50 黄昏の迷い道
ラーシュは自分がいつ座り込んだのかわからなかった。
へたりこんだラーシュは、ぼんやりと食堂の戸口を眺める。
あと一歩でそこから出るはずだった。
なんの変哲もない毎日の行動の一つで、それが急に叶わなくなった異常事態に、ラーシュはそれでも焦る気持ちが湧いてこない。
ただ『これはマズイ』という単語が頭の中に浮かぶ。
指一本動かせない。この状態では誰かに忍び寄られようと、ナイフを突き刺されようとも避けることすらできない。
「ラーシュ様、大丈夫ですか!?」
そんなラーシュの状況に気づき、何人かが近づいてくる。
一人は、サリカの同僚ティエリだ。ラーシュの目の前に移動してきた彼女の顔色もどこか冴えない。答えることもできずに見ているうちに、彼女も具合が悪そうに口元を抑えてうつむく。
他に集まってきた顔見知りの騎士達も、顔が青ざめ「なんだこれ……」と戸惑った表情に変わる。
「毒か!?」
「食中毒……とか」
「腐った物を食わされるわけないだろ!」
周囲に広がっていく疑問の声。皆気持ちの悪さを感じ始めたが、その効果の緩さから精製毒よりも食中毒を疑ったようだ。
「あなた方、これはどうしたことです?」
そこへ女官長がやってきたようだ。
完全にうつむいているラーシュには見えないが、声でわかる。
けれど女官長と話しているうちに、皆具合の悪さが悪化したのか、呻き声が上がる。目の前のティエリも、具合が悪そうにその場に膝をついた。
「なに……あれ……」
血の気が引いた顔で、ティエリが床を見つめながら呟く。
「色が……目がちかちかして気持ち悪……」
その言葉に何かが引っかかった。のろのろと考え始めたラーシュだったが、視界に黄昏色の布が映った瞬間、意識が闇に飲まれそうになる。
そのとき初めてラーシュはぞっとした。
――この感覚に覚えがあった。
ぐっとこらえ、唇をかみしめて顔を上げたそこに、黄昏色の手布を持つ女官長がいた。
「ラーシュ様大丈夫ですか? ほら、誰か医師を呼んで!」
女官長は他の無事な者に声をかける。
その行動に、ラーシュはよけいに混乱した。
(医師を呼ぶのなら、女官長が犯人ではないのか?)
黄昏色に目が過敏な反応をする毒に、ラーシュは心当たりがあった。
黄昏の幻惑と呼ばれる毒。体を脱力させて、精神を混濁させるもの。意思を奪って、言いなりにさせるために使う毒だ。
それを知っていて、黄昏色の布を持っている女官長が犯人なのかと思ったが。医師を呼んで事を大きくするなら、この毒をばらまいた当人がする行動とは思えない。
かといって、それ以上は頭が茫洋として考えることができなかった。
そして集められた無事な衛兵達によって、最も症状の重いラーシュが別室に運ばれる。
ソファに身を横たえられ、ほっとしたラーシュだったが。
「うぐっ……」
小瓶を無理矢理口に入れられ、苦い味が広がる。
舌がしびれ、痛みを感じた。喉が、胃が焼け付くような感覚に今度こそこれは毒だと察して横を向いていくらか吐き出す。
そしてむせかえるほどの花の香り。
飲ませた女官長の方は、ふるえる手に小瓶を握ったまま、ラーシュが液体を吐き出すのを止めることもなく、立ち尽くしている。
「……ごめんなさい。でも、あなたは邪魔なのよ」
わびる女官長の声を聞いたのを最後に、ラーシュの意識は沈んだ。
***
幸いにも、ラーシュはそれほど多量の毒を飲んでいなかったようだ、とサリカは聞かされた。
一人だけ具合が悪くなって死亡するのでは足がつきやすいと、いくらかを食事に混ぜてしまっていたため、そもそも飲ませたのが致死量に足りていなかった、というのも幸いしたらしい。
その後やってきた医師が薬液を強制的に飲ませて吐かせたりもしたので、かなり毒自体は改善されたはずだという。
けれど目覚めない。
ラーシュは眠ったまま別室に移されており、サリカはエルデリックの付き添いという形で状況を聞いていた。
老齢の医師は、フェレンツ王に告げた。
「他の者の証言から考えて、この毒の特性による眠りかと思われます」
毒の名は、黄昏の幻惑。
少量だけを使えば、麻薬としての効果があるが、同時に瓶一本分で人を殺せる濃度の毒でもあるらしい。
しかし昏睡するにしても足りなさすぎる量しか飲み込んでいないはずで、そもそも他の者と同じものを口にした時から、ラーシュだけが。
「あとは、昔使っていたことがあるか、ですな。常習といえる範囲で」
医師の見立てに、サリカは目を瞬く。
(ラーシュが……麻薬常習者だったってこと?)
