45 迷う気持ち
「珍しいな」
エルデリックと差し向かいに座ったフェレンツ王は、黒塗りの駒を持ち上げ、静かに斜め前に置き直す。
駒が置かれているのは、幾つもの線が縦と横に引かれた盤の上だ。
馬をかたどった駒は、少し離れた燭台の揺れる明りを映して表面を橙色にきらめかせている。
「確かにこの遊びなら、サリカは側にいなくてもいいだろうけれどね」
フェレンツ王が言うように、確かに珍しくこの場にサリカはいない。ゲームをする時にはサリカは常にいる必要もなく、特に夜、フェレンツ王といる時には早めに下がらせてしまうことも多かった。
けれど今日ばかりは、エルデリックがわざとそうしたのだと父親であるフェレンツ王は気づいたようだ。
「何か話したいことがあるのかい?」
エルデリックは盤の横に置いた紙に、さらさらと書き綴る。
【僕は……迷っているんです。サリカのことを】
読んだフェレンツ王は片眉を上げた。
「何を?」
問いに対して、新たな言葉が紙の上に記された。
【おばあさまとの約束を、違えてしまいそうで】
エルデリックが『おばあさま』と呼ぶのは一人だけ。
8年前、始めてエルデリックの言葉が通じた相手。サリカの祖母だ。
その当時、祖父母は既に亡くなっていて、白髪の人間と言えば自分を見ては嘆く貴族達や侍従ばかりで、そのくせ冷たい目を向けてくる存在だった。
そんな中、うっすらとだけ元の亜麻色の輝きが見て取れる髪をゆるく結い上げたサリカの祖母は、まだ四歳ながらに老人は敵ばかりと思っていたエルデリックの認識を変えた人だ。
以来、彼女を慕うがゆえに、そして姉のように側にいるサリカがそう呼ぶのを真似て、エルデリックはサリカの祖母を『おばあさま』と呼ぶようになっていた。
フェレンツ王は顎に手をあて、じっとエルデリックの綴った文字を見つめて言った。
「お前が違えそうなのは……サリカに関する約束か。手放すのが恐くなったのかい?」
問われたエルデリックは、しばらくペン先を見つめていた。
それからインクをつけ、書き足す。
【一時でも手放すのは苦しい事を、自覚しただけで】
フェレンツ王は困ったように微笑んだ。
「私にも、同じ気持ちになった覚えがあるよ。私もまた幼くて……だからこそ彼女を手に入れたかった」
でもね、とフェレンツ王は続ける。
「多分、私では彼女の望みを叶え続けられない。そう思ったから諦めるしかなかった。それでも年齢のせいにしたくなることもあったし、親友を恨みたい気持ちになったこともある。それでも彼女を失うよりは良かったから、何も言わずに遠くから眺める事を選んだ。……お前までも、似たような相手にそういった感情を抱くとは思わなかったがね。でも、お前もそれらを踏まえて今回の件を了承したのだろう?」
じっとフェレンツ王は答えを待ったが、エルデリックはなかなか返事を書けない。
エルデリックも、父親が初恋の人を諦めた経緯はわかっている。
恋をしていると悟らせず、打ち明けることもなかったということも。
だが普通、父親の昔話を聞くにはエルデリックの年齢は早すぎるだろう。思春期を迎えて、恋に悩むようになってから気になるようなことだ。
しかしそれにはエルデリックの母親。亡き王妃の事が関わってくる。
【なぜ、父上はその気持ちを母上に気取られたのですか?】
王妃は愛されて結婚したはずだった。けれどエルデリックの記憶の中には、本当には自分を見てくれないと嘆いては、周囲を困惑させる姿が刻まれているのだ。
そのことに関連して、エルデリックは父王の想いを知ることになった。
「彼女は勘が良すぎたんだ……最後まで私は否定したし、結局この事はお前にしか話していないんだけどね。ああ、私が先に話したのではなく、お前の方が先に気づいてしまったのだったか。母親に似て察しが良すぎたのだね」
そう語るフェレンツ王の笑みには、哀しいような悔やむような色が隠れていた。
周囲にも、最後まで王妃の不安は理解されなかった。なぜならフェレンツ王は他の女性と親しくすることもなく、王妃だけを大事にしていたから。
そして『おばあさま』への対応も、親友の一人という扱いを崩さなかった。自分のためにも、彼女のためにも。
