60 死神の歌
一瞬、投げ出されたのが自分の体だとは認識できなかった。
固い石床の上に叩きつけられたような痛みは、やや遅れてサリカの体をかけめぐって脳へと届く。
「いっ……」
腕が痛い。背中が痛い。
運良く丸まっていたのか、頭はぶつけずに済んだが、もしそうなっていたら下手をすると死んでいたのではないだろうか。
ついでに気絶前に殴られた腹もしくしく痛む。絶対にあざになっているだろう。痛みと湧き上がった怒りで、サリカはうっすらと意識を取り戻した。
薄く目を空けると、見えたのは白い石床だ。
磨き上げられて綺麗ではあるが、痛いのも当然だった。
視線を転じれば、どうやら貴族の家らしいことがわかる。大理石の白壁は美しく、大きく作られた窓には、透明な硝子と蒼い色硝子で美しい模様が作られている。重たげな臙脂のカーテンは金の房がつけられ、かなり高価なことが見て取れた。
(そんなとこにお金を使うなら、絨毯ぐらい敷きなさいよ)
痛みで不機嫌なサリカは心の中で悪態をつきながら、今度は自分を酷い目に遭わせた人間を捜す。
その前に、誰かが言った。
「あら、その子が……なの?」
その声を聞いた瞬間、サリカは上手く回らない頭の奥で、何かが警鐘を鳴らしているのを感じた。
やや濁った女性の声。かすれ具合から、四十代は過ぎていそうだ。この年頃の人で、サリカが警戒するような相手がいただろうか。
わからないながらに、心の奥底から『マズイ』と自分に囁きかける声がするのだ。
とにかく相手を確認しなければ。
視線を横にずらして上を向けば、こちらを見下ろす少年の顔が見えた。
この少年には見覚えがない。衣服こそきっちりとしてはいるが、高価な装飾品がついているわけでもない。むしろどこか貴族が私兵に着せた制服のように、厚い布で作られたかっちりとした形をしている黒服だ。
茶色の髪を首もとで束ねた少年は、どこかぼんやりとサリカを見つめている。
目が合っても特別驚くでもなく、まるで道ばたの蟻を見ているような有様だ。
女性の方は、返事をしない少年に話しかけ続けていた。
「地味な子ねぇ。あの子が係わってるっていうから、どれだけ綺麗なのかと期待したのよ? 女官にしてはドレスの趣味も最悪。どこが良かったのかしら」
こつ、こつ、と固いかかとの靴で歩み寄ってくる音が聞こえた。
近づいてきたら、これが誰なのかわかるだろう。
じっと薄目を開けて待ち構えていたサリカだったが、唐突に背中を蹴られて呻き声を上げる。
靴先が背中に刺さるような蹴り方に、思わずサリカは相手を睨みつけてしまう。
艶やかな金の巻き髪が視界に入る。見下ろす瞳はやや垂れた柔和そうな形の目の中で、獲物を見つけた猛獣のようにサリカを見すえている。そして赤く塗った唇。
サリカが『視た』ことのある彼女よりは目元と口元のしわが目立ち始めていても、この顔は間違いなく見覚えがあった。
「さすがは生粋の魔女ね。そう思わない? 慣らしてきた私でもくらくらとするのに、抵抗力がなさそうな顔してまだ正気を保ってるみたい」
ふうん、と感心したようなつぶやきが、酷く恐ろしい言葉のように聞こえた。
(逃げなきゃ、いや、倒さなくちゃ)
背筋が寒くなるような感覚に、サリカは焦る。
この女はラーシュを操っていた大叔母だ。
どうしてサリカに係わっているのかはわからない。けれどサリカに力があることをわかっていて、麻薬を使って捕らえたことだけで充分に危険だ。
けれど戒められていなくても、サリカの体は緩慢にしか動けない。ゆっくりともがきながら反撃の方法を探るサリカを見下ろし、女は笑う。
「ふふ。なんだか亀の子みたいね。そういう子をいじめるのも、楽しいわ。どうやって料理しようかしら」
身をかがめて、サリカに手を伸ばそうとしてくる女。
その指先が、襟元を掴んだ。
――かかった。
サリカは一気に力を拡散させる。
脳裏に響き渡るのはただ一つの音。体に幻の痛みを与えるためのもの。
最も近づいていた女は、サリカの力を直接受けて悲鳴を上げ、その場に倒れる。
そこへたたみかけるように自分の支配下に置くべく、精神への侵入を試みようとしたサリカは――背後から肩口を蹴られて突き倒された。
押さえつけている相手を確かめれば、先ほどのぼんやりとした少年だった。
「よくやったわ……ケイラ」
無様に倒れていた女は、起き上がって振り乱した髪を直すと、立ち上がる。
「地味な小魔女ちゃん? 私の新しい騎士はすばらしいでしょう。それとも知らなかったのかしら、特定の者の支配下にある時は、騎士は何者の能力の影響も受けないのよ」
サリカはぎょっとする。
この女はラーシュにも騎士と呼びかけていた。少年がラーシュと同じように、能力者の指示に服従してしまう体質の人間だというのか。
だとしたら、許せないとサリカは思う。
ラーシュだけではあきたらず、また別な被害者を作ったのかと。
