36-王都防衛戦 ──王たちの帰還
王都近郊の森の上空に突然現れた、巨大な黒竜。
物見からの報告によると、現れた黒竜は特に動きを見せず、その場にじっとしているらしい。
だからと言って、それで安心できるものでもない。今後その黒竜がどう動くか判らないのだから。
そしてたった今、別の伝令が謁見の間に駆け込んで来た。ついにセドリック・エーブルの軍が動き出し、王都の西部と南部の城壁近辺で激しい攻防戦が開始されたらしい。
だが、なぜか東部に展開していた部隊だけは、現れた黒竜に向けて軍を移動させたとの事。
「黒竜に向けて軍を動かしただと? 突然背後に現れた黒竜を敵と見て、後顧の憂いをなくす算段か? だが、黒竜が突然現れた理由が判らん。下手に竜を刺激して最悪の事態にならねばいいのだがな……」
この報告を聞いた時、ガーイルドは黒竜に向けて動き出した東部部隊の意図が今一つ理解できず、しきりに首を捻っていた。
黒竜が敵か味方かの判断など、ミフィシーリアやガーイルドにできるはずもなく。
敵ならば迎撃の準備が必要となるが、味方の場合──味方でなくても積極的に敵対行為を見せない場合──、下手に刺激を与えずにこのまま立ち去るのを待つのが無難だろう。
それはミフィシーリアたち王国側だけではなく、攻め寄せているセドリック側も同じのはず。
なのに、なぜ積極的に竜に向けて軍を向けたのか。それがガーイルドには謎だったのだ。
ばん、と大きな音が突然、謁見の間に響き渡る。
謁見の間にいた者──ミフィシーリア、ガーイルド、サリナ、リーナ、その他の国の重鎮たち、そして伝令のためにここに控えていた兵士たち。彼らの目が、一斉にその闖入者へと向けられた。
「……コトリ?」
その人物を見て、ミフィシーリアはその名前を思わず呟いた。
闖入者──コトリは今、厨房でアミリシアの手伝いをしていたはずだ。その彼女がなぜ、突然謁見の間に飛び込んで来たのだろうか。
コトリは首を傾げるミフィシーリアに走り寄ると、満面の笑顔で彼女の両手を取った。
「パパが……パパが王都の城壁の外まで来ているのっ!!」
コトリがそう告げた時、ミフィシーリアの顔は、いや、謁見の間にいた者全員の表情が輝いた。
ユイシークの帰還。それはミフィシーリアたちが最も待ち望んでいたものだからだ。
そんなミフィシーリアたちを前に、コトリは更に言葉を続けた。
「それでね、まだ続きがあるんだけど……大っきな黒い竜が現れたって、報せはもう届いている?」
「はい。その報告なら先程受けましたが?」
「あのね、パパがその竜には手出しするなって。バロステロスはコトリたちの味方だから攻撃しちゃ駄目だって言ってたのよぉ」
コトリがその名を口にした瞬間、謁見の間の時が凍りついた。
バロステロス。
かつてこの国を襲った災厄の化身。
この場にいる誰しもが、巨大な黒竜と聞いてその名前を思い浮かべていた。
だが、敢えてその名前を誰も口にしようとしなかったのだ。
それほど、バロステロスという名前は、この国では禁忌なのである。
それなのに。
それなのに、ユイシークの言葉を信じるなら──この場で彼の言葉を信じない者など皆無だが──、バロステロスは敵や中立どころか、王国にとって味方なのだという。
「ま、待てコトリ。なぜ、シークはバロステロスを味方だと判断したのだ? それどころか、現れた黒竜がバロステロスだという確証はどこにあるのだ?」
ガーイルドらしくもなく、他の重鎮や兵士たちがいるにも拘わらず、彼はユイシークの事をシークと呼んだ。それほど、コトリが告げた内容は衝撃的な事だったのだ。
だが、更に衝撃的な内容がこの後、コトリの口から飛び出した。
「あのね、バロステロスは「魔獣使い」が呼び出したんだって。パパがそう言っていたのよぉ」
コトリがユイシークから伝えられた、バロステロスと「魔獣使い」の関係。
それを聞いたガーイルドが唸り声を上げた。
「うむ……俄には信じ難い話だが、あいつもこのような時に悪ふざけはしまい……ならば、今の話は本当なのであろうな」
「では、我らは今のところ、東方を気にする必要はないのですね?」
