再び現れる翡翠
朔と結が部屋から出てきて、一回へと降りていく。
それを、誰もいないはずの廊下で見守る者達がいた。
「――おっかしいなぁ」
声が聞こえ、まるでフィルムを途中で別のものに繋ぎ合わせたかのように、唐突に七海と朱莉、千華の姿が現れた。
不可解そうに首をひねる七海の指先には絆創膏が張られ、赤い血がにじんでいた。
願望成就による不可視化により、三人は朔と結のやりとりを見守っていたのだ。
「学校に行きたくないって言って涙の一つも見せれば、あの馬鹿も思わず結を抱きしめて慰めるかと思ったんだが……」
納得いかない、といった顔の七海に、朱莉と千華の呆れた視線が突き刺さる。
「いくらなんでも安直過ぎません? というか、泣いている女の子を抱きしめて慰めるって、戦火さんのイメージじゃないし……」
「っていうか、やったらやったで警察呼ぶわよ」
公園で遊ぶ子供を見つめているだけで通報されるような時勢の厳しい発言に、七海も苦笑をこぼす。
「いや、でも女の涙は最強って言うじゃんかよ」
「ここは、涙を流す暇すらあたえなかった戦火さんの勝ちということでしょうか」
「あんたらは何と勝負しているわけ?」
真剣な顔を突き合わせる七海と朱莉に、千華はすっかり呆れかえった様子だった。
「ですが大丈夫です。結ちゃんには、まだ私の考えた作戦が残っていますから」
自信満々に言う朱莉に、七海と千華が半眼になる。
「えー……あれだろ?」
「あれはない……」
「だよなー」
完全に意見を同調させ頷き合う二人に、朱莉が不満げな表情をした。
「む、見ていればわかります。男の人だって可愛いものは好きなはずです! きっと思わず抱きしめてしまうでしょう! これで結ちゃんの不安も解消です!」
「だから抱きしめたら通報するって」
千華の言葉は、朱莉の耳には届いていないようだった。
† † †
台所に移動した俺たちは、さっそく夕食の準備に取り掛かった。
道具と食材を用意し、今日作るものについて説明をしようと結を振り返った時……俺の視界に飛び込んできたのは、不可解なものだった。
「……」
無言のまま、俺は結と見つめ合った。
何を言えばいいのか、分からない。
引き取った子供が、いきなり猫耳をつけた時、人はなんと言えばいいんだ?
趣味か?
いや、しかしここまでそんな素振りは……というか猫耳つける趣味ってなんだ?
もしかしたらこのくらいの年ごろの女の子の間で流行っている、という可能性も……いや、さすがにサブカルチャーに強い国だからってそんなことが起こり得るか?
子供向けアニメとかの影響、なんてことも考えられるか。
……ど、どうする、これはスルーすればいいのか?
どうあっても、俺一人では答えが出せそうになかった。
「……あ、あの、お兄ちゃん?」
「お、おお……」
返事をする声が、無様にも震えていた。
「ど、どうかした……にゃ、にゃん?」
「……――滅びの塔を駆け昇れ、我は――」
いやいや違う違う、困窮したからって魂装する場面じゃないだろう。
混乱のあまり意味不明な行為をしそうになった自分をどうにか押しとどめる。
「ゆ、結、少し待っていてくれるか?」
「え……あ、はい。にゃん」
事態は一刻を争う。
俺は全速力で台所を飛び出すと、居間を抜け、廊下に飛び出した。
「きゃっ!?」
ちょうどいいところに、朱莉先輩の姿を見つけた。
八束と七海もいるが、そんんあのはどうでもいい。
今は、可愛いもの好きの女子代表である朱莉先輩に訓示を頂きに来たのだ。
「朱莉先輩!」
「あ、はい!」
力強く方を掴み、真剣に尋ねる。
「いきなり女の子が猫耳をつける時って、なにか、こう、訴えたいことがあるんだろうか・……俺には、分からない」
「あー……」
なぜか八束と七海が、どうするんだこれ、みたいな顔をしている気がしたが、そんなことより朱莉先輩の答えだ。
「頼む、教えてくれ」
ここまで真摯に人に教えを求めたことなど、いつ以来だろう。
それほどまでに、今の俺は追いつめられていた。
「と、とりあえず、私、結ちゃんと話してみますね?」
「……」
そうか。
男の俺では、理解できないような理由が、あるんだな。
「分かった。俺は、部屋に戻るから……その、結は台所にいるから、よろしく頼む」
「は、はい」
俺は自分の不甲斐なさに歯噛みしながら、その場を立ち去った。
