神との邂逅
湖を抱えた村は、平穏そのものだった。
七海は、気だるそうな足取りで、そんな村の中を当てもなく歩きまわっていた。
「……別に、あの女に言われたからじゃねえけどな」
ふと、誰に向けるでもなく、言い訳のような言葉が彼女の唇からこぼれた。
「暇すぎんだよ……ネットは繋がらねえ、娯楽になりそうなものはねぇ、かといって事件が起こるってわけでもねぇ……」
ぼやきつつ、のどかな風景の中を進んでいると、何度か村民とおもわしき人々とすれ違った。
こんな閉じた田舎だからか、年齢層はかなり高い。
「……あの女は、どうしてこんな田舎にいるんだろうな」
ふと、疑問を抱く。
視線を周囲に巡らせれば、あるのはいくつかの家屋と田畑、そして自然ばかり。
なにもないわけではない。
だが、七海からしてみれば、なにもない同然だった。
刺激がない。魅力がない。
こんな場所に存在していて、一体何が残せるというのか。
いつか消えゆくこの身で、せめて何かを世界に残したい。
それが、悲劇という名の傷であったとしても。
そんな魂の願いを持つ彼女にとってみれば、目の前の豊かさは、いっそ忌むべきものだった。
「そんな場所にいようとする理由、アタシには分からないな」
栞という人間を、七海はほとんど知らない。
当然だ。まだ出会って二十四時間すら経っていないのだから。
だが、料理の腕や言動から察するに、器量が決して悪いわけではない。
少なくとも、この村を飛び出していくくらいは簡単なはずだ。
それでも残る、その理由。
「……わけわからん」
七海には、微塵も想像ができない。
「なんでそんなこと考えてんだ」
思考を割くだけ無駄だと、七海は気分を切り替えるように大きく深呼吸をした。
空気は美味い。
都市部の淀みとはくらべものにならない。
だが、それがどうしたと、七海は内心で毒づく。
「さっさと帰りてぇな」
面倒事はさっさと終わらせてしまおう。
そう決める。
「……いらん時間だったな。帰って昼寝でもするか」
七海は気まぐれの散歩を中断し、北方向へと振り返った。
その瞬間、真横を誰かが通り過ぎた。
「……ぁ?」
気付けなかった。
いつ近づかれたのか、七海をもってして、僅かたりとも気配がつかめなかった。
それは……今、この瞬間もだ。
間違いなくそこにいる。
そのはずなのに。
全く感じない。
その不気味さを、言葉として表現する術を七海は持たなかった。
「……」
なぜか、咽喉がからからと乾く。
指先すら、全く動かせなくなる。
振り返ればすぐにでもその人物の顔を見ることができるはずなのに、そんな簡単な動作がとれない。
「……ハズレか。やれやれ、上手く隠れている。この場所を上手く蓑につかっているのか」
抑揚のない声が、七海を耳たぶを打った。
途端に全身から汗が吹き出し、呼吸が乱れた。
自分に今、何が起きているのかが理解が出来ない。
「な……んだ……」
なんなんだ、こいつは。
言葉すら紡げない。
「ああ……驚かせたか。少し探し人がいてね。ここにいるかとも思ったが、人違いだったようだ。まあ、あまりにか弱い感触だったものだから、おそらく違うだろうとは私も思っていたのだがね」
声からして、女だった。
視界の端に、白い布が移る。
白衣だと、遅れて気付いた。
「それにしてもお前は……ああ、第一、というやつか。なるほど自分の目で見るのはこれが初めてだ」
女は、わけのわからない言葉を連ねる。
会話をする気など、さらさらないかのようだ。
「弱いな。これを重宝するなど、人類も終わりは近いか? せっかく私が作った猶予を無駄にしてくれるなよ、まったく」
呆れかえったような言葉……それに、七海が歯を食いしばる。
今、この女は何と言ったのか。
弱い、と。
小さい、と。
七海を、そう評したのだ。
まごうことなき見下しの言葉だった。
否、声色から察するに、比べているかどうかすら怪しい。
