淡い思い出に別れを告げて
『共食い』の爪牙が『聖域』の黄金を削り取る。
無尽の能力を自在に操る『共食い』と、防衛という面で優れた能力を持つ『聖域』の闘争は、どちらも有効な手を打てない、泥沼の状況へと陥っていた。
『共食い』はいくつもの魂を臓腑に収め、その内のいくつかが持つ再生能力を束ねることで、一瞬で内包する魂を蒸発させでもしない限り決して倒れない。
『聖域』は纏う黄金の殻を貫かなくては、毛ほどの傷もつける事はできない。
泥沼だが……両者の衝突には、一つの結果が、既に用意されていた。
少し考えれば、分かる事だ。
いくら歪み、攻性を持ったとはいえ、やはり『聖域』の神髄は防衛にある。
端的に言えば、攻撃力に乏しいのだ。
対する『共食い』はそういった優劣の枠に縛られず、様々な攻めと守りを可能としている。
未だに有効打を与えられていないものの、それを与える可能性があるのは、『共食い』の側のみだ。
どうしたって、『聖域』では『共食い』を滅殺するのに火力が足りない。
さらに言えば……『共食い』の性質からして、『聖域』は絶対に状況を好転させることができない。
――均衡が崩れたのは、一瞬の事だった。
ついに『共食い』の牙が黄金を突き破り、『聖域』の左腕に攻撃を掠らせた。
掠っただけで、左腕の肉と、左手の小指と薬指が抉られ、捕食される。
今や『聖域』の肉体は魂そのもの……それを喰われるということは、一部を魂のを喰われることに他ならない。
そして、『共食い』にとって、魂の捕食とは……獲得だ。
『共食い』の体表を、黄金の揺らぎが包み込む。
紛いなき、『聖域』の力だ。
守り、蝕む金色の光を、『共食い』が放っていた。
その力は『聖域』の全力からすれば、ほんの一片……とはいえ、その分だけ両者の実力に差が開いたのは歴然たる事実だ。
『共食い』は強化され続け、『聖域』は消耗し続ける。
勝ち目など、あるわけがないのだ。
『共食い』が黄金を纏わせた爪を振り下ろす。
『聖域』は金色の領域を生み出すが、先程よりもずっと軽々と引き裂かれ、今度は右肩の肉を喰い取られた。
さらに、力の天秤が傾く。
もはや結末は遠くない。
終わりへと加速し始めた状況を――邪魔する者がいた。
「あまり兄様をいじめてあげないで下さい、戦火さん」
膨大な魂が『聖域』へと付与され、傷が治癒するどころか、先程までよりも強大な力を身に宿す。
気付けば紡が近くに佇み、己が保有していた魂の一部を『聖域』へと付与していた。
「兄妹水入らずの時間を邪魔するなど、無粋ですよ?」
圧倒的な存在感を持つ『共食い』を前に、紡は膨大な出血により血の気の失せた、蝋のような顔色で、柔らかな笑みを浮かべた。
そんな彼女を、『共食い』は見てすらいなかった。
目の前のご馳走が盛り直された事に歓喜し、そんな些事に構う暇などない。
「……やれやれ。これがあの方の魂の本質、ですか。全く見破れませんでしたね」
炎を操る魂装など、この状態を見てしまえば、なんと粗末な仮面だろうと苦笑を零し、紡は両手を持ち上げた。
「少し、蓋をズラさせて貰います」
紡を中心に魂が渦巻き、魂魄界への孔を覆う『共食い』の圧力をほんの僅か、押し返す。
その隙間から、一気に魂の澱が流入した。
「さあ、兄様……お好きなように」
それらを、紡は何の加減もなく、全て『聖域』へと注ぎ込んだ。
途端、『聖域』の身体が止まり、肌が蠢いた。
黒い肌が盛り上がり、人間としての輪郭が崩れて行く。
当然の事だった。
今、紡は『聖域』の魂に直接、澱を注ぎ込んでいる。
魂装者のように、魂に纏わせるだけではない。
『共食い』のように、他の魂を受け入れる為の性質も持たない。
これまでは、わざわざ一度、魂の澱を浄化することで得られる無色の魂を使う事で『聖域』本来の形を保たせることが出来ていたが、今注ぎ込まれているのは清廉な水ではなく、泥の塊……当然、穢れに染まらずにはいられない。