† † †
台所で、朱莉と七海、千華、結の四人は顔を見合わせていた。
すでに結の頭からは猫耳が外されている。
「おい、どうするんだよ。戦火のやつ真剣に悩んでたぞ」
「はたから見たらひどく滑稽な姿だったわね」
七海と千華に言われ、朱莉が頭を抱える。
「まさか、こんな結果になるとは……」
「半ば分かっていた結果ね」
千華の発言に、朱莉はショックを受けた様子で、一歩二歩と後ずさった。
「可愛いは、正義なのに……」
「よくわかんねぇけど、なんか違くねーか……」
七海も、いつになく冷静に呟いた。
「……私、なにか、駄目だった?」
不安げに、結が三人を見回した。
「別に、この二人の指示が馬鹿げていただけでしょう。まあ、自分でなんとかしようとしない時点で、どうかと思いうけどね」
「……」
歯に衣着せない千華に、結は泣きそうな顔で俯いてしまう。
「八束さん……」
たしなめる朱莉の言葉も、千華は一顧だにしない。
「そこまで言うなら千華、お前はなんかいいアイディアがあるんだろうな」
「どうしてそなるのよ……」
頭痛にでも耐えるかのように、千華が眉間に手を当てた。
溜め息をつき、しかしこのままの状況が続くのも面倒だと、千華は結を見つめた。
彼女の視線にさらされ、結は小さく肩を震わせた。
厳しい言葉を受け止められるほど強くもなく、朔の気持ちを汲めるほどに親しくも無い。
そんな結への言葉を、千華は吟味する。
誰かは、朔に対し、向き合えと告げた。
だが、と千華は思う。
向き合うということは、互いが互いを見ているという事だ。
であれば、向き合う事を求める相手は、もう一人いる。
「こそこそしていないで、素直に自分の気持ちをあいつにぶつければいいじゃない。何も難しいことじゃないわ」
魂を現実にするよりよほど簡単だ、と千華はこともなげに言う。
相手が子供だからと特別扱いなどしない。
「……」
戸惑い、躊躇いが、結の瞳を揺らした。
「あなたがまず、戦火と向き合いなさい」
もう一度、はっきりと、千華は言う。
それから、唇の端を吊り上げた。
「それで、あいつがまだ逃げる様なら、その時は仕方ないからあいつの顔面ぶん殴って、無理矢理にでも向き合せてあげてもいいわ」
「……千華、お姉ちゃん」
目を丸くする結と目を合わせず、千華は明後日の方向を見つめた。
千華の言葉の意味を、結は十分には理解していない。
千華が朔に立ち向かう事は、先程彼女自身が七海に注げたことに、ぴったりと当てはまる。
魂装者同士の戦いには、自分の全てをなげうつような覚悟が必要だ。
結の覚悟に、千華は自分の覚悟を差し出すつもりだった。
だが、その心の深さだけは、結にも伝わる。
「あの……私、頑張って、みる」
「そう」
素っ気ない返答にも、結は笑顔を浮かべて見せた。
「ありがとう!」
「……」
以前、千華は結と顔も合わせようとしない。
その肩を、七海が軽く小突いた。
「はっ、戦火とやる時はアタシも呼べ。仕方ねぇから協力してやるよ」
「私もです」
七海と朱莉に、千華は馬鹿にするような笑みを返す。
「いらないわよ、足手まといなんて。私一人いれば十分だわ」
変わらぬ憎まれ口にも、七海と朱莉は苦笑した。
† † †
あれから朱莉先輩が結と話をしてくれたらしく、俺が台所に戻る頃には、彼女の頭から猫耳は消えていた。
安堵しつつ、なにがあったのか気にはなったが、藪蛇かも知れない部分を突く勇気は出なかった。
探らぬままに一緒に作り始めた夕食のロールキャベツは、少しだけ、薄味で完成した。
食卓では遠季以外の連中が妙にそわそわしていて、落ち着かない夕食となった。
そんな、騒がしく奇妙だった一日が終わりに近づき、女性人が全員上がったのをしっかり確認してから、俺は大浴場で疲れを洗い流し、風呂上がりの麦茶を縁側で飲んでいた。
「……ふぅ」
半分まで飲んだところでコップを置いて、夜空を見上げる。
空に浮かぶ月は、半月よりは少しだけ、大きかった。
「……子供ってのは、大変だな」
きっと同じ空の下にいる、あの人に向かって、呟く。
素直な結でさえ、こうして手に余っているんだ。
捻くれた俺をここまで育ててくれたあの人には、心から感謝を覚える。
「まあ、なんとかやっていくか……」