だからこそ、今でもフェレンツ王は王妃を愛しすぎて誰も後添えを選びたくないのだと思われているのだ。
「もし、お前が彼女を守れると思うならば、今まで積み上げた全てを崩すのもいいだろう。実際にはサリカ次第ということになるがね。ただ、サリカが別の誰かを選べば、私は彼女に味方せざるを得ないよ。彼女と彼女の血筋の者を守るために。お前も彼女と約束しただろう? サリカを貸す代わりにと」
エルデリックはうなずいた。
八年前のあの日。
「必ず貴方の声を聞き、貴方を守ってくれる子を側に置くことはできます」と言った『おばあさま』。エルデリックの誰にも明かせなかった心の内を全てを知った上で言った彼女に、エルデリックは問いかけたものだった。
「ほんとうに?」と。
エルデリックには『おばあさま』のような人間は、この世に二人と居ないと思っていたのだ。何も知らなかった幼少の頃だから仕方のないことではある。
しかしそんなまだ幼児の域にいるエルデリックに『おばあさま』は、大人を相手にするように条件を出したのだ。
「けれど、代わりに貴方はその子を守らなければならない。自分で戦えるほど強くはないあの子は、その能力をほしがる人間に壊されてしまう可能性が高い。そして王宮に置くということは、そういった人間に見つかる可能性も高くなるということ。だから貴方は、自分の言葉を聞いてくれる人を失いたくないのなら、何よりあの子の命を守ることを約束できなければいけないの」
サリカを守ること。
それだけは理解できたので、エルデリックはうなずいた。
その頃には自分が特別に周囲に気遣われている存在だと分かっていたし、ある程度人が自由に動かせることも理解していた。だからできるだろうと思ったのだ。
あの頃は、自分を理解してくれる人間が常に側にいる状態がほしかったから。
けれど今、その約束が重くエルデリックの肩にのし掛かってきていた。
「しかも、今彼女に必要なのは、敵を自分の側から凪ぎ払う剣だ」
フェレンツ王のだめ押しの言葉に、エルデリックはうなずく。
【分かっているつもりです】
さら、とエルデリックは物わかりの良い言葉を書く。
わかってはいるのだ。
急に狙われ始めたサリカを守るには、王宮の守りだけでは足りなくなってしまったことも。
それに国王になることが定められているエルデリックでは、素直に彼女を望むことは難しい。
結婚に至るまでの困難さだけではない。もし思い合うことができて結ばれたとしても、子供の問題がでてくる。
サリカ達の力は、親から子へ遺伝していく。
王になったら血を残さなくてはならない。王女ならば、政略で決まってしまえば他国へ嫁がねばならないかもしれない。それなのにもし子供があの能力を宿していたなら、どうなるのか。
あの血を、この地に留めて静かに暮らさせてやるためには、権力が大きすぎてはいけない。
もしくはもっと強い権力を持たせてしまうしかない。ただ王にさせるだけではだめなのだ。強力な基盤を受け継がせて、本人自身が何者の言葉も退けられるようでなくてはならないのだ。
けれどあの一族はそれを望まない。
人の心を簡単に操れるからこそ、恐れ、忌避してしまうのだ。
ならば親族を王に強引に据えられるほどの権力をエルデリックが握れなければ、サリカを手に入れても、彼女の祖母との約束は果たせないだろう。
だからこそとエルデリックは決意したはずだった。彼女を絶対的に守るだろう剣を、サリカの側に置くことを。自分が守れない分、彼女の命令を絶対的に聞き、彼女を死守するようにしむけるために、恋人役を押しつけた。
けれど完璧にサリカを守るには、ラーシュには足りないものがある。
サリカにも、欠けているものがあるのだ。
それが満たされなければ、サリカの身の安全について安心はできないだろう。サリカが無事でいなければ、エルデリックが欲しい未来には手が届かない。
二人に不足している部分について考えながら、エルデリックが何も書かずにうつむいていたからだろう。
納得できていないと思ったらしいフェレンツ王が、言い添えた。
「たぶん……手に入れられないからこそ、焦がれるのかもしれない。いずれお前もそう悟る日が来るよ」




