触れた手
翡翠の薔薇の話はひと段落といいましたが、もうちょっとだけ。
巨大な竜の亡骸が溶けるように消えたのを見届けて、俺はゆっくりと歩き出した。
立ち尽くす朱莉先輩の横を通り過ぎようとした時、彼女の手が俺の襟首を掴む。
小柄な体躯からは、こちらを押しつぶすような威圧を放っていた。
「どうして……!」
怒りに染まった瞳が、俺の事を貫く。
……こんな目にあうなんて、とんだ貧乏くじだ。
満は勝手に決めて、俺を置いていってしまうし……寄生木妃は、奇跡とやらを信じて俺に全てを押し付けて来た。
どうして、俺の周りの状況は、俺の意志を無視して、こんなにも俺の不幸に繋がるように転がっていくのだろうか。
深いため息がこぼれた。
「なんで、寄生木さんを殺したんですか!」
「……」
殺した、ね。
まあ、実際はどうあれ、そう言えるか……ここで言い訳しても、朱莉先輩は聞きそうにないし。
あいつだってそれを望んだ、と言っても……きっと分からないだろうな。
俺がやろうとやるまいと、寄生木妃は死んでいただろう。
八束によって、あるいは自らの呪いに蝕まれて。
それよりは、幾分マシだったろう。
なんて言ったら、本気で斬りかかってきそうだ。
「私も聞きたいわね」
「……」
ああ、面倒くさい奴まで来たぞ。
さっきので気絶でもしていてくれればよかったのに。
背後に感じる『伊邪那美』の気配に、俺は辟易した。
後ろから、首筋に大鎌の刃がそえられる。
あと少し寄せれば、高速で回転する刃が俺の首を抉ってしまいそうだった。
「あれは私の獲物だったのに、横取りとはね……」
「……面倒くさい」
吐き捨てるように呟いて、俺は自らの中に感じる力の一端を解放した。
今しがた手に入れた、翡翠の魂を。
「!?」
俺を中心に、地面を翡翠の結晶が覆っていく。
それは朱莉先輩と八束の脚を這い上り、その全身を絡めとった。
なるほど……これは、使い勝手のいい力だな。
いかんせん、俺の内にあるのはサワリの魂ばかりだ。
サワリなんて、人間の悪性の塊みたいなもので……そうなれば当然、その力も偏ってくる。
人の闇が生み出す力は強大ではあるものの、そのどれもがいきすぎ、やりすぎ、制御なんて考えられず、やりすぎること前提といったものばかりだ。
そこでいえば、『聖域』であったり『翡翠の薔薇』といった、魂装者の魂から得た力は非常に使い易い。
あるいは……全てを拒絶する死者の魂と違い、魂装者の魂は、向こうから俺に力を貸してくれているのかもしれない。
だとすれば……今、俺の中であいつはどんな顔をしているのか。
安心しろ、少し驚かせるだけだから。
誰にでもなく胸の内で囁いて、借り物の魂に力を注ぐ。
二人を拘束する翡翠の結晶が、よりきつく縛りつける。
「っ……!」
朱莉先輩が抵抗するが、『翡翠の薔薇』の力であればそれを押さえつけることは難しくない。
八束の方は、少しだけ結晶にヒビが入り始めたが、さらに縛り付ける結晶の量を増やせば短時間は問題ない。
「戦火、さん……!」
苦し気に俺の名を呼び、朱莉先輩は鋭い視線を向けて来た。
「あなたは、どうしてそんなにあっさりと人を食らうんですか……!」
痛いくらいの眼差しに、肩をすくめる。
「さあな……」
不意に、八束が動く。
正確には、拘束された彼女の背中に広がる血錆の翼が、だ。
翼から無数の鉤爪がワイヤーを引きながら俺へと射出された。
朱莉先輩に意識を向けていた俺の反応は、ほんの刹那、遅れてしまう。
しかし……俺が防ぐまでもなく、勝手に地面から生えた翡翠の結晶柱が鉤爪を全てはじいた。
「ん……」
俺も、少しだけ驚く。
まさか、本当にこんなことが起こるなんてな……。
「とりあえず……」
もう一度、ため息をこぼす。
「俺は疲れたんだ。さっさと帰って寝たいんだよ」
呻くように言って、俺は『翡翠の薔薇』に加えて、いくつかの魂を行使する。
『聖域』を『翡翠の薔薇』にまとわせて強度を増し、重力を加える力で二人の身体に負荷をかけ、鯨でも一滴で一日は動けなくなるような麻痺の毒を生み出し適当に皮膚から染み込ませる。
ほかにも、いくつか相手の力を奪い、自分の力を増大させるような魂を平行して使う。
二人とも第一等級の魂装者だ、これでやりすぎということはあるまい。
最悪でも、三十分は拘束できるだろう……多分。
「ぐっ……」
「こ、の……!」
「じゃあな」
身動きのとれなくなった二人を置いて、俺はさっさと歩き出す。
「本当に、面倒だな……」
呟きは誰に届くこともなく、空に溶けていった。
† † †
屋敷に戻った俺を、真っ先に迎えたのは、ちょうど居間を出てきて、二階へとのぼろうとしていた遠季だった。
「おかえりなさい」
「ああ……」
「……そう」
俺は何も言っていないのに、遠季はすべてを見透かしたかのように、小さく頷いて見せた。
「あなたの、妹……かわいらしかった、わね……」
「……」
そんな話を、遠季から振られるとは思っても見なくて、微かな動揺を誤魔化すように頭を掻く。
「……当然だろうが、俺の妹だぞ。世界一だ」
「シスコン」
「ぐ……」
遠季は、薄く笑うと、そのまま二階へと消えていった。
シスコン?