大人しく自分の手を汚して実行するほうがまだ可愛い。なにもかも罪を従う者達に押しつけ、自分は高見の見物を続けているような女だ。
「引きずり下ろしてやる……」
優位に立つその壇上から、人を上から操ろうというその根性も。
サリカの呻きに似た言葉に、女は笑う。
「ああ、呪いの言葉だっていうのに、どうしてこんなに惹かれる声なのかしら……耳障りだからつぶしてしまおうかしら。ね? ちょっとおどしかけてみてくれる? ケイラ」
女が言うと同時に、無造作に左耳が掴まれて引っ張られた。
痛さに涙が出る。
それを中断させたのは、女ではなく別な人間だった。
「カトリーナ殿下、さすがに壊してしまっては後で利用価値が無くなります。もっと薬を強くすれば、殿下の望むままの言葉だけを繰り返す大人しい鸚鵡にできましょう」
部屋に入ってきた男は、厳つい体格で六十代近い年齢だろう。白髪をなでつけ、貴族のように厚い織りのテラテラとした朽ち葉色の上着を身につけているが、腹が出ているせいか前ボタンをとめることができていない。
セネシュ伯爵と共謀をしていたクリストフェルなのだが、当然そこまではこの時のサリカにはわからない。
ただ、平然とサリカを隷属させる動物扱いする言動に、サリカは腹が立つ。
けれどこのままでは何もできない。
「そうね。胃が焼き切れそうになるほど憎らしいのに、私に這いつくばってへりくだる姿っていうのも楽しいかもしれないわ」
女は機嫌が上向いたようにそう言って、サリカの背後にいたケイラという名の少年に離れるよう指示する。
代わりに近づいてきたのは、男だ。
「初めまして魔女殿。何度も殺そうとしては阻まれて私どもも悔しい思いをしましたがね、今日からは私たちの犬として役立ってもらうつもりですから、殺さなくて良かったというものでしょうな」
そうしてサリカの側に、香炉を一つ置いていく。
ふわりと漂うのは、気を失う前にも嗅いだ匂い。
頭が重くなる。
人を犬扱いは何事だと叫びたいほどの怒りも、とぎれとぎれにしか思い出せなくなる。
(このままじゃ、ダメ……)
このまま相手の思惑通りになってやるつもりはないのだ。
出来る事はないか。もっと考えろ。
サリカは血がにじむほど唇をかみ締め、そして自ら精神世界へと視界を切り替えた。
心をつなげる世界を切り替えると、麻薬の拘束からはかなり自由になる。そうして改めて世界を見渡す。
先程の女――カタリーナというラーシュの大叔母と老齢の男は部屋を出て行ったらしい。ケイラと呼ばれた少年は女に付き従っている。
カタリーナとケイラには手を出し難い。
ケイラは全くサリカの力を受け付ける隙がなく、カタリーナに手を出せばすぐにケイラが反応する。
それならば。
「操れないのなら、別な手を使うまでよ」
幻の声帯を震わせる。
――来よ来よ来たれ惑う者
ざわめく気配があちこちから感じられる。
サリカの声に気づいた『彼ら』は、じわじわと意識をサリカに伸ばしてくる。
――途切れぬ想いを抱く者 道を失いし者達よ
我こそは行く先を示す者 その想いを聞く者
憂いを託す代償を示せ
光に惹かれてやまない虫のように、魂の光がサリカの元へ集まってくる。
本当は、捕まる前に歌うつもりでいたもの。
真実、サリカ達の血族が自分の力を発揮するのは、精神世界へ強く影響を及ぼす声と、それを増幅する音。
音の連なりは、人を振り向かせる。
その声は、音によってさらに強い効果を発揮する。
だから歌ってはいけないと、戒められてきた。その声で音を奏でて意味ある言葉を伝えたならば、人は哀しい歌に絶望に染まり、喜びの歌でもその心を無理矢理に引き上げて、無理がかかった相手の心を殺してしまう。
そして昔、サリカの祖母が生まれる前、この方法を使って死神と呼ばれた男がいた。
その男は祖母の父親。
彼はステフェンス王国の軍に対峙するバルタの軍の前に、一人進み出て、自分の命を引き替えに歌ったのだ。
この歌を聴く者よ死の眠りにつけ、と。
そしてバルタの人々は半数以上が彼の力により眠らされ、一方的な虐殺の犠牲になった。
歌った本人も、また目覚めない眠りに陥って死んだという。
家族の命を盾にとられ、そして特殊な麻薬の力で時のステフェンス王に隷属させられていた彼が、唯一できる反抗方法が、力を使う時にその力で自死することだった。
けれど彼の力は強すぎて、彼が自殺しようと力を使えば、多くの人を道連れにせざるをえなかったのだ。
一方、サリカの力はそれほど強くはない。
だから代わりに得意な分野からの干渉を試みる。
サリカの声を聞けるのは、人だけではないのだから。
「良い子ね、では行きなさい」
サリカは語りかける。体を失った物達へ。
「生者に眠りを……ここへ引きずり込みなさい」
その瞬間に、サリカの側に集まっていた蛍ように光る者達は三々五々散っていく。
ケタケタと耳障りな笑い声を響かせながら。
長らく続きをお待たせしておりました。




