泡沫
翡翠の竜はしばらく空を泳ぎ、魂装官達との遭遇地点からだいぶ離れた場所に建っている、今にも崩れそうな高層ビルの上に降り立った。
朱莉が背中から降りると、翡翠の鱗に覆われた巨躯が、光の粒になって溶けていく。
「さて、と」
妃の魂装は、自らを穢す。
使えば使うほどに濁る自分の魂を確かめながら、その不快感をおくびにも出さず、気丈な態度を取り繕う。
「付き合わせてしまって悪かったな」
「いえ、気にしないでください」
緩やかに首を横に振り、朱莉が微笑む。
そんな彼女に、妃が抱いたのは、羨望にも似た想いだ。
自分と同じく救いようのない魂を持っている朱莉だが、致命的に、その輝きが異なる。
罪悪感と後悔で爛れた妃の魂と違い、朱莉は無垢な光を放っている。
触れれば過剰な清廉さに苛まれるが、少なくとも、美しくはある。
向き合うことすら厭う自分の魂とは大違いだと荷が笑みを漏らす。
少しだけ、彼女の魂を、魂装を見てみたいと感じるが、その輝きに身を晒し焦がされるのも怖いと、矛盾した想いを抱く。
だから、口にはできなかった。
「……まあ、ご覧の通りだ。このような輩には関わっても、いいことはないぞ?」
代わりに、そんな自虐じみた台詞が出る。
それで別れられるのならば、その方がいいと、妃は本心から思う。
どうせ、自分は長くはもたないのだから、と。
こうして今も言葉を交わせていること自体が、奇跡なのだ。
生存の願望を一方的にぶつけた一人の魂装者によって与えられた、自分にはもったいなさすぎるほどの僥倖には、感謝してもしきれない。
「寄生木さん」
真剣な朱莉の瞳が、妃を捉える。
その唇から紡がれるのは、どんな響きか。
離別でも、あるいは誹りでも、全てありのままに受け止めるつもりだった。
「いつか、あなたの悩みを何とかしてあげたいと、私はそう思います」
「え……な、何を言って……」
だが、飛び出したのは、変わらず妃を思いやる言葉で、つい素の部分を覗かせて、きょとんとしてしまう。
「だからその時は、よければ、また私を背中に乗せてくださいね」
朗らかな笑みに、妃はしばし見とれてしまった。
魂装など、見るまでもない。
彼女は太陽だと、妃は焦がすどころか、優しく包み込む温もりに、口元を緩めた。
「そうだな。その時は、どこまでも飛ぼう」
あるいは、それは……逃げたい、生きたいと願った妃が、逃避以外で、初めて空を飛びたいと願った瞬間だったのかもしれない。
二人の間に、小さな絆が結ばれた時……第三の声が、響いた、
「――気を付けてね。空を願いすぎれば太陽に溶かされ堕ちてしまうと、昔から相場は決まっているから」
いつから、そこにいたのか。
妃も、朱莉も、気付いていなかった。
隠れていたわけでもない……その少女は、ビルの縁から空へと足を投げ出すように座っていた。
ばぜ、気付けなかったのか。
僅かな混乱が二人を襲う。
「ああ、それとも、あなたは翼を溶かして欲しいのかな?」
「――……誰だ?」
このタイミングでは、どうしたって警戒してしまう。
妃が身構えたのを見て、少女は笑った。
彼女の黒い髪は、楽し気に風と戯れていた。
「ふふっ、初めましてじゃないけれど、初めまして。寄生木妃さん、扶桑朱莉さん」
自己紹介もしていないのに二人の名を呼び、彼女はいつ落ちてもおかしくはない縁で、怯えなく身軽な動きで立ち上がった。
なぜか、どこかで見たことのある気がする瞳が、妃と朱莉を見つめる。
「私は、満。この泡沫の夢で会えてうれしいわ」
そう言って、彼女は屈託なく微笑んだ。
† † †
朱莉は、目の前の少女に、妙な既視感を覚えていた。
初めて会うはずだ。
だが、初めて会った気がしない。
その姿を知らない。
でも、知っている気がする。
不可解な感覚に、戸惑いが隠せない。
