枯れ落ちる薔薇
『勇者』の加護を受け、勇を振り絞り過去と向き合った『翡翠の薔薇』が放つ輝きは、かつてないほどに鮮やかで、この世のどんな宝石よりも美しい光を放っていた。
誰を犠牲にしてでも生き残りたい、ではない。
みんなで生き残りたかった。
それが、今、彼女が魂へ願う切なる想いだ。
今更願っても手遅れだけれど、それでも願わずにいられない。
そして、魂は彼女の想いによって、ほんの少しだけ、形を変える。
逃走することにではなく……立ち向かうことに。
生き延びるためではなく、誰かと共に生き残るために。
『翡翠の薔薇』は、方向した。
『死相』の毒で溶けた大地を、一瞬のうちに無数の翡翠の結晶柱が埋め尽くす。
うちいくつかは、巨大な槍となり、『死相』の全身を貫いた。
状況は、さっきとはうってかわっている。
一つに、『翡翠の薔薇』がどれほど変質しようと、その内にある穢れの濃度は変わらず、未だに堕ちかけ……故に強大な力を振るえること。
一つに、死者への罪悪感を、妃が振り切っていること。
一つに、今ここに、妃が共に生き残りたいと思う相手が存在していること。
今や、『翡翠の薔薇』と『死相』の力関係は逆転していた。
妃の魂は既に特第一等級の枠内にある。
『死相』も、元となった魂がそうであるから、当然その域にはあるが……両者の間にあるのはどれほど僅かだろうとも、絶対的な差だ。
全身を貫いた翡翠の槍を溶かし、一瞬で損壊を再生させた『死相』が、地面を埋め尽くす結晶を踏み砕く。
無数の腕が伸びて、竜の巨躯へと絡みついた。
妃は抵抗しない。
するまでもない。
聞こえる死者の声、責めたて、羨み、妬む怨嗟を……彼女は受け止めて見せた。
「大切な人達が、それでいいと認めてくれた生だ。貴様らに否定され、奪われる謂れはない!」
『翡翠の薔薇』の全身から、結晶刃を含んだ暴風が吹き荒れ『死相』の腕を一本も残さず消し飛ばした。
それだけにとどまらず、竜の顎が開かれ、その口腔に翡翠の光が灯った。
直後、閃光が放たれ、一直線に『死相』の胴を貫くと、そのまま空の彼方へと消えた。
『死相』に穿たれたのは、ほんの小さな穴のみ――かと思った瞬間、その穴が拡大し、『死相』の身体を微塵に吹き飛ばした。
衝撃はそれだけにとどまらず、大地に巨大なクレーターを作る。
砕け、飛び散った瓦礫は翡翠の結晶に包まれたかと思うと、砕け散り、跡形もなく風の中に消える。
あとには、溶解した面が翡翠で包まれたクレーターと、その中心で蠢く黒い汚泥が残った。
汚泥は瞬く間にその質量を増大させると、元通り『死相』の形をとる。
だが……この場の誰もが気付いていた。
先程よりも、『死相』の力が減衰していることに。
穢れの一部は、『翡翠の薔薇』の攻撃によって浄化されたのだ。
このままいけば、決着がどうなるかは明らかだった。
だが……妃はそこで、畳みかけようとはしなかった。
この状況で、彼女が黙ってみているわけがない――そう確信していたから。
なにせ、彼女こそ『勇者』だ。
堕ちた魂装者、穢れた思念であっても、見捨てるわけなどない。
「……確かに、あなたたちを、私は救えなかった」
『翡翠の薔薇』と『死相』の間に、堂々と白銀の甲冑を纏った朱莉が立った。
その瞳に宿るのは、強い意志だ。
『勇者』は、人に勇気を与える。
そうして勇持つ人々を見て、『勇者』は想うのだ。
自分も、より強くあらなくては、と。
誰かががんばっている姿を見て己を奮い立たせる……そんなのは、なにも特別なことではない。
他者の昇華――それにより自分の昇華。『勇者』は、勇気が絶えない限り、どこまででも強くなれる。
「だからこそ、私は、あなた達に誓わなくてはならないのだと思います」
ここで逃げたとして、誰が責められよう。
ここで関係のないことだと切り捨てたとして、誰が責められよう。