残りの麦茶を飲みほし、自分の部屋へと戻ろうとした、その瞬間の出来事だった。
翡翠の結晶が弾丸のように、俺の背に向かって飛んできた。
ほとんど反射的に腰の後ろから漆黒の尾を形成し、結晶弾を払い砕く。
「……何のつもりだ?」
尾を引っ込めて、中庭から玄関の方を見つめる。
夜の暗闇の中、人影が浮かび上がった。
誰か、など確かめるまでもなく分かる。
さっきも、この攻撃を食らったばかりなのだから。
「寄生木妃だろう?」
名前を呼ばれ、人影が一歩、前に出る。
月明かりが、その相貌を露わにした。
「もう一度聞く。何のつもりだ?」
睨み付けながら問うと、寄生木は薄く笑った。
「そんなに怒ることはないだろう。ちょっとしたあいさつ代わりだ。それとも、特第一等級とやらはこんな攻撃を歯牙にかける小物か?」
余裕に満ちた喋り方で、彼女は横柄に告げた。
「等級なんざ関係あるか。お前、今まで生きてきて、いきなり殴りかかられても安穏と会話をしようとする人間に出会ったことがあるか? というか、実在して、気味が悪いと思わないか?」
「あ、確かに」
「ん?」
堂の入った口調が、一瞬崩れた気がした。
「ん、んんっ、しかし、今のが貴様の魂装か。随分な奇形だな。これは私の持論だが、生体の形をとる魂装をする者に、碌な奴はいない」
「お前、自分の魂装もそうだって分かってるか?」
ドラゴンも生き物と言えば生き物だろうし。
「はっ……」
びくりと肩を震わせた寄生木だが、すぐに気を取り直し、真剣な顔を作る。
「十年前から一体何をしていたかは知らんし、どうしてここにきて正体を現したのかも知らん。だが、先に言っておこう」
寄生木の指先が、俺へ突き付けられた。
「人を指さすなって親に教えられなかったのか……」
「あっ、教えられた」
慌てて手を下げる寄生木だが、ぶんぶんと首を振ると、目の鋭さを強めた。
なんだか、その頬がどんどん赤みを増しているような気がする。
……こいつ。
「っ、戦場朔!」
「戦火な。因縁を吹っ掛ける相手の名前くらい覚えておけ」
「あ、ごめん」
……こいつ、まさか。
「戦火朔」
「ああ、とりあえず上がるか? 立ち話もなんだし」
「え、お邪魔していいの?」
「構わない」
「ありがとう、こんな夜分遅くに本当に申し訳――じゃない!」
自分の発言を無かったことにするかのように両腕を振り回し、寄生木は地団駄を踏んだ。
こいつ、まさか……アホか?
俺の内心が読まれたわけじゃないだろうが、寄生木は怒りだか羞恥だかで顔を真っ赤にして、もう一度俺を指さそうとして、躊躇い、結局手を下げた。
その時の彼女の表情から察するに「あ、どうしよう。やっぱり指さすのは駄目だよね」と一瞬冷静になったのだろう。
「戦火朔! 『共食い』! 貴様のような存在を、は放っておけない」
「俺が大規模飽和流出そのものだから、か?」
「なんだ、よく分かっているではないか」
挑発的な笑みを浮かべる寄生木だが、未だにその頬には赤みが残っている。
「十年前の大災害を再び起こしかねない貴様は、多くの者に不安を与え、危険視されている。故に、私が貴様を見張り、怪しい真似をすれば、即座に……」
鋭い眼光と、魂の威圧が俺を襲う。
とはいえ、さほどの重圧ではないのだが。
俺は肩を竦め、降参するように両手を挙げて見せた。
「別になにもするつもりはないから、見張りたいなら好きに見張れ。俺だって十年前にいろんなものを失った……あんな理不尽、もう御免だからな」
「え、そ、そうなの?」
こいつ、そんなことも知らなかったのかよ。
やっぱりアホか。
あと、朱莉先輩をはるかに下回るキャラ作りは、いっそやめた方がいいんじゃないだろうか。
「ともかく、話はそれで終わりか? ならお引き取り願おうか」
「……いや、もう少し、貴様には付き合ってもらうぞ」
「なんでだよ」
面倒だし無視してしまおうか、という考えがよぎるが、こいつはそれでもしつこく言ってきそうだ。
気が済むまで付き合ってやるしかないか、と溜め息をつく。
「ついてこい!」
俺の答えも確認せずに、寄生木が踵を返し、歩き出す。
「ちょっと待て」
「待てと言われて待つと思うか?」
「寝間着だから外着に着替えたいんだが、俺はそれすら許されないのか?」
「……待つ」
こいつちょっと面白いかもしれない。
そう思い始めている自分がいた。