「あなたは……」
「あなたじゃないわ、満よ。久しぶりの会話なのだから、きちんと名前を呼んでほしいの」
満は、まるで遊びまわる子供のように、弾んだ声で言う。
こうして言葉を交わすだけのことが、楽しくて楽しくてたまらない、といった様子だ。
「満、さんは……何者ですか?」
漠然とした問いかけだった。
だが、そうとしか尋ねられない。
対して満は、愉快そうに目を細める。
「そうだなあ……あなたの探し人への案内人、ということにしようか?」
「っ……」
満の言葉に、朱莉が息を飲んだ。
思わぬところで出会った手がかりに、思わず一歩前に出る。
「何を知っているんですか?」
朱莉の脳裏に、朔についての情報が蘇る。
彼は魂装犯罪者と行動を共にしている、とされている。
もしかしたら彼女こそが、その魂装犯罪者なのでは……その可能性を考え、なんとしてでも話を聞かなくてはならなくなる。
戸惑いは消え、最悪、力づくでも相手を捕まえる強い意志が朱莉の瞳に宿った。
「大丈夫、無事にまた会えるよ。だから、心配しないで」
朱莉が決意を固めたことなど知らないとばかりに、満は軽く、世間話のように語った。
「むしろ、ここで私をいじめたら、それこそ大変なことになっちゃうかも?」
小首を傾げて言う満からは、悪意の欠片も感じない。
「それは、脅し、ですか?」
「まさか! 私はあなたの敵じゃないよ。味方でもないけど。今の私が味方をしてあげるのは、この世界でたった一人だからね」
「……」
無邪気な子供にじゃれつかれている気分になって、朱莉は毒気を抜かれた。
「それより妃さん、そろそろここを離れた方がいいかも。追ってきてるよ?」
満は視線を、眼下に広がる街並みへと向けた。
「第二等級が二人、第三等級が四人かな?」
「なんだと……?」
妃が屋上の縁に歩み寄り、視線を巡らせる。
その瞳に、魂の力が集まり、常人ではありえない視野をもたらした。
少し探ってみれば、微かに建物から建物へ飛び交う人影がいくつか見えた。
「……」
にわかに信じがたいものを見るように、妃は満を見た。
どれほど鋭敏な魂の知覚能力があれば、魂装も展開していない、遠距離を移動する魂装者の位置など把握できるのか。
しかも、その力量を含めてだ。
「私ね、魂には敏感なんだ。なにせ剥き出しだからね」
満の言うことは、端々が理解できない。
朱莉は、満が索敵に特化した魂装者なのかと憶測を立てる。
だが、その答え合わせをしている余裕はなかった。
「……すまない、扶桑。今日は迷惑をかけた……またな」
「あ、寄生木さん!」
呼び止めるが、妃は屋上から勢いよく飛び降りると、竜へと変生し、空へと高々と舞い上がった。
己の存在を示し、追跡の手が朱莉へと伸びないようにするために。
竜の瞳が一瞬だけ朱莉を見て、空の彼方へと飛翔しはじめた。
追う術を、朱莉は持たない。
「大丈夫、また会えるよ」
なんの確信があってか、満が断言する。
「……あなたは、何者なんですか」
再度、朱莉は満へと問いかける。
彼女はおかしそうに、小さく噴き出した。
「どう言えば納得してくれるかな? 全部を教えてあげてもいいけれど、せっかくお兄ちゃんと秘密を共有できてるのになあ……」
お兄ちゃん、という響きに、朱莉は首を傾げる。
ここでその単語に当てはまるのに相応しい人物として、真っ先に思いつくのは渦中の人物である朔だ。
だが、朔の家族は十年前に亡くなっていると朱莉は聞いていた。
であれば、結のようにそう呼んでいるだけかとも考えるが、どういう関係性なのか、よりややこしくなる。
「よし、じゃあこうしよう!」
ぱん、と満が両手を合わせる。
「戦火朔のお嫁さん、戦火満です!」
「……」
堂々と言い放つ満に、朱莉は胡散臭いものを見る目を向けた。




