勇を与える
父が、母が、サワリに貫かれていた。
不意に目の前に蘇る過去、その光景を前に、妃は震える。
恐怖がこみあげ、全身を包み込んだ。
今すぐにでもこの場を逃げ出したくなる。
自分だけでも生きながらえたくなる。
後ろへと踏み出しかけた脚を、妃は必死に止めた。
「っ……」
ここで逃げては、十年前となにも変わらない。
この先十年の苦しみを、もう妃は知ってしまった。
なによりも……知ってしまった。
『勇者』という輝きを。
あまりにも透き通りすぎて、ほんのわずかな穢れですら崩れてしまうような清らかさだと、そんな風に心配していた。
だが、ここに至って、妃は自分の考えなど無用の心配であったのだと気付く。
なぜなら。彼女は『勇者』なのだから。
家族の声は、しっかりと自分へと届けられた。
そんな奇跡を起こす存在が、妃の定めた枠になど、収まるわけがないのだ。
『勇者』は、人の絶望につながるようなことはしない。
故に、彼女は落ちないだろう。
妃に間違っても、あの『勇者』ですら落ちるのだから、などというくだらない諦めの理由を抱かせないために。
ただ、それだけのために朱莉は穢れない。
届かないこともある。
救えないものもある。
それでも、朱莉は絶望を抱かず、自らの内に芽生えそうになる呪いを、自らの輝きで焼き、無限の痛みを引きずるように、苦難の道へと歩みだすだろう。
故に、どれほどの困難が待ち受けようとも、『勇者』が堕ちることなどないのだろうと、妃は苦笑した。
その強さに、憧れる。
自分よりもずっと小さな身体に、信じられないほどの大きな勇気を持っている朱莉に押見のない尊敬の念を抱いた。
妃は、しっかりと過去に向き直る。
既に失った家族の姿を見て、唇を噛みしめた。
白くなるまで握り込んだ手の震えは収まらない。
それでも、もう妃は、逃げようなどとは思わなかった。
背中に、確かな温もりを感じていたから。
『勇者』とは、人を救うだけの存在ではない。
勇ある者――その裏に秘められたもう一つの意味に、朱莉自身、気付いていなかった。
清い心を持つ。
人々を救う。
そんな愚直な生き方は、聖なる輝きは……人の心を動かすのだ。
あの人のような清らかな心を自分も持ちたい。
自分を救ってくれたあの人を、今度は自分が助けたい。
『勇者』は、人の魂を奮いあがらせる。
清い心だけなら聖人でいい。
人々を救うだけなら英雄でいい。
戦う力など、『勇者』の魂の全体としてみれば、ほんの一片でしかない。
その真髄を、妃は感じていた。
背中を優しく支えてくれる温もりに、微笑みながら……妃は過去へと手を伸ばした。
「私は……みんなと生きたかった」
自分だけでなく。
皆で。
もはや叶わぬ願いを、心から想ったその時、悪夢を翡翠の輝きが塗りつぶした。
† † †
扶桑朱莉は、朔や千華のように凄惨な過去を背負っているわけではない。
魂装者として目覚めたのも、第一次大規模飽和流出から三年後のことだった。
当時、大規模飽和流出によって人々の心に植えつけられた恐怖も落ち着き、魂魄界というものの存在がようやく受け入れ始めていた。
それでも、世界の終わりを叫ぶ者や、自棄になって犯罪に走る者は決して少なくなかった。
日本だけでも、大規模飽和流出の前と後では、殺人事件の件数だけで三倍もの開きがあるのだ。
世界規模でみれば、秩序の揺らぎは浮き彫りになる。
ニュースでは連日、サワリに対する恐怖の声や、誰かが誰かを傷つけたという内容が報じられていた。
朱莉は、どこにでもいるような、世界になんの影響を及ぼさない、一人の少女だった。
違うところといえば、女の子らしくもなければ年相応でもない、ひとつの憧れを抱いていたことだ。
勇者、という存在に。
物語にでて来れば、弱気を助けて悪を討つ。
いつか、この世界にもそういう存在が現れてくれれば、平和になるのに。
彼女は本当に、心の底からそう思い、願っていた。
そんなある日のことだった。
学校からの帰り道、商店街を歩いていると、刃物を持った男が現れて通行人にがむしゃらに切りかかったのだ。
あちこちで悲鳴があがり、我先にと人々は逃げ出す。
朱莉が見たのは、逃げ出す人々に押しのけられ、自分よりも幼い女の子が地面に尻餅をついた光景だった。
そして、そこに刃物を振り下ろそうとする男の姿に、朱莉は祈った。
お願いだから、ここに勇者が現れるように……と。