いわば、虫の戦いを見守るかのような……傲慢な圧倒的上位者の言葉だ。
「テ、メェ……」
全身に力を込め、魂を奮わせ、七海は振り返ろうとする。
「ほう……?」
少しだけ感心したような吐息が届く。
が、それだけだった。
七海は動けない。
どれだけ力を振り絞ろうとも、やはり身動き一つとれないのだ。
「まあ、それなりか……ほう。お前の魂は、また、少し面白いな」
「な、にを」
「存在証明か。見てくれは頭の足りない小娘だが、なかなかどうして、甘く繊細な祈りを持っているものだ」
「なにを、言って、やがんだ……!」
「誰かに覚えていて欲しい。その欲の根底にあるのは、それだろう? 誰かの心に残りたい、それを砂糖菓子のような魂だと思った。なにか異論でも?」
淡々とした言葉に、七海は自分の唇を噛み切った。
流れ出す血と、生まれる痛み。
それが、彼女の魂の力を発動させる。
願いを痛みで叶える。
『人魚姫』の能力が、白衣の女へと襲い掛かった。
形のない単純な破壊力として叩きつけられるソレを……女は、なにも抵抗せずにその身に受け止めた。
常人であれば頭の一つでも簡単に吹き飛ばされる力……だというのに。
「な……」
女は、微動だにしなかった。
せいぜい、白衣が大き目に揺れた程度だ。
「傷ついて、何かを世界に生み出せると思っているのか。悲劇のヒロイン気取りか? ああ、それでは違うな。鼻をつまみたくなる。自ら手首を切って見せ、構ってくれと訴える女ほど哀れなものはない……少なくともお前の魂、そんなものではないと私は思うがね」
「テメェに、アタシの何が……!」
「分かるさ」
当然だ、と断言する。
あまりの迷いのなさに、七海は言葉を失った。
「分からないわけがないだろう。なにせ私は、お前たちの神なのだから」
「あ?」
唐突な言葉に、七海は一瞬、怒りすら忘れた。
神、などという存在を自称するなんて、信じ難い。
普段であれば、馬鹿だと笑い飛ばすところだ。
だが……だが、しかし、だ。
この状況で……なに一つできない自分の状況を鑑みて……冷や汗が流れた。
可能性を考えてしまったのだ。
あるいは、相手は……神を自称するほどに優れた力を持っているのでは、と。
そうでもなければ、こうして自分の身体が動かない理由に説明がつかない。
まさかただ単純にプレッシャーだとか恐怖だとか、あるいは本能だとか、そんなもので身動きがとれなくなっているなどとは思わない。
そんなわけがない、これは相手の力によるものだ。
自分の中に必死にそう繰り返す自分がいることに、七海は気付かないふりをした。
「まあ、いい。貴様は土台、器ではない。ある程度まではいけるだろうが、その先は決定的な資質の領域だ。あるいは、《魔獣》ご執心の彼のように、その領域を踏み越すこと前提の力でもない限りはな」
魔獣、という単語に僅かなひっかかりを覚えたが、今の七海はそんなことを気にしていられる状況ではなかった。
「それではな……ああ、誤っておこう。少し言葉が過ぎたかもしれない。こんなふざけた場所のせいで、少し気が立っているのかもしれないな……やれやれだ」
女の足音が、遠ざかっていく。
やはり、いまだに気配はつかめない。
「それと、もう一つ」
不意に、足音が止まる。
「なにもない、お前はそう思ったのだろう? ああ、同意するよ。ここには何もない。だというのに、こんな場所に縋りつく者の考えは理解できん。そうだろう?」
「――……」
なぜ、考えていたことまでもが見透かされているのか。
ゾワリと全身を悪寒が包む。
「ふ……私は神だからな。思考を読み取ることなど造作もない……と言いたいところだが、お前は顔に出やすい。それだけだ」
そして、今度こそ、足跡は遠ざかり、ついには聞こえなくなった。
身体を押さえつけていた謎の力も消え、七海はすぐさま振り返る。
そこには、どこまでも平穏な光景が広がるばかりだった。




