのだろうか。
ゾフィアは時々それを疑問に思う。
おそらく兄ロアルドが、アリスを救うためにゾフィアが協力したことを話したのだろうが、それでも懐かない相手というのはいたのだ。
けれどアリスが自分に懐いてくれている事は、ゾフィアには救いとなった。
居候のゾフィアは、アリスの愛情によってここに居場所を作ってもらえているように感じるからだ。
苦労をした時に喉を痛めてしまったアリスは、聞き苦しくないようにしわがれ声がまざる声をごまかそうとささやくように話す。
その声が、ゾフィアには心地よかった。
心弱っているせいなのかもしれない。それでも、そよ風のように自分を包むアリスの決して荒げられない声に、癒されるのだ。
(ああ、もしかしたらそのせいなのかしら)
ゾフィアは思う。
アリスがこの家に引き取られてから訪問した時、その声が落ち着くのだと、いろいろ話すのを聞きたいと言ったから、アリスもゾフィアが何を話しても嫌がらない相手だと思って、ゾフィアに懐いてくれているのかもしれない。
そんなアリスが、子供向けのおとぎ話をあまりよく知らないとわかったのは、ゾフィアが館に厄介になってからだった。
孤児院へ放り込まれたのが幼かったのと、養父母の元でも虐待と放逐をされるばかりで、物語を聞く機会に恵まれなかったのだ。
それを知ったゾフィアはアリスに話をねだられ、我が子にしてやるように、午後のお茶の時間に子供向けの童話を語るようになったのだ。
今日は穏やかな日差しが空気を暖めている日だ。
青空の下でお茶を飲むのは、とても気持ちがいいだろう。
そう思ってアリスと共に庭へ出たゾフィアは、光花の祝福を受けた少女の話を語ってやった。
とても楽しそうに耳を傾け、時に質問を挟むアリスに答えながら、ゾフィアは思う。
(子供がいたら、こんな風にしてやれたのかしら)
女の子だったなら、いや男の子でも、物語をかたってやっただろう。夜眠る前に、寂しい気持ちをなだめるために。
(そういえば、あの子にはしてやらなかったかもしれない)
ふと思い出したのは、夫の妾が生んだ子のことだ。継嗣として養子にした時には、すでに10歳を超えていた少年ベルトルド。
もう寝物語を聞かせてやる年ではなかった。なにより、自分の子供ではない彼に、正直ゾフィアはどう接したらいいのかわからなかった。
しかも、彼は自分を振り向いてはくれなかった夫と愛人の子。
最低限の配慮はしたし、不自由はさせなかったと思う。けれど今アリスに感じている半分も、ベルトルドに愛情をかけてやったかと聞かれたら、自信はなかった。
そんなことを考えながらアリスと話していると、ロアルドの家の執事が来客を知らせてきた。
相手の名前を聞く前に、ゾフィアはこちらを遠くからうかがう一人の少年に気付いた。
成人の16歳を越えたばかりだとわかる、まだ柔らかさが残る顔の線。淡い茶色の髪を首元で束ねた彼の姿に、ゾフィアーは目を見開く。
ベルトルドだ。
「なぜここに……」
家督を継がせるにあたって、事務的な話は沢山したと思う。実の父親だから辛いだろうと思ったが、現状認識を正確にできなければ問題が起こると思って、夫のしたことや、自分が王に特別に許されたことなども語った。
署名するものもなくなり、今までも家を切り盛りしてくれた家令達に任せ、ロアルドに招かれて居候を始めてからは、全く連絡など寄越さなかったのだ。
だからこそ、何か家に問題が起きたのかと思ったのだが。
ゾフィアが応対すべきだと思って立ち上がりかけたが、それより先にアリスがさっと立ち上がる。
あまり顔を合わせたことのないベルトルドが怖いのだろう、アリスは肩を縮めるようにしながらも、ベルトルドに近づいていく。
「アリス?」
呼びかけに振り返ったアリスは、安心してくれとやや緊張した顔で微笑み、ベルトルドに向き直る。
そしてあの木々のざわめきを思わせるささやき声で何かを話し合う。
アリスに任せる形になってしまったことに、落ち着かない。まるでベルトルドと話すのが怖くて、アリスを盾にしてしまったような気持ち。
(いいえ、本当に盾にしてしまったのだわ)
法律上の息子。けれど決して自分を振り返らなかった夫が他の女を愛したからこそ生まれた子。
喉に小骨がひっかかったような気持ちになるのは、夫のことをサリカへの恐怖に関連して嫌悪するようになってしまったからだろうか。
居心地が悪くて、紅茶を飲んで気持ちを宥めていたところで、ようやくアリスが納得したような表情で戻ってきた。