……悪いか、くそ。
妙に気恥ずかしい気分になって、俺も自分の部屋に戻ろうと階段に足をかけた、その瞬間……。
「お兄ちゃん!」
二階から声が聞こえて、視線を上げると結が慌てて階段を駆け下りてくる。
「おい、危な――」
言うよりも先に、結が階段から足を踏み外した。
目を見開いた結の小さな身体が傾いていく。
……まったく。
呆れつつも、素早く腕を伸ばし、結の身体を抱きとめる。
「あ……」
「大丈夫か? 階段はゆっくり降りろよ」
「……うん」
頷いた結は、目を丸くして俺の事を見上げた。
その瞳に宿っているのは、困惑の色だ。
「どうした? どこか痛むのか?」
「あ、う、ううん」
大げさなくらい、結は首を大きく横に振る。
「それより、お兄ちゃん。おかえり!」
結は満面の笑みで、俺の事を迎えてくれた。
「……」
不意に、その笑顔が、満とかぶった。
「っ……」
「お兄ちゃん?」
瞼の裏が熱くなって、俺は慌てて、溢れだしそうになるものを押し隠した。
違う。
ここに、もう満はいない。
俺に、こんな風に笑いかけてはくれない。
思い出に逃げることは簡単だ。
だが、今の俺は、満が繋いでくれたもの。
ならば、過去の幻影になど惑わされず、未来を見つめなくてはならない。
あいつの兄として、恥じる行為だけは、してはならないんだ。
「なんでもない」
声の震えを抑えられたか、自信はなかった。
「ただいま、結」
言って、俺は結の頭に、掌を乗せた。
くしゃりと、さらさらの髪を撫でた。
「ぁ……」
「ん?」
結は、なぜか凍ったように固まってしまった。
「あ……悪い。撫でられるのは嫌だったか?」
「ううん!」
食い気味に、結が首を横に振り、俺の手首を掴んだ。
「このままでいい!」
「そ、そうか」
なんなんだ?
首を傾げながら、結の頭を撫で続ける。
「えへへ」
「……まったく」
まあ、いいか。
結の満足げな笑顔を見ていると、不思議と心が安らいだ。
……そういえば。
こいつを引き取ってから、こんな風に触れることって、あまりなかったな。
意識的に避けている部分は、もちろんあった。
こいつの兄を見殺しにした俺が、触れていいのか……なんて。
そんな罪悪感に、触れるものがあった。
「……?」
なんだ?
――しっかりと、その子の面倒を見てあげればいい。それで、きっと全て許してくれる。家族の幸せこそが、償いになるよ。
強さの仮面を脱ぎ捨てた、あいつ本来の言葉が、聞こえた気がした。
魂だけになって、ようやく素直になれるのか。
随分と、ひねくれているな。
人の事も言えないが。
苦笑する俺の手は、いつの間にか止まってしまっていた。
「お兄ちゃん?」
「ん、ああ」
すぐに、撫でる動きを再開する。
「そういえばね、七海お姉ちゃんと、たくさんの本を読んだよ!」
「へえ……どんな話だ?」
「あ……えっと、ね……」
そこで、妙に言いづらそうにする。
あいつ、結になにを見せたんだ?
あとで聞き出しておく必要がありそうだ。
「そ、そうだ。それとね、千華お姉ちゃんと、木刀振ったよ!」
「……そうか」
あいつ、今から戻って動けないところを痛めつけてやるべきだろうか。
結になにさせてるんだ……。
「それでね、あのね、満お姉ちゃんが、お兄ちゃんね教えてもらいなさい、って」
「……」
満の名前が出て、一瞬息を飲んだ。
だが、すぐにその無責任は発言内容に、嘆息した。
「剣を、か……」
「だめ?」
不安げな瞳が、俺の事を見上げていた。
「……」
しばらく、沈黙が流れる。
非常に、居辛かった。
……でも、そうだな。
思い出すのは、昔、俺があの人から剣を教わる時に言われたことだ。
武術ならなんでもいい、身を鍛えることは、心を鍛えることにもなる。
辛い事、難しい事ばかりだからこそ、挑戦しがいがある。
「……そうだな」
結にも、強く生きて欲しい。
そう思ったから、俺は……頷いた。
「分かった。なら明日から、朝は早起きしろ。教えてやる」
「本当!?」
結の表情が、雲一つない青空のように晴れた。
「その代わり、途中で止めるのは許さないからな」
「うん!」
屈託のない笑顔に、まずは筋トレからか、と俺は早速、トレーニングの内容について考え始めていた。




