奇跡を
妃は、死者の声を聞いていた。
必死に『死相』が伸ばす手を避けるたびに、巻き上がる風が竜の体表を撫で、声を運んでくるのだ。
許さない、許さない。
なぜお前は生きている。
己達も生きていたかった。
死にたくなどなかった。
お前も死んでしまえ。
生きたいだと?
逃げたいだと?
許さない、死ね、殺してやる。
お前もこちら側へと堕ちてこい。
囁く声は魂を蝕み、少しでも気を抜けば飲み込まれてしまいそうだった。
「っ……やめて!」
自らを包み隠す仮面は、あっさりと引き剥がされる。
逃げた妃にとって、死者の声は致命的だ。
声が重なってしまう。
父の、母の……家族の声で、『死相』は妃の罪を責めたてる。
自分達を見捨てたのに、のうのうと生きていること、それ自体が罪だ。
「やめてよ……!」
今にも泣きだしそうな声だった。
怨嗟の籠に閉じ込められ、妃の魂が軋む。
「仕方ないでしょ……私は、生きたかったんだから……!」
悲鳴じみた声をあげ、妃は両翼を大きく広げた。
竜の巨躯が淡く輝いたかと思うと、暴風が吹き荒れた。
狂う風の中に、翡翠の輝きが煌めく。
翡翠刃を含んだ嵐は、『死相』の腕をことごとく引き裂いた。
飛び散る肉片が、光となって溶ける。
「……私だって、生きることは、苦しいのに」
妃の力は、爆発的に増大していた。
それこそ彼女が深淵へと、一歩のところに迫っている証明だった。
妃の魂は自らを汚染する。
自らを穢す事が役割だとするなら、それを果たせば果たすほどに力は強大に、純度を増していく。
さながら、消える直前に一際強い輝きを放つ花火のように。
「私は……!」
『翡翠の薔薇』の巨躯が、さらに膨れ上がっていく。
呼応するように、『死相』に浮かぶ死者は絶叫をあげた。
「私は、生きたいのに……!」
その声の向かう先は、自らを殺そうとする『死相』に対してなのか。
あるいは、己を穢す己自身に対してなのか。
どうしようもない現実に、恐怖に、罪悪感に、妃は幼い少女のように、妃は竜の内で涙を流す。
その涙を……決して許さない者がいた。
そんな涙を、見過ごせない者が、この場にはいるのだ。
「――我が剣は全てを守る為に――!」
物語の中で、いつも竜は英雄に討たれる。
民を、愛する人を守るため、悪の竜は滅ぼされる定めにある。
だが、今だけは違う。
竜を救うために、聖なる剣は抜き放たれる。
なぜなら彼女は、全てを救うために魂装者となったのだから。
苦しみに涙する少女に、手を差し伸べないわけがない。
『勇者』の剣から放たれた光輝の斬撃が、『死相』の胴に深い傷を刻み込んだ。
『死相』の巨躯が傾き、激しい振動と共に倒れる。
「……」
妃は、言葉を失っていた。
『死相』の毒によって溶け落ちた大地に、彼女は佇んでいた。
白銀の鎧を身に纏い、全て切り払う剣と、全てを守る盾を携えて。
『勇者』は、眩いばかりの純白の魂を、輝かせていた。
春とする魂の清廉さを、どう表現すればいいのか……妃には分からなかった。
「寄生木さん!」
地上から空へと、朱莉が声をかける。
「大丈夫、守るから!」
「――……」
あまりにも、心強い言葉だった。
力の程度でいえば、もはや『翡翠の薔薇』と『勇者』に差などない。それどころか、『翡翠の薔薇』のほうが部分的には上回ってすらいる。
それでも……彼女の言葉は、妃に安心感をもたらした。
彼女の言葉は、妃に勇気を分け与えてくれた。
「……そう、か」
ふと、妃は気付いた。
『勇者』とは、どういう存在なのか。
「扶桑朱莉……あなたは……」
妃の声を遮るように、倒れた『死相』の身体が蠢いた。
その全身が粘土のように形を失うと、蠢きながら立った状態で再成型される。
朱莉のつけた傷は、跡形もなかった。