この場で朱莉が感じるべき、負うべき責任など、本当は一つとして存在しないというのに。
それでも愚直な少女は、立ち向かう。
「私は、これからもたくさんの人を救う。救って見せる」
救われなかったものの気持ちを逆なでるような宣言だった。
お前は自分達を救わなかっただろう、と『死相』にこもる死者の怨念が絶叫する。
『死相』の巨体が蠢き、その首が伸びたかと思うと、いくつもの死者の顎が頭上から降ってきた。
それを『翡翠の薔薇』の翼が受け止めた。
死者の牙は、翡翠色の鱗に傷一つつけることは出来ない。
竜に守られる朱莉の姿は、正に、神話かおとぎ話の一場面のようでもあった。
「許してなんて言えない……けれど、約束します」
朱莉が、白銀の剣を握りしめる。
彼女の魂が、想いに呼応し、輝きを増していく。
「次にあなた達がこの世界に生まれた時は……必ず、守って見せます。二度と、あなた達を、そんな絶望には沈めない」
過去で救えなかった全てに、未来で救う約束をして、朱莉は――『勇者』は剣を高く掲げる。
「だからもう……その苦しみからは、救われて」
清浄な輝きが、振り下ろされた。
斬撃から溢れだした輝きが、全ての怨念を断ち切った。
眩さに飲み込まれながら、『死相』が尚も生き足掻くように暴れ狂う。
出鱈目に伸びた腕や首が『勇者』へと襲い掛かった。
それを阻むのは『翡翠の薔薇』だ。
「さようなら……」
誰かへの別れを告げ、竜が翡翠の輝きを吐き出した。
白銀と翡翠が入り混じり、今度こそ完全に『死相』を飲み込む。
2人の勇者によって、『死相』は空へと還る。
そのすべてを背負っていた、一人の少女と共に。
† † †
俺が目覚めたのは、全てが終わってからだった。
気付いた時には俺の魂から穢れは消え去り、純粋な力の塊だけが残されている。
あれほど扱いにくく、自分でも恐怖すらしていた『黄泉軍』の魂が、よく馴染む。
不純物を取り除いたのが誰かなど、押しつぶされかけていた俺を救ってくれたのが誰かなど、語るまでもない。
ずっと、俺と一緒にいてくれた、大切な存在だ。
俺は知らなかったけれど、この十年間、いつだって見守っていてくれたんだよな。
そして、今、こうして助けてくれた。
「……満」
周囲を見渡せば、大きく抉れた大地と、立ち込める砂煙が広がっていた。
肌に感じる魂は……。
「あの二人、か……」
どうしてそんな組み合わせになったのかは知らないが……見てて危なっかしい二人が組んだものだ。
空に視線を向ける。
虹色に輝く粒子が、ゆっくりと舞い上がっていた。
魂魄界に還り、いつか、再び現実界へと戻ってくるのだ。
その一つ一つを見送っていると……不意に、頬をなにかが伝った。
手で触れると、指先が微かに濡れた。
「……」
しっかりと、見送ってやらないとと、そう思っていた。
ここまでしてくれたんだ。
あいつは、自分の魂を変えてまで……俺の穢れを肩代わりするなんていう力を得てまで……ただ、俺を助ける為に。
だから、きっとあいつはこの結果に満足していて、俺も、感謝しながら、笑顔で見送ってやるのが一番なんだろうって……そう思っていた。
でも、無理だ。
「……ざ、けんな」
どうして、そんなことできるんだよ。
これで、終わりなんだぞ?
もう言葉を交わすことなんて、出来ないんだ。
「ふざけんな、よ……」
十年間、傍に居たんだろう? 居てくれたんだろう?
なのに、その終わりがこんなものでいいのかよ。
「ふざけんな! なんだよ、それ!」
もっと話したかった。
ずっと一緒にいたかった。
一度失ったのに、また失わなくちゃならないのか。
「俺は……! 満!」
いつの間にか、俺の目からは涙が溢れだし、視界はすっかりぼやけてしまっていた。
声が震える。
胸が苦しい。
息が出来ないんだよ。
どうして、こんな思いを何度もしなくちゃならないんだ!
