声を聞いて
俺と結、そして八束と朱莉先輩は改めて居間に集まっていた。
遠季と紫峰は不穏な気配を察したのか、いつの間にか姿を消していた。
あいつら、少しは助け舟を出そうって思ってもバチは当たらないんじゃないのか……。
嘆息しつつも、俺は一通り、結についての説明を行った。
彼女が天涯孤独の身であることと、ちょっとした縁で俺が引き取ることになったことを。
それを聞いて、まず口を開いたのは八束だった。
「まあ、好きにすればいいんじゃないの?」
意外にも返ってきたのは、肯定的な言葉だった。
八束であれば、ここは保育所じゃないとか、子供なんてうるさいだけだとか、反対すると思っていたんだが……。
そんな俺の考えが顔に浮かんでいたのか、八束が僅かに不快そうに眉を吊り上げた。
「なによ、その顔は……今からでも反対してあげてもいいんだけど?」
「あ、いや、結構だ」
苦笑しつつ首を横に振ると、八束は視線を俺の隣に座る結へと移した。
八束の視線に、結は俺の服の袖をきつく握りしめ、視線をさまよわせた。
やはりさっきのやりとりの後じゃ、怖いよな……。
だが、当の八束は結の反応に、さして感じ入るものはないようで、興味なさげに視線を外した。
「余計なものを抱え込むことに関しては、私もなにも言えないもの」
「え?」
「なんでもないわ」
首を傾げるが、八束の全身から放たれる聞いたらただでは済まさない、という気配に口をつぐんだ。
「私の邪魔にならない限りは、何も言わないわ……」
「そうか……まあ、助かる」
続いて、俺は視線を朱莉先輩に移した。
朱莉先輩の顔は、さっきのことをひきずっているのか、まだ赤みを残していた。
裸を見られることのほうが明らかに恥ずかしいと思うんだが、そのあたり、八束と朱莉先輩の性格の違いってことなのだろう。
……まあ、あんな少女趣味前回の部屋を見られたら恥ずかしいよなあ。
あれが朱莉先輩の素の好みなのだと思うと、思わず苦笑が浮かんだ。
馬鹿にしているわけではなく……そういう趣味を恥ずかしいと感じるのは、なんというか、普段から大人びた態度をとろうとしている彼女らしかったから。
らしいな、と思ったんだ。
「な、なにかしら、戦火さん。にやにやして……」
警戒をあらわに、朱莉先輩が口を開いた。
「別に、なんでもない。それより朱莉先輩はどうだ。結がここで暮らすことに、意見とか」
「私はいいことだと思います。賛成です」
きっぱりと言って、朱莉先輩は結を見つめた。
が、やはり結は朱莉先輩に対しても苦手意識を抱いたのか、俯いてしまう。
「……」
朱莉先輩は、なにやらひどく傷ついた様子で胸を抑えたが、すぐに気を取り直し、微笑みを浮かべた。
全てを受け入れ、認め、祝福するような無垢な笑顔は、まさに『勇者』としてのもので、そんな表情に、俺の袖を掴む結の手から、僅かに力が抜けた気がした。
「この子も、そしてこの子の家族も、私たちが守れなかった……なら、せめて出来ることはしたい」
「……ああ」
奇しくも、朱莉先輩が口にした言葉は、俺の想いとよく似通っていた。
ただ、何故か違和感を覚えた。
そう……まるで朱莉先輩の瞳が、今、ここにいる結ではなく、彼女を通して、もっと別の何かを見ているような……。
「よろしくお願いします、結ちゃん」
朱莉先輩が笑顔のまま、片手を結へ差し出した。
結は躊躇うように、朱莉先輩の手を俺を交互に見た。
「……」
何か言うべきか。
いや、大丈夫だろう。
まだ対して一緒の時間を過ごしたわけではないが、この子が優しい子だというのは知っている。
兄の為に勇気を振り絞り一人で買い物に出かけて、多くの人が世話を焼かずにはいられないような子だ。
俺がわざわざ何を言わなくても、どうすべきかなんて、分かっているだろう・
「……よろしく、おねがいします」
結の小さな手が、朱莉先輩の手を握った。
「はい。何か困ったことがあれば、何でも言ってくださいね」
朱莉先輩が優しく告げ、結も、ようやく口元を緩めた。
これなら、なんだかんだで上手くやっていけそうだな……。
「ところで、一つ気になったんだけど、その子って誰の部屋で暮らすわけ?」
「ん?」
不意に、八束が口を開いた。