『死相』が、朱莉を見た。
そして――今の彼女の魂を抉る言葉を投げかける。
なぜ助けてくれなかったのか。
全てを守るのだろう。
なぜ己達を見捨てたのか。
今すぐ助けて。
ここは苦しい場所だから。
早く、早く、己を助けてくれ。
「な……」
怨嗟の声は、見当違いもいいところだ。
なぜなら『死相』の内にある怨嗟の声は、十年も前のもの。
その声は、まだ朱莉は魂装者として覚醒していなかった。
助けようがなかったのだ。
それなのに、なぜ助けてくれなかったのか、などおかしな話だった。
だが、死者にそんな道理は関係がないし……朱莉にも、関係なかった。
全てを救う。
その想いに、過去も未来も、関係などないのだから。
彼女の願いは、それほどまでに無謀で愚かで美しすぎるものだから。
「わ、私は……」
『死相』から朱莉へ、無数の腕が伸びる。
後ずさる朱莉の動きは、ひどく緩慢だった。
『死相』は『翡翠の薔薇』にも『勇者』にも、相性が悪すぎる。
相性でいうなら、やはり魂までも無慈悲に破壊する『伊邪那美』こそ適格だが、彼女は戦えるような状況ではない。
まともな戦いをするまでもなく、妃と朱莉は追いつめられていた。
「っ、扶桑! 逃げて!」
頭上から舞い降りた『翡翠の薔薇』が朱莉へと伸びていた腕を、結晶弾のブレスで吹き飛ばす。
さらに翼を羽ばたかせ、刃の混じった暴風で『死相』の全身を傷つけた。
だが、『死相』は傷など一顧だにせず、前へと踏み出した。
助けてくれ。
許さない。
救って。
殺す。
苦しい。
苦しめ。
怨嗟。
悲嘆。
憎悪。
辛苦。
最高密度の絶望が、二人へ迫る。
「逃げろって……それなら寄生木さんも!」
「私に構うな!」
強がりの仮面を被り直し、妃は叫ぶ、
「どうせ私は長くない! 残りの私の命、意志、想い……ここで使わずどうする!」
「っ!?」
朱莉は、妃の状態など、全く知らない。
しかし、彼女の言葉からは、十分すぎるほどの覚悟が感じられた。
同時に妃の魂が弱体化する。
彼女の魂に込められた思いは生存と逃走、あるいは自己汚染……今の彼女の選択は、生存と逃走を諦めるもの。
故に力は弱まり……自己汚染の勢いも弱まる。
皮肉なことに、自らを捨てる覚悟を決めることで、彼女が彼女でいられる瞬間が伸びた。
「寄生木さん、何を言って……!」
「問答をするつもりなどない。尊いその魂と、私の醜い魂、どちらを残すべきかなど、決まっているんだ!」
竜が、滑るように地面とぎりぎりのところを翔け、『死相』へと突撃する。
自らの魂を否定してでも、今、妃は朱莉を守ろうとしていた。
それだけの価値を朱莉に見出していたし……なにより、これは彼女自身の贖罪でもあった。
十年前は背を向け見捨てた死者の声に立ち向かう。
あの時出来なかったらこそ、今は向き直りたいのだ。
十年間の苦しみがあったから……逃げることは、それだけ苦しいことだと知っているから……今度は逃げない。
ここで立ち向かうことで、ようやく妃は自らの醜い魂を脱ぎ捨てられるのだ。
死に逃げるわけではない。
ただ、救いを求めた先にあるのが、それ以外にないだけの話だ。
「ママ……パパ……リオン……」
妃は、既に『死相』の正体に気付いていた。
この場にいない魂装者が、自然、この堕ちた存在だ。
目の前の『死相』の内に満がいる。
そして今こうして感じる『死相』の穢れの中に、自分自身を感じていた。
そこに妃の穢れがあるということは、答えは一つ。
『黄泉軍』だ。
どういう道理かは、妃には全く想像もつかない。
だが『死相』は満であり、『黄泉軍』でもある。
故に、妃は想うのだ。
十年前に全てを食らった『黄泉軍』の中には、もしかしたら、万が一にも、家族の魂もあるのではないかと。
