愛は無意識の奥底で静かに激しく燃えている
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トールがテミスを追ったあと、エステルは一人屋根の上でへたり込んでいた。
中心部に現われた化物を見た瞬間、エステルは体の自由が利かなくなった。
これまで、相手が恐ろしいと感じたことは何度もある。
ゴブリンの群れに囲まれたとき、ロックワームに襲われたとき、そして、クインロックワームを目の当たりにしたときだ。
特にクインロックワームを見たときは、絶望した。
決して生きて帰れないとさえ思った。
だが今回の相手は、クインロックワームでさえ生ぬるく感じる。
死だ。
あの生き物は、あらゆる生命を呑み込む、死そのものだと思えた。
ほんの少し身じろぎしただけで、標的にされるのではないか?
そう思うと、体を動かすことさえ出来ない。
体がガクガク震えて、呼吸さえまともにできない。
恐怖を感じているのは、エステルだけではない。
屋根伝いに中心部に近づいた冒険者や、銀翼騎士団の団員全員が、エステルのように動けなくなってしまっている。
これが、普通なのだ。
圧倒的な力を前にした人間は、絶望によって体を押さえつけられるものなのだ。
(動けなくても、しょうがないではないか……)
――では何故トールは、動けているのだ?
諦めかけたエステルの脳裡に、その疑問が浮かんだ。
テミスは、この状況で動けていても不思議ではない。
まかりなりにも彼は、王都を守護するエリート騎士団の、副団長なのだ。
エステルとは生まれも育ちも、実力も違う。
では、トールはどうか?
トールはつい最近、別世界から来た迷い人だ。
トールの世界は戦乱の世でもないし、魔物が跋扈する世でもなかった。
平和そのものだったと、エステルは聞いている。
なのに、トールは動いていた。
(トールは、なんで動けているのだ……)
トールが動けているのに、自分は動けない。
その悔しさに、エステルは奥歯を食いしばる。
「動け。動くのだ!!」
エステルは自らの腿を叩く。
だが、足は動かない。腰が持ち上がらない。
悔しくて情けなくて、涙が溢れてきた。
エステルが腿を必死に叩いている時だった。
――ズゥゥン!!
中心部にある建物が一軒。崩れ落ちた。
「トール!?」
敵にトールが吹き飛ばされたのだ。
彼は、死んでしまったのではないか?
エステルの胸に、不安がこみ上げる。
そのエステルの瞳が、一軒のお店を捕らえた。
丁度トールが突っ込み、崩れた建物の隣のお店だ。
そこはエステルがよく知る、ユステル王都で最も大きな武具販売店だった。
(このままでは、あのお店も……)
破壊される未来を想像したエステルは、気がつくと立ち上がっていた。
これまで、どれほど叩いても持ち上がらなかった足が、ひとりでに動いた。
エステルは、エステル・レグルスではない。ただの冒険者だ。
書類上、親子の縁は消えている。
だが、大切に思う心は変わらない。
エステルを突き動かしたのは、父への思いだった。
エステルは長剣を抜いて、屋根の上をひた走る。
(父上の店に、指一本触れさせるものか!!)
エステルが走っていると、瓦解した建物からトールが勢いよく飛び出した。
(トール! よかった……。生きていたか)
エステルは内心安堵する。
トールと敵の男の戦いは、ほぼ互角だった。
初めはやや男が優勢に見えたが、トールが男の動きに素早く対応していく。
この状態で、エステルが割って入っても邪魔をするだけだ。
「なにか……私に出来ることはないか……!?」
考えていると、トールが剣を振るい、男の首を切り裂いた。
――切り裂いたように、エステルには見えた。
だが、実際は男は無傷だった。
勝利の一撃が外れたことで、トールが無防備になる。
そこに、男が一撃を繰り出す。
瞬間、
――ボッ!
男のまわりに、草木が出現した。
エステルは、その草木に見覚えがあった。
「……あれは、家で芝刈りをしたあとのゴミか」
まだ持っていたのか、とエステルは呆れる。
さっさと捨てていれば良いものを……。
しかし、同時に『よく考えたものだ』と膝を拍つ。
相手は火魔術使い。
燃えやすい素材を使った目くらましは、相手の視界を妨げるだけでなく、同時に魔術も封じられる。
エステルが眺めていると、ふと弓を構えたトールと目が合った。
トールを眺めて、一秒。
エステルは、顎を引いた。
全身に《筋力強化》を行き渡らせて、エステルはひと思いに飛んだ。
長剣を高らかと掲げる。
エステルが落下を始めたとき、トールが弓矢を3本放った。
男が透が放った矢を弾く。
その男の背中に、エステルは全体重を込めた一撃を振り下ろした。
「ガハッ!!」
(やったっ!!)
エステルは胸の中でガッツポーズを掲げた。
想像以上に、トールとの連携が上手く噛み合った。
しかし、すぐに気持ちを切り替える。
《筋力強化》をかけて、さらに屋根の上から飛び降り勢いを付けた攻撃が、致命傷にならなかった。
それほどこの男のレベルと、強化魔術の練度が高いのだ。
攻撃によってエステルに気づいた男が、大剣を振るう。
空中にいるエステルは、通常回避が不可能だ。
だが、エステルは慌てず靴に魔力を込めた。
エステルの靴は先日、レグルス商会で頂いた魔道具だ。
『この浮遊をどう使うかは、冒険者としての腕の見せ所だな』
靴が生み出した風の塊を、エステルは踏み抜いた。
空中でバックステップ。
おかげで、エステルは大剣を辛くも回避出来た。
まさかいまの攻撃が躱されるとは、思ってもみなかっただろう。
男の態勢が僅かに崩れた。
その瞬間、
「――トール!!」
エステルは叫んだ。
バランスを崩した男の向こう。
漆黒の剣に炎を纏わせたトールが、地面を踏み抜いた。