「もう空き部屋はないでしょう? 一応、紡と天道啓の部屋はそのまま残っているけど、それを与えるっていうのも違うんじゃない?」
「……あ」
指摘を受け、思わず間抜けに口を開いてしまった。
しまった。
そのあたりのこと、全く考えてなかった。
この屋敷で暮らす許可こそ、遠季からは得ているものの……そういえば、寝具なんかの用意もしてないぞ。
不足だかけの現状に思い至り、焦り出した俺に、八束と朱莉先輩の冷たい視線が突き刺さった。
「え、っと……とりあえず俺の部屋でいいんじゃ……」
「はあ?」
「駄目に決まっています」
八束には性犯罪者でも見るような目を向けられ、朱莉先輩には鋭く言い捨てられた。
「……だ、だよな」
「わ、私は、お兄ちゃんと一緒でも……」
結がフォローしようと、そう言ってくれるが、その発言を受けて場の空気が一気に冷え込んだ。
分かるぞ、八束と朱莉先輩が何を言いたいのか。
こいつお兄ちゃんとか呼ばせてるのかよ……って、はっきり顔に書いてある。
別に呼ばせてねぇよ。
それに紫峰だってお姉ちゃんとか呼ばれてるんだぞ。
……反論してもどうしようもないどころか、ややこしくなるのが分かっていたので、諦める。
「それじゃあ、どうするかな……」
最悪、近くに家を借りてもいいんだが……。
考えていると、朱莉先輩がそっと手を上げた。
「よかったら、私の部屋に止めましょうか?」
「え?」
思わぬ提案に、俺は目を丸くした。
「朱莉先輩の部屋に? いいのか?」
「ええ、まあ……困った時はお互い様とも言いますし」
提案を、改めて吟味してみる。
この屋敷で暮らす面子の中じゃ、朱莉先輩が年齢的にも一番近いし……それに……。
「結も女の子だし、暮らすなら可愛い部屋の方が――」
「戦火さん?」
「……一瞬で剣を抜くのはやめてくれ」
展開された『勇者』の剣が俺の頬にぴたりとあてられた。
あまりの早業に、背筋を冷や汗が伝った。
せっかく警戒をときかけていた結も、また表情を硬くしてしまう。
「なにしてるの、あんた達」
「いえ、なんでもありませんよ。気にしないでください」
訝しむ八束に、朱莉先輩がすかさず誤魔化しの笑みを向けた。
「ねえ、戦火さん?」
「……ああ、そうだな」
それから、俺に鋭い視線が突き刺さる。
あの部屋のことは口にするな、という事か。
なにをそこまで頑なに隠す必要があるんだとも思うが、本人が嫌がっていることをわざわざする趣味もない。
「ともかく朱莉先輩がそう言うなら……結、君はどうだ? 基本的に寝泊まりは朱莉先輩……あの人の部屋でして欲しいんだが」
問いかけると、結はやはり不安げな表情で、俺を見つめ返してきた。
「……あ、あの……お兄ちゃんと一緒は、ダメ、なの?」
涙目のまま袖を掴まれ、上目づかいで言われると、無性に罪悪感のようなものがこみあげてくる。
心を許してもらえている、とは勘違いしない。
ただ彼女には、頼れる人が俺しかいないから、縋っているだけだ。
今はそれでもいいと思う。
けど、これから先、どうしたって俺が常に傍に控えているわけにはいかない。
いきなりで強引かとも思う。独り立ちというには大げさかとも思う。
それでも、これが最初の一歩になればいいのではと、思う。
「結、少し大仰な言い方をするが、一つ屋根の下で暮らすのなら、朱莉先輩たちは……まあ、なんていうか、家族みたいなもんだ」
言い聞かせるように、ゆっくり、言葉を一つ一つ選び伝えていく。
柄じゃないのは分かっている。
お前が言うのか、と八束あたりは内心あざ笑っているかもしれない。
俺だって自分でそう思う。
だが……こういう場面で、あの人だったら、こう言うだろうから。
「俺だけじゃない、皆と仲良くしないとな。まず朱莉先輩が歩み寄ってくれた。それに、結は応えなくちゃいけないだろう。嫌なら嫌でもいい。君にも意思があるんだから、朱莉先輩には悪いがそれは仕方のないことだ。けれど、その理由が、怖いからとか、不安だからとか、そういう……逃げは駄目だ」
厳しいことを言っているだろうか。
難しいことを言っているだろう。
ただ、生憎、俺を育ててくれたあの人もそういう感じだったんで、勘弁してほしい。