他国からの預かったとフェレンツ王が言っていたが、まさか麻薬常習でなにかやらかして、そのせいで故国に居づらくなって逃げてきたのだろうか……。
いやまさかそんな犯罪者なことするような人には思えないし……。
サリカは荒唐無稽な思考に傾きそうになる。
変な事を考えてしまうのは、緊張にサリカ自身が耐えきれなくなっているからだろうとわかってはいた。
ラーシュが死ぬかもしれないと衝撃を受け、頭の中身がふっとんでいたとはいえ女官長を殺しかけ、サリカは限りなく疲弊していた。けれども医師の診断を聞きたいとエルデリックに頼んで、同席させてもらっているのだ。
落ち着け落ちつけ、と手を握りしめ、ひらいてを繰り返す。
その時ふと視線を感じて見れば、エルデリックがサリカに視線を向けていた。サリカと目が合うと、彼はにこりと微笑む。
サリカもほほえみ返し、肩の力がするりとわずかに抜けた気がした。
「とにかく目覚めるまでは見守るしかありますまい。毒の量から考えれば、長くとも一日はお待ち下さい」
医師の締めくくりの言葉を、サリカも信じた。
けれどラーシュは、三日経っても目覚めなかったのだ。
「もう三日も……」
サリカは呆然とつぶやきながら、今日も目を覚まさないラーシュを見つめる。
世話を命じられた召使いや侍従によって、なんとか水分は摂取させているものの、食事をとらないせいで顔もやつれてきている。毒のせいで発熱したのも手伝って、体力はかなり削られているはずだ。
その熱も治まったというのに目覚めない。
医師が痛みの刺激を与えても、気付けのにおいをかがせてもラーシュは何の変化もみせなかった。
サリカが能力を使って呼びかけてもダメだった。
固く閉ざされたままの瞼。わずかに開いたかさかさの唇。
医師は困惑しながらも、このまま水だけで命をつなぐのは不可能だと言い、目覚めないようであれば眠ったまま死ぬ可能性もあると告げた。
――毒に体が馴染み過ぎていて過剰なまでの効果がでているのかもしれませんが……。
医師も確かなことは言えないようだった。
ラーシュを預かったというフェレンツ王は、どこかへ知らせをやったようだ。もしかするとラーシュの故国の親族かもしれない。逢いに来るわけにはいかなくても、知らせだけは送るつもりなのだろう。
エルデリックは、サリカをラーシュの側にいさせてくれるよう取りはからってくれた。
そしてこの部屋を日に一度訪れる度に、サリカに優しい言葉をかけてくれる。サリカがあの時、錯乱しかけたからかもしれない。
女官長を殺しかけた時に、エルデリックが止めに来てくれたのは、勘だったと言っていた。
今王宮で最も暗殺される可能性が高いのはサリカだから、それを心配して来たのだという。
一方女官長は、捕まる前に自分も残った毒を煽った。
わずかな量の毒ではあったが、ラーシュよりも効果は弱いものの一時は錯乱し、昨日から落ち着きを取り戻したものの、相乗効果でまたしても廃人になってはたまらないと、ブライエル得意の薬による自白がさせられなくて困っているらしい。
サリカが自分の秘密について知っているとフェレンツ王に話したので、下手に誰にでも尋問させるわけにもいかず、地下牢へ移動させられ、とうとうサリカの祖母を召喚することになってしまった。
それでも一度、サリカは女官長から告白して欲しくて会いに行ったのだ。
ロアルドから、見合いはサリカを守るためだったと聞いたことを思い出し、それをきっかけに何か聞き出せないかと考えたのだ。
最初おびえた様子だった女官長も、サリカが脅して悪かったと言えば、少し平静な態度には戻った。けれど何も話してはくれなかった。
『ロアルドは関係ありません。あの子はお金を代償に言うとおりに動いただけで、何も知らせていないのですから』と。
ロアルドにしても、恩がある女官長のためなのか、そのほかの事は何も知らないと言うばかり。
証人もいない会話の中で暗殺についての話を示唆しただけのロアルドに、尋問するわけにもいかず。
少なくともサリカを救ってくれた彼から、再びひっそりと『話せば自分が殺される』と言われてしまっては、サリカも追及できなかった。
八方ふさがりな状態で、サリカはラーシュを看ることしかできない。
ラーシュの精神に強制的に介入して起こそうにも、サリカの能力ではきちんと起こせるのかも不明だ。
一方、フェレンツ王の依頼で祖母が南のリンドグレーンから戻るとしても、急いでも一週間はかかるだろう。しかも今回の依頼は、祖母がいなければ成り立たない代物らしいので、そちらの要件が片付かなければ、祖母も帰国できない。
扉の外をフェレンツ王の騎士に守られた部屋の中で、サリカはラーシュの眠る寝台の端に突っ伏す。
「なんでこんなに役立たずなんだろう……」
能力は中途半端で、だけど能力のせいで狙われて、なのにそのせいで誰かが被害を受けても助けられない。
サリカは鬱々としているうちに、すうっと眠りの中に落ちていった。