天道啓が変生する。
鈍い虹色に揺れる、どこか輪郭のはっきりしない三十メートルはあろうかという巨人が、大地を踏みしめた。
「ふふ……もう、私を置いて、いなくならないで下さい」
そう呟いた紡を見下ろし、魂の巨人は、片手をそっと差し伸べた。
紡が目を丸くした瞬間――差し出した手から無数の棘が伸びて、紡を串刺しにした。
「ぁ……」
微かな声を漏らした紡から、棘が引き抜かれた。
大量に溢れる自分の血を見てから、紡は小さく笑んだ。
「……私の命が欲しいのならば、捧げましょう。ええ、私は……満足ですよ」
笑顔のまま、彼女は地面に倒れた。
それを、『共食い』も魂の巨人も、気に留めない。
「――哀れね。妹を手にかけた事にも気付かず、あなたは消えるのよ」
空から、紅蓮が舞い降りた。
赤い雷を尾の様に引きながら、彼女――八束千華は、『共食い』と魂の巨人の間に浮かんでいた。
両者に挟まれ、千華に押し寄せる圧力は、並みの魂装者であれば一瞬で廃人になるほどのものだった。
だが、今の千華であれば十分に耐えられる。
とはいえ、耐えられる、というレベルの話だ。
未だ、力が遠く及ばないのは、千華自身が分かっていた。
それでもこうして割り込んだ理由は、彼女らしいものだった。
彼女らしく、破滅的で、どうしようもないほど救いのない思考だ。
「死者が我がもの顔で存在しているなんて、ふざけるな」
ふざけるな。
ふざけるな。
お前は一体、誰に許しを得てそんなふざけた様を晒している。
仮にこの世界に生きる、千華以外の全ての人間が死者蘇生を見とめても、千華だけは絶対に認めないし、許さない。
なぜなら、己は死者との再会など、出来ないのだから。
自分にはないものを他者が得ていることに対する、子供じみた八つ当たりだった。
そんな幼稚な感情で……彼女は、目の前の存在を殺すと決める。
どれほどの圧力も、その黒い想いの前では無意味だ。
そして、それを果たす為であれば、どのような事でもする。
そう……何を考えているかも分からない化け物に背を預けることすら。
「あんた、あいつをなんとかしたいんでしょう?」
千華は真っ直ぐ、『共食い』を見据え、言葉を投げかけた。
今の『共食い』――戦火啓は、自らの内に取り込んだ無数のサワリ、魂に、個としての人格を押し込められている状態だ。
人の言葉など、届きはしない。
そんなことを知らぬ千華は、『共食い』を見つめたまま、視線を逸らさない。
停止していたのは、ほんの一瞬のことだ。
だが、千華にしてみれば、それは百の季節が巡るほどの長さに感じられた。
それほどに、『共食い』との相対は、恐ろしくもおぞましいものだった。
『共食い』が、動く。
† † †
俺は、気付けばよく分からない場所に立っていた。
周りを見回せば、延々と続く炎に包まれた瓦礫の山……、その光景は、嫌でも十年前を想起させる。
そして、そんな中、俺の目の前にぽつんと一本の桜が生えていた。
こんな出鱈目な状況なのに、その桜を見ていると、心が落ち着く。
舞い散る花弁をすくおうと、手を差し出した、その瞬間だった。
「――やっぱり、人の魂って、簡単に変わるものじゃないね」
あの人の声が、聞こえた。
「私が必死に、あなたの心を死の国から引き戻そうとしたのに……それでもあなたは、この景色を選ぶんだね」
桜の木の陰……俺からは、肩が少しだけ見えるくらいのところに、彼女の姿を見つけた。
微かに揺れる栗色の髪を見て、懐かしさが込み上げる。
「それでも、こんな桜があるということは……少しくらい、私の言葉は、あなたに何か影響を与えられたのかな。もしそうなら、それが、いい影響だと嬉しいんだけどね」
「――もちろん、そうだよ」
素直な心で、そう言うことができた。
この地獄のような光景が、仮に、俺の心の中に広がるものだとして。
それでも、唯一存在する美しい桜が誰の為に用意されたものかなんて、決まっている。