故に、妃は願うのだ。
この怨嗟の声は、真実、家族のものなのではないかと。
故に、妃は伝えたい。
「ごめんなさい……私、生きたかったの」
『死相』から伸びる腕に、妃が爪を振るう。
竜の爪は腕を易々と切り裂いたが、触れた瞬間、高密度の穢れが妃へと流れ込んだ。
自分が自分ではなくなるような感覚だった。
自分の中に、もう一人、真っ黒な自分がいて、今表に立っている自分の首を絞めて殺そうとしてくる。
そんな怖気に、妃は――『翡翠の薔薇』は咆哮する。
まだ自分は自分のままだ、と。
「ごめんなさい……ごめんなさい!」
謝りながら、妃は次々に襲い掛かる『死相』の腕を破壊していく。
そうしながら近づけば、近づくほどに死者の情念は強く重くのしかかる。
悔いながら、謝りながら、戦う。
耐えられないのは、そんな姿を見つめる朱莉だった。
あまりにも痛々しく、悲しい。
『翡翠の薔薇』が纏うのは、深い絶望の気配だ。
「寄生木さん……!」
逃げろと言われた。
事実、朱莉と妃では『死相』には太刀打ちできないだろう。
しかし、だからといって素直に頷けるわけがない。
朱莉の脳裏に浮かぶのは、天道啓の人のいい笑顔であり、天道紡のいる暖かな食卓であり、結が実の兄と仲良く歩んでいる姿だった。
全ての人が、幸福にいられるように。
朱莉は止まれなかった。
妃の言葉に逆らい、前へと踏み出す。
白銀の具足が地をしっかりと掴み、一気に駆けだした。
妃にふりかかる全ての悲しみを切り裂くために。
「お、おぉおおおおおおおおおおおおおお!」
高まる朱莉の魂に、妃は歯噛みする。
そうじゃない。
そうじゃないだろうと、叫ぶ。
「『勇者』! ここでお前がいなくなれば、一体、誰がこれから先、お前が救うはずの誰かを救うのだ!」
振り上げられた白銀の刃が、ぴたりと止まった。
妃の言葉は、朱莉に、一つの約束を嫌でも思い出させた。
傍にいる。
一人涙を流す少女に、そう約束したのは誰だったか。
その約束を破るのが、『勇者』のすることか?
「っ……でも!」
祈る。
祈る。
朱莉は祈る。
救いたい。
救わせてほしい。
全ての幸せを叶えさせてほしい。
全ての苦しみを打ち消したい。
人の身には、あまりに分不相応で、過大な想い。
朱莉の纏う輝きが強まり、まるで陽の光のようにあたりを照らし出した。
「なぜ、分かってくれない……『勇者』。あなたは未来に残るべき魂なんだ!」
「ここで逃げれば、私は『勇者』でいられない!」
現在も。
過去も。
未来も。
全ての人を救いたい。
無謀な希望の輝きが……愚かな少女の魂が……ひとつの奇跡を起こす。
穢れとは、魂に蓄積された想いや経験だ。
人の生に、悪感情は多く、辛い経験は多い。
どれほど取り繕おうとも、多くの人々を集め計ったのであれば、善性よりも悪性に傾くのが人だ。
だが、それでも。
善性が皆無というわけでは、決してない。
聖なる輝きが揺り起こしたのは『死相』の中で悪性に押しつぶされていた、微かな光だった。
その名は分からない。
そもそも想いの欠片だ、人でもなければ、表すべき名も存在しない。
けれど。
けれど。
妃には、分かる。
「ぇ……」
それは愛する家族の生を喜ぶ声だ。
自分達よりも、愛しい少女を想う祝福だ。
十年前、無残に散り、しかしそのまま魂魄界へと戻るはずが、ある存在の捕食に巻き込まれることで、今この瞬間まで、穢れという汚濁の中に存在していた。
届くはずのないものが、届く。
「う、そ……」
その想いが届き、『翡翠の薔薇』が震えた。
「……本当に?」
――生きていてくれて、本当によかった。
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