「その通りですな、ミフィシーリア様。もちろん、バロステロスがセドリックの軍に倒されたとなれば話は違ってきますが」
たかだか一万の軍にやられるようでは、過去に災厄の化身などと呼ばれはしますまい。
ガーイルドがそう付け加え、ミフィシーリアとサリナ、そしてリーナは彼のその言葉に頷く。
「ですが、油断はできません。西と南では城壁を巡って攻防が続いているのでしょう?」
「そのようです。連中、攻城兵器まで持ち出して来ておりますわい。確かに油断はできませんな」
「攻城兵器……ねぇ。そのような足が遅くて目立つシロモノ、いつの間に王都の近くまで運んだのかしら? それも私たちに気づかれることもなく」
口元にその白くて細い人差し指を当てながら、リーナが疑問を口にする。
彼女の言う通り、投石器や破城槌などの攻城兵器は強力な反面、運用に専門の工作兵を必要とするし、何よりその大きさと重量ゆえに移動に時間と手間がかかる。
遠方から運んだりすれば、嫌でも目についてしまうだろう。
「……分解した状態で馬車などに隠して運び、王都の近郊……例えば森の中などで組み立てたのではないでしょうか? あ、あの、も、申し訳ありません。し、素人考えで憶測を言ってしまって……」
リーナの疑問に対して、ミフィシーリアは思いついた事を思わず口にするが、皆の視線が集まっている事に気づいて委縮してしまう。
この辺り、事実上王妃の座に就いたとはいえ、彼女本来の気質が覗いてしまう一面であった。
「いや……ミフィシーリア様の予想は、案外的を射ているやもしれませんぞ?」
ガーイルドの言葉通り、ミフィシーリアの予想は実は的中していた。
セドリックはもう随分と前から、攻城兵器の類を分解した状態で王都近郊の森、それも周辺の住民があまり寄りつかない地域を念入りに探り、そこへ少しずつ運んでこっそりと組み立てを行っていたのだ。
もちろん、組み立てる際にも王国の兵士や近隣の農民や猟師に気づかれないように、細心の注意を払いながら。
そして決戦の前夜、夜陰に紛れて攻城兵器を森から運び出し、王都の外周の平原部へと展開させた。
これまで、カノルドスでは攻城兵器を分解して現地で組み立てるという運用をした者は皆無だった。
攻城兵器は時間と労力をかけて運ぶもの。その通例と常識の裏をかいた、セドリックの細かで時間をかけた策略が、実を結んだ結果と言っていい。
だが、ミフィシーリアに軍事的な知識は殆どない。逆にその事が、セドリックの目論見を看破した原因となったのだった。
その後も様々な報告が謁見の間に舞い込んでくる。
「王都西部で激しい雷光を確認! また、西方城壁上に展開した部隊より、王家の旗を確認したとの事です!」
「王都南部の正門が敵軍に破られました! ですが、同時にその方面にて数体の魔獣の姿を確認! 魔獣の内の一体が、破られた正門を守るように立ちふさがっております!」
「西方にて、ユイシーク国王陛下とキルガス近衛隊長の姿を見たとの報告あり! 現在、陛下と近衛隊長はたった二人で敵陣に壊滅的打撃を与えております!」
「敵東方部隊、黒竜に対して攻撃を開始しました! 現在、黒竜と敵東方部隊は戦闘を継続中!」
「南方城壁上に『魔獣使い』を名乗る者が現れ、陛下の命令の元、同方面の戦闘指揮を取っております! その『魔獣使い』の指示に従ったと思しき飛竜が、敵南方部隊の後方に配置されていた攻城兵器に対して攻撃を敢行、これをほぼ壊滅! 現在、南方の攻城兵器は沈黙しております!」
「西方より報告! 同方面の攻城兵器も沈黙致しました! 未確認情報ですが、敵工作兵に何者かが奇襲攻撃を加えた模様!」
入る報告は全て王国側有利のものばかりであり、ミフィシーリアを始めとした防衛戦本陣にいる者たちに安堵をもたらす。
中でも、ユイシークと「魔獣使い」が参戦している事が、彼女たちの心を支える大きな材料となっている。
そして、この二人が姿を見せてから以降、前線の兵士たちの士気が軒並上昇しているとの報告に、ガーイルドが納得したように頷いた。
「『英雄効果』という奴ですな」