だが、刃物が女の子に届く直前、唐突に、朱莉は気付いてしまった。
子供がサンタクロースは実在しないと、いつか知るように。
朱莉はこの時、勇者などという都合よくあらわれ、都合よく自分達を助けてくれる存在などいないのだと、思い知った。
同時に、決めたのだ。
ならば、と。
勇者がいないなら、自分がそれになればいいのだと。
飛躍した思考は、それこそ、朱莉が『勇者』という魂を担うに相応しい存在であったという証明のようなものだった。
自分が、人々に希望を与えてみせる。
『勇者』が、朱莉の中で鼓動を始めた。
迷うことなく、朱莉は踏み出した。
女の子を傷つけようとしていた男にとびかかり、地面を転がる。
男は朱莉の存在に気付くと、わけのわからない声を上げながら刃物を振り上げた。
そこに、顔も知らぬ青年が、飛び込んできた。
青年は男を押し倒すと、朱莉に逃げるよう叫ぶ。
彼を突き動かしたのは、守らなくてはならないという感情だった。
女の子を守るために、自分よりもずっと小さな少女が身体を張ったのだ。
ならば、自分が指をくわえてみているわけにはいかない。
朱莉の行動は、それを見た人々の心に火を灯した。
人々が次々に男へと集まり、拘束しようとする。
だが、男はのしかかっていた青年を振り払うと、刃物を逆手に持ち替え、切っ先を自らの咽喉へとあてた。
進退窮まっての自害――それを、朱莉は肯定などできない。
どれほどの悪人であっても、死んでいいなどとは思わない。
罪を償い、再び鮎びだせるように……そんな未来を信じて、朱莉は再び駆けだした。
そうして、勇ある者――そして人々に勇気を与える者たる『勇者』は、目覚めたのだ。
† † †
状況の流れを、ただ見守るしかない千華は、悔しげに歯噛みしていた。
六花がしがみついているせいで、千華の魂はまともに力を振るえない。
目の前にある餌を食えずにいる飢えた獣のように、千華は眉間に皺を寄せた。
「六花……今からでも遅くない、離して」
眼下で繰り広げられるのは、『死相』に『勇者』と『翡翠の薔薇』が追いつめられていく光景だ。
情けない、と嘆息する。
確かに『死相』は強力な存在だが、千華は、自分ならば殺せるという自信があった。
「このまま、あの二人を見殺しにするのがあなたの望み?」
そんなわけがないと、自分で言いながら否定の気持ちがこみ上げる。
八束六花は、そんな人間ではない。
そう断言できた。
だから、今こうしている理由が千華には分からない。
『死相』がどのようなものなのかなど、全く気にもとめたい千華には、永劫理解できないことだろう。
「……まあ、あの二人が死ねば、あなたも変な真似はやめるでしょう」
そして、未来は千華の望むようにはならない。
彼女が望む以上が、待っていた。
「……ぇ?」
突如として感じる、魂の力強い脈動に、千華が目を丸くする。
その気配に、覚えがあった。
なにせ、先程まで魂をぶつけあっていた相手だ、
だが、違和感は拭えない。
「なに……?」
異常なほどの、増大を感じた。
魂の質量が、先程までとは比べ物にならない。
十二分に強力な、第一等級の魂装者だった。
だが、今は……その枠を、一足飛びで外れてしまった。
「なに、が……」
千華の唇の端が、吊り上がる。
彼女は疑念を抱きながらも、祝福していた。
さながら、古い玩具より、新しい玩具に気をひかれる子供のように。
「なによ、やればできるんじゃない」
この時だけは、千華も素直に『翡翠の薔薇』に、賞賛の念を抱いていた。
自らの魂を増大させる。
それは、生半可なことではないのだ。
その一歩を踏み出した相手に最大の敬意と殺意を、千華は向けるのだった。
だが、彼女は気付けない。
それが決して、『翡翠の薔薇』だけで成し遂げたことではないと。
千華は分からないのも、当然の道理だった。
なにせ彼女は、誰かの為の魂など、認めないのだから。
他者になにかを分け与える魂など、唾棄すべきものだと、断じているのだから。
だから、彼女は『勇者』の強さを知らない。
人に勇気を与える。
踏み出す勇気を、前へ進む勇気を、人が強くなるための勇気を。
『勇者』の真髄とは、その強大な攻撃力でもなければ、強靭な防御力でもない。
他者を奮い立たせる。
自らの魂が届く相手の強化――新たな勇者を生み出すこと。
それこそが、『勇者』なのだ。




