54 その存在の疑問と
たぶん、それは彼を救った伯父の言葉だったのだろう。
彼が新しい自分になるために心を切替えた、きっかけの言葉。
だからラーシュと呼びかけたサリカに答えてくれたのだ。
目覚めるまでのわずかな間隙。
サリカは白い光がわずかに残る何も無い空間で、再びもう一人のラーシュと向かい合う。
ずっとサリカの側でささやきかけていた彼は、すぐ後ろにいたようだ。振り返れば間近でその顔を見上げることになった。
現在のラーシュと同じ顔と姿で、けれど少し奇矯な格好をしたその人は、嬉しそうにサリカを見ていた。
「おめでとうございます我が主よ。無事に目的を達成されて、下僕たる私も喜ばしく思っております」
「……ほんとうに?」
サリカは彼を睨むようにして見上げる。
ラーシュその2は心外だという表情で首を傾げて見せた。
「お疑いになるのですか?」
「ええ。だってあなた。ラーシュの夢に介入できるのでしょう? なぜわかっていながら貴方がしないの?」
サリカの言葉に、ラーシュその2が笑みを凍らせる。
図星をついたのだろう。
サリカも途中までは、ラーシュのことを考えるだけで手一杯で気づくのが遅れた。
けれどこの下僕としてへりくだってみせる幽霊が、ラーシュの夢の中で『別個の存在』として考え、サリカに語りかけることに違和感をおぼえ――そしてハッとしたのだ。
同一の存在といっても、ラーシュとは別に思考する魂。それが己が下僕だと言う存在なのだ。
それでも笑顔が凍ったのは一瞬だった。ラーシュその2は、すぐににこやかに応じる。
「我が主。でも声を届けることができるのはあなた様だけ。ですから貴方様がいらして下さるまで、私はただここで待ち続けることしかできないのですよ」
別な存在であっても、心や夢に語りかけることはできないという。
その理屈を信じたわけではない。ただ、サリカは少しずつこの場に留まりづらくなる圧力を感じていた。
まるで深い水に潜ろうとして、水に押されて浮き上がらされるような感覚だ。
――もうすぐラーシュが完全に目を覚ます。
彼が意識を取り戻せば、心の中に入り込む力が弱いサリカは追い出されてしまうだろう。
だから追求を諦めた。
「いいわ。この事については後で問い詰める」
するとラーシュその2はなぜか顔を赤らめた。
「え、我が主。また私に会いに来て下さるんですか!?」
「……なんで嬉しそうなのよ」
「だって主……」
ラーシュその2はもじもじと身をよじり始める。正直気持ち悪くて、サリカは一歩後ずさる。
「私に会うってことは、宿主が眠っていないと不可能でしょう? 寝込みを襲ってまで、私に会ってくれるだなんて……きゃっ」
顔を覆ってはずかしがる彼に対し、サリカはむかっとする。
「なんで私が貴方を襲わなくちゃならな……!」
しかし言葉は途切れてしまう。
とうとうサリカは、ラーシュの中から追い出されたのだ。
***
「……っ」
急に意識が引き戻ったショックで、サリカは叫びそうになって息を飲む。
目をまたたいてから、サリカはラーシュの様子を見ようと起き上がろうとした。
本当にあれで上手く行ったのか、確認したかったのだ。
それと同時に、手を握ったまま寝台に突っ伏すようにして眠っていたので、ラーシュが起きた時にこれを見られるのは恥ずかしい気がした。なので早く手を離さなければと思ったのに。
けれどその前にきゅっと、自分の手を握り返されてしまう。
思わずサリカは身動きがとれなくなった。
起き上がる気配に、ラーシュの方がサリカよりも先に目を覚し、活動を始めたことはわかる。
わかるけれど、どうして手を握ったままなのか。
無事に目を覚してくれたのは喜ばしい。けれどもサリカが起き上がるタイミングを見失ってしまって、どうしたらいいのかわからない。
無言のまま起き上がったラーシュの視線が、ちくちくと針をさすように自分の手に突き刺さっているような気がする。
(ど、どうして何も言わないの? っていうか握った手、早く離してくれない……かな)
サリカは戸惑う。
けれど沈黙が長くて、もしかしてサリカの目が覚めていることをわかっていて起きるのを待っているのか? とも考えた。それにしては手を握られたままというのは起きづらいし、意味がわからないのだが。
このままでいても仕方ない。だから身を起こそうとしたサリカだったが。
(え……うわ……)
握っていた手が持ち上げられた。そして手の甲に感じる柔らかなものが羽のようにこすれて触れる。
何の感触か。何のために持ち上げたのか。
考えると心の中に汗をかきそうな程サリカは慌てる。
(まっまっまさかくくくく口ぃ!?)