「『英雄効果』……ですか?」
英雄とは、単独もしくは少数で数多くの敵を打ち倒すだけの存在ではない。
ただ、戦場に存在するだけで味方を勇気づけ、逆に敵の戦意を挫く。それこそが英雄と呼ばれる者の真価である。
現在、王国側にその英雄が二人もいる。その事実が戦場の兵士たちの心を掻き立てているのだ。
そしてそれは兵士たちだけではなく、ここで戦況を見守っているミフィシーリアたちも同様であった。
国王陛下がいる以上、敗けはあり得ない。
噂の「魔獣使い」が味方についたのだ。これ程心強いことはない。
この場の誰しもが、多かれ少なかれそのような思いを抱いていおり、ミフィシーリアを始めとした本陣にいる者たちは一様に笑顔を浮かべている。
「……どうやら、王都を守りきれたようだな」
ガーイルドはそんな彼女たちを見ながら、誰にも聞こえない声で呟く。
まだ、王都を巡る攻防は終わってはいない。だが彼はこの時、一人勝利を確信していた。
「マリィ!」
馬上で市民の避難の指揮を取っていたマイリーは、自分を呼ぶ声に振り返る。
そこには、数人の護衛らしき兵士に囲まれたアーシアの姿があった。
「アーシィ。どうしてここに?」
「うん。思ったより怪我した兵士の人たちが少なくて。ボクの役目はもうなさそうだから、マリィの手伝いに来たんだ」
「そうでしたか。ですが、市民の避難もほぼ終わっています。後は部下に任せても大丈夫でしょう」
「そっか。じゃあ、ミフィの所に戻ろうか」
マイリーはその言葉に頷き、アーシアを馬上へと引き上げて自分の後ろに横座りさせた。
「ここまでありがとうね。ボクとマリィはお城へ帰るから、キミたちも持ち場へ戻っても大丈夫だよ?」
「いえ、自分たちはアーシア様の護衛を命じられております! 王城へ帰り着くまで、ご一緒させていただきます!」
アーシアは馬上から護衛の兵士たちにそう告げたが、兵士たちもはいそうですかと頷くわけにもいかない。
二人にもその事は理解できるので、彼らにはそのまま王城まで同行を許した。
兵士の一人がマイリーの愛馬の手綱を持ち、残る数人が周囲を固めるように素早く展開する。
この時、兵に守られて馬に相乗りするマイリーとアーシアを、避難途中の市民たち──とりわけ、年若い娘たち──がうっとりと熱の篭もった視線で見詰めていた。
中性的な顔立ちのマイリーと、一見幼げでも美しい容貌のアーシアの二人が共に馬上の人となっている絵面が、どこかの物語から抜け出した王子と姫のように見えたからだ。
そんな視線で見詰められているとは露知らず、アーシアとマイリーは馬上で言葉を交わす。
「ねえ、マリィ。気づいている?」
「ええ。遠くで響く音……あれはシークの『雷』ですね?」
「うん、間違いないよ。だって『解放戦争』中はあの音をいつも聞いていたもの」
──帰って来たんだね、シィくん。
その言葉を、アーシアは声にすることなく胸の中だけで呟く。
彼が帰って来たのなら、もう王都は大丈夫。
その思いがアーシアの胸中に沸き上がる。それはアーシアだけではなく、マイリーもまた同様だった。
それと同時に、アーシアは更なる安心の材料をも見つけ出した。
「あ!」
「どうかしましたか?」
背後へ──王都の南側へ──振り向いたアーシアが、城壁の向こうの空を舞う巨大な魔獣を指差していた。
「飛竜さんだ!」
アーシアが指差す方へとマイリーが目を向ければ、確かに南の城壁の向こうで旋回する飛竜が見えた。
「あの飛竜さん、きっとリョウトくんの飛竜さんだよね? リョウトくんも来てくれたんだ!」
「おそらくそうでしょう。野生の飛竜が戦場に姿を見せるとは考え難いですから」
馬上で互いに二人は微笑み合う。
それがまた、彼女たちを注目している民衆に更なる誤まった認識を与えていたのだが、当然二人はその事に気づくことはなかった。
本日は『辺境令嬢』の更新です。
王都を巡る攻防も終息が見えてきました。
同時に、物語の最後も見えてまいりました。
あと少し。
あと少しだけ、このままお付き合いください。
では、次回もよろしくお願いします。