「よく分からないけど……ひさしぶり、で、いいのかな?」
「ううん……私としては、実のところ、そうでもないのかな。ずっと傍にいたし」
「え?」
「まあ、それは今、重要なことではないよね」
もどかしさで、胸が一杯になる。
あの陽だまりのような笑顔を見たい。
今すぐ駆け寄りたい。
なのに……俺の脚はなぜか、ぴくりとも動かなかった。
「ここって……」
「聞かなくても、分かるでしょう?」
言い聞かせるような、優しい声色は、とても懐かしいものだった。
彼女の言う通り、俺はすぐに、ここを理解した。
「……俺の、内側?」
足元を埋め尽くす瓦礫は、魂だ。
俺が――『共食い』と呼ばれたサワリが食らった、魂の残骸に他ならない。
この場所は、俺の魂そのものだった。
「そうか……」
どうして今まで気付けなかったのかが不思議なくらい、すんなりと思い至った。
十年前に俺自身が求めた、魂の形を。
そして、遠季の口にしていた、よくわからない言葉の意味も知る。
「『黄泉軍』……あの世の軍勢、か。彼女もなかなか、的確に朔君を表したものだよね」
あの人が、どことなく悲しげな声色で呟く。
「余計な事をしてくれたよ。私が必死に隠して、忘れさせようとしていたのに……」
「ああ……そうだったのか」
少し考えれば、分かる事だ。
自分の魂だなんて、誰よりも自分自身が理解していないといけないものを、どうして知らなかったのか。
ずっとあの人が傍に居て、俺の目を覆っていたからだ。
「恨んでいるかな」
「え?」
思いもしなかった言葉に、間の抜けた声を漏らしてしまった。
「だって、朔君の大切なものを隠しちゃったんだよ?」
「恨んでなんかいない」
答えは、迷いなく出てきた。
「それが正しいと思って、そうしてくれたんだろう。なら俺が、あなたを恨むわけがない」
きっぱりと断言すると、あの人は小さな肩を微かに揺らした。
動揺か、あるいは嬉しさか。
……少なくとも、悲しんでいなければいいな、と思う。
「うん……、力を求めて、死者を重ね続けて玉座を築く……そんな生き方を、朔君にはして欲しくなかった」
「そっか……、でも、ごめん」
謝った。
謝るしかなかった。
だって……。
「うん。気付いてしまったら、もう目は逸らせないよね」
自分の魂からは、逃れられない。
ずっと、燃え尽きたと思っていた。
俺の復讐心はくすぶる程度に収まり、魂から願った復讐は捨てられたのだと、そう思っていた。
でも、違ったんだ。
こうして気付いて、思い知る。
自分の魂が示す形からは、逃れられないのだ。
破滅的な生き様を晒すように。
悲劇を求めるように。
全てを守る英雄譚を描きたがるように。
俺は、どこまでも高く、駆けのぼりたい。
力が欲しい。
力が欲しい。
あらゆる理不尽を退けるだけの力が欲しい。
今までは、喉の渇きを、その乾きを癒す方法を、忘れていただけ。
それが苦しいことで、慰める術があると知ってしまえば、止まれるわけがない。
長く砂漠を彷徨い、目の当たりにしたオアシスを前に、水を飲まずにはいられない。
「死者の塔を築くよ」
「やめて欲しいな」
あの人の姿はほとんど見えないけれど、聞こえて来るのは涙声だった。
そうだ。
こんな風に、感情を隠さない人だった。
悲しいことに泣き、苦しいことに泣き……嬉しいことに笑い、幸せなことに笑う。
そういう人だったから、俺は眩しく感じて、憧れたんだ。
「俺は、魂を食らう獣だ」
「違うよ」
違わないよ。
俺自身が、そうあることを、選んでしまったんだから。
「……朔君には、もっと、幸せな生き方があるはずなのに。そんな悲しい道を、苦しい道を、険しい道を、どうして行くの?」
「ごめん」
理由は言えない。
ここで何か、矜持を語れればあの人も納得してくれるのかも知れない。
譲れないものを語れば、安心させられるのかもしれない。