口づけなのか。なんでそんなことをするのか。ぐるぐると心の中を三周ぐらい走り回る想像をしたあと、そうだ、とサリカは思いつく。
(そうだこの人も貴族なんだし。挨拶で手の甲に口づけるのはよくあることだし……)
だから挨拶代わりなんだろうと思ったサリカだったが、なんの挨拶で起き抜けに自分の手に口づけたのかは、サリカは考えないようにする。
きっとそれぐらいの軽い気持ちなのだと。
「お前に助けられたのか……俺は」
ふっと漏らした吐息がサリカの手にかかる。その熱さで、甲だけ発火しそうでサリカはみをよじりたくなった。
たぶんラーシュの声が、寝起きでかすれて、妙に色気がかっているのも心臓に悪い。
しかし次の言葉に、サリカはわずかに眉をよせた。
「守ってやるつもりだったのにな、逆に助けられるとは情けない」
(え……)
まって、そんな風に思わないでとサリカは言いたくなる。
確かにサリカはラーシュを助けたけれど、これはそんな風に後悔されたりするようなたぐいの物ではないはずだ。
サリカにできたからしたこと。
ラーシュが昏睡状態に陥ったのも、彼の責任ではないのに。
「今度こそ……。次は麻薬にも足をとられない。自分の意思で守ってみせると決めたのに」
(……自分の、意思)
おそらくは、故国では他人の意思によって誰かを守ることを強要されてきたラーシュだからこそ、自分の意思で守ると決めたことを実行したいのだと思う。
でもそれは困る、とサリカは思った。
サリカを守ろうとすればするほど、ラーシュが危険にさらされる率が上がるのだ。
またラーシュが死にそうになったら。サリカは目を閉じたまま動かず、少しずつ衰弱していくラーシュの姿を思い出すだけで、涙が出そうだ。だから心の中で「嫌だ」と強く思う。
これだけの強さを持ってるラーシュですら、剣での戦いを封じられてしまっては抗えないのだ。
――頼っちゃいけない。
サリカは強く思う。死なせたくない、死んで欲しくない。あんな目にあっても、サリカに優しくしてくれて、今まで守ってくれた人を。
心に決めたとたん、胸が痛むような気がした。
ここからは本当に一人になる。その心細さが、幻の痛みを呼び起こしたのだとサリカは思った。
一方で、つい自分の手に力が入ってしまったようだ。
ラーシュの手を握り返してしまい「サリカ? 目が覚めたのか?」と尋ねられてしまう。
「う……」
実に嘘くさい演技ながらも、サリカは小さく唸って今目が覚めたばかりのように起き上がった。
はっとしたように、離れていくラーシュの手がなんだか寂しい。
けれどつながれたままではサリカもどうしていいかわからなかったので、放してくれて助かった。
わざとらしくも目をこすりながら、前を向いてラーシュと視線を合わせたサリカは微笑んだ。
「ラーシュ、起きたの!? 良かった。三日も眠ったままだったんだよ!」
少し、頬に力が入りすぎていたかもしれない。
それでもサリカは笑みを浮かべ続けた。ラーシュに余計なことを気取られないように。