「しっかり自分の気持ちで、朱莉先輩に向き合うんだ」
「……」
やはり、十分には理解できなかったのか、結は困惑した顔をしていた。
それでも俺の言葉からなにかを汲み取ろうとしているのが分かる。
いい子だな……重ね重ね、そう思った。
昔の俺なら、なんていったろう。
どうでもいい、それがどうした、そんなところか。
我ながら、本当にあの人には迷惑ばかりかけてしまった。
「あの、ね……」
「ああ」
結が、まっすぐ俺を見ていた。
その瞳に、しっかりと意志を感じ、俺は続きの言葉を待つ。
「朱莉、お姉ちゃんの部屋で……大丈夫」
不安を乗り越えた言葉に、つい、笑みが浮かんだ。
すごいな……きっと俺は、そのうちこの立派な女の子に頭が上がらなくなってしまいそうだ。
「それを言うのは、俺じゃないだろ?」
俺の言葉にハッとして、結は朱莉先輩に向き直った。
朱莉先輩もつられるように、居住まいを正した。
「……朱莉お姉ちゃん」
「はい」
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げた結を見て、朱莉先輩は微笑みをこぼすと、彼女の頭を優しく撫でた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「うんっ」
一転、結も陽を浴びて輝くひまわりのような笑みを浮かべた。
二人を見て、俺は不思議とほころぶ口元を抑えることができなかった。
「……それじゃ、話は終わったみたいだし、私は部屋に戻るわ」
和やかな場の雰囲気など知ったことではないと言うように、八束が立ち上がり、背を向けた。
「あ、あの……」
意外なことに、その背中に声を投げたのは、結だった。
歩き出そうとしていた足を止め、八束が肩ごしに振り返る。
「……なに?」
「あ、その……」
誰よりも結に対して冷ややかな八束の瞳に、小さな肩が震えた。
とっさに割って入ろうとしたが、結がなにか口を開こうとしているのを見て、寸のところで留まる。
ここで結の言葉を遮るのは、きっといけないことだから。
「……」
結が何を言いたいのか、俺には分からない。
朱莉先輩も、どうすればいいのかと俺に視線で問いかけてくるが、答えようがない。
沈黙がしばらく、場を漂っていた。
それを破ったのは、八束のため息だ。
「八束よ、八束千華」
「へ?」
唐突な発言に俺は思わず間の抜けた声を漏らしてしまったが、それを聞いた結が晴れた顔をしたのを見て、遅れて気付いた。
八束の名前が分からなくて、結は言葉を紡げなかったのだ、と。
「うん、千華お姉ちゃん。よろしくおねがいします!」
満面の笑みを向けられ、八束はどうでもよさげに手をひらひらと振った。
「軽々しく下の名前呼び? まあいいけど……」
そうして、今度こそ八束は、今を出ていった。
「……なんであいつ、結の言いたいことが分かったんだ?」
「……さあ?」
俺と朱莉先輩は、顔を見合わせ、世にも奇妙な現象に首を深く傾げた。
† † †
廊下に出た千華は、そのまま壁に背を預け、荒い呼吸を繰り返していた。
異常に速く鼓動を刻む胸に手を当て、歯が震えて音を立てそうになるのをどうにか堪える。
今、結が何を言いたかったかなど、千華には微塵も理解できなかった。
だというのに、なぜ自分の名前を知りたがっていると、理解できたのか。
千華の頬を、止めどなく冷や汗が伝い落ちていく。
異様な発汗量は、彼女の足もとに小さな水たまりを作るほどだった。
呼吸が上手くできない。
全身が心臓に変わったかのように、脈動の音がうるさかった。
「……なんで」
胸にあてた手が、服に、肌に、指をくいこませていく。
結に答えを返す直前、彼女の耳に届いたのは、ありえない声だった。
――名前を教えてほしいんじゃないかな?
あの場で、動揺を表さなかった自分を褒めてやりたい気分だった。
そうだ、と思う返す。
十年以上も前の事を。
彼女は、自分よりもずっと聡く、人の気持ちに機敏だった。
妹である自分は、そんな姉を誇りに思ったものだ。
「……六花」
胸の奥で眠る魂は、もう、答えを返さない。
そのことに、千華は少しだけ、安堵を覚えた。