「お前と、もっとずっといたかった!」
普通の兄弟みたいに、一緒に暮らして、そこそこ仲良くしてさ、時々喧嘩とかもして、でも仲直りして……。
そういうの、俺には許されないとでも言うのか。
あんまりにも残酷じゃないか。
嬉しかったんだ、お前がここにいてくれて。
嬉しかったんだよ、お前がまた俺のことを、お兄ちゃんって呼んでくれて。
また、呼んでくれよ……!
「満……、みち、る……っ!」
帰ってくる声は、ない。
二度目の別れも、さよならの言葉すら許されず……満は、この世を去った。
† † †
本が閉じられる。
子供向けに書かれた本だけあって、結も読了にさほど時間はかからなかった。
物語の結末をしった結の顔に浮かぶのは、暗い色だ。
「お、読み終わったか」
他の童話を読んでいた七海が顔を上げ、興味深そうな目を結に向けた。
「どうだった?」
「……」
結は、すぐには答えを返せない。
そんな様子から、彼女がどんな感想をいだいたのか気付き、七海が苦笑する。
「まあ、そうだよな。普通は、あんま面白くない終わり方、って思うか」
結は、悲劇を求める七海とは違うのだ。
当然のようなハッピーエンドを望んでいた。
けれど、その期待はあっさりと裏切られた。
物語にかたられる、竜に変えられた王子様と、野草に変えられたお姫様、その二人の結末に幸福はない。
お姫様の口づけで元の姿を取り戻した王子様。
けれど、今度はお姫様が野草へと姿を変えられてしまう。
突然いなくなってしまったお姫様を探す王子様の前に現れたのは、一人の魔女。
お姫様と再会するために、王子様が魔女に告げられた条件とは……お姫様のために、きれいな薔薇の園を作り上げること。
王子様は、言われるがまま、広く美しい薔薇園を作り上げていく。
お姫様と出会うきっかけにもなった薔薇を、丹精こめて。
いつか、また薔薇を彼女に贈りたいと、そう願いながら。
そんな中にみつけた、一本の野草。
薔薇の美しさを損なう雑草。
王子様はそれをお姫様だと気付かずに、引き抜いてしまう。
そうして、自分の手で大切な少女を――たとえどこにある野草と同じようにみえても、彼にとってなによりも愛さねばならなかった翠の薔薇を摘み取ってしまった王子。
だが、そのことすら知らず、彼はいつまでも薔薇の園を作り続ける。
どこまでも。
いつまでも。
† † †
全てが、終わった。
誰もがそう思っていた。
『死相』は魂魄界へと還り、場を静寂が包んだ。
朱莉は、空へ溶けていく魂の粒を見送ると、深く息を吐き出した。
この戦いは、自分の未熟さをはっきりと思い知らされるものだった。
全てを救うといいながら、自分の本質すらつかめていなかった。
『勇者』という存在を、今一度、しっかりと確かめる。
これからは、より強く、そうあろうと誓う。
それだけで、まだ朱莉は前へと進めた。
そして、共に戦ってくれた勇ある竜へと、感謝の言葉を伝える。
「寄生木さ……、え?」
直後、巻き起こる暴風が、朱莉の身体を吹き飛ばした。
地面を翡翠の結晶が浸食していく。
空に無数の結晶の塊が浮かんだ。
大きく広げられた翼が結晶化していく。
天を轟かせる咆哮に混じるのは、苦悶と狂気だった。
「どう、して……?」
朱莉には理解できない。
まさか妃の魂が、本来、もうどうしようもないほどに、ここまでもったことが奇跡だと言うほかないくらいに穢れていたことに、気付いていなかったのだから。
もう手遅れ。
妃は、自分をそういった。
そこに間違いはない。
手遅れとは、なにをしても無意味ということ。
例え、『勇者』の加護で呪いを取り除いても、魂を濁らせる穢れまで消えるわけではない。
終わりが、訪れる。
『翡翠の薔薇』が、枯れる前に、一際大きく開く。
空を、翡翠色の輝きが包み込んだ。
次話は明日6日の0時に投稿します。