でも、そんなものはない。
日の巡りが止まらぬように、人が生まれ死ぬように……そういうもの、なのだ。
彼女だってそれは分かっている。
だから、泣くしかないんだ。
「……きっと、辛い道になるよ」
「仕方ないだろ……自分の選択からは逃げられないよ」
「そっか」
はらはらと舞う桜の花びらが、一瞬、俺の視界を遮った。
次の瞬間、彼女の姿は消えていた。
――なら、いつか、また会えるね――
その声を聞いて、なぜか、俺は胸を締め付けられるような苦しさに襲われた。
会えると言われたのに、悲しくて、悲しくて、たまらない。
あれだけ再会を望んでいたのに、会いたくないと、そう思ってしまう。
――敵として――
最悪の言葉を残し、彼女の気配が消える。
桜の花が、一斉に散った。
残った枯れ木が、腐ったように崩れて行く。
抑えを失ったかのように、瓦礫が蠢き、四方から津波のように、俺へと押し寄せてきた。
あっというまに瓦礫は俺を飲み込んで、高く積み上がって行く。
「――滅びの塔を駆け昇れ、我は黄泉竈食ひの獣なり――」
俺は十年越しに、自らの魂と向き合った。
† † †
千華は、自分がしようとしてる選択が正気の沙汰ではないと理解していた。
「そこの化物……」
彼女の瞳が捉えたのは、黒い獣……『共食い』だった。
「あいつが気に食わないんでしょう? 奇遇ね、私もよ」
言葉が通じるとは思えなかった。
それでも話しかけたのは、自分への確認でもあった。
逃げない。
気に入らないものを壊す、殺す、打ち崩す。
その為なら、どんな危険な賭けにだって手を出す。
「私は私で勝手にやるから、そっちはそっちで勝手にやりなさいよ。邪魔はナシで行きましょう」
馬鹿な提案だ、と千華は苦笑をこぼした。
それで、はいそうですか、と相手が頷いてくれるわけがない。
話して分かる類の存在ではない。
肌に感じる威圧感は、『共食い』がいつ自分を殺しに来ても不思議ではないと思わせた。
そうなっても、仕方ないし、構わないと、開き直る。
こうして、ここまで来てしまった以上、どちらにせよ引き返せないのだ。
今さら逃げようと背を向ければ、間違いなく『共食い』か魂の巨人によって屠られる。
であれば立ち向かうしかなく、仮に二体を相手取らなくてはならなくなったとして……それがなんだと笑う。
その時は、どちらも殺してやればいいだけだ。
支離滅裂な思考だった。
そんなことを出来る力がないのは百も承知で、だからこそ、『共食い』に通じるかも分からない声をなげかけているのだ。
二体を相手取る……そんな考えすらおこがましい。
そうなれば、千華は一瞬で両者の攻撃に挟みこまれ、消滅するだろう。
それを十分に理解しながら、千華はそんな自分の納得すら踏み越え、両者を上回り、殺す覚悟を持っていた。
「もし私の邪魔をしたら――殺すわよ」
千華が言い放つのと同時、『共食い』の前足が跳ね上がった。
振り上げられた爪が、振り下ろされる。
「……っ!」
千華には認識できない速度で放たれた爪撃は、千華の左右をすり抜けて、魂の巨人へと襲いかかった。
紙でも引き裂くように、魂の巨人の右腕が切り落とされる。
「――……はっ」
偶然か、必然か。
千華の言葉を聞いたというよりも、彼女の存在になど最初から気付いていなかった、気にも留めていなかった……そう考えるのが、一番自然だった。
だが、不思議と、千華は何の心配もなく、『共食い』に背を向ける事ができた。
声が聞こえらから。
「姿が見えないから、どこに消えたのかと思えば……そんな所にいたわけね」
返ってくる答えはない。
問いかけるべき言葉は、いくつも思い浮かんだ。
どうして。
なぜ。
しかし……それら全てを飲み込んで、千華は唇を歪める。
「アンタも覚悟しておくのね。すぐに追いついて、叩き潰してやるから」
背を向け告げた言葉に、『共食い』――否、『黄泉軍』から、苦笑いの気配が伝わってくる。
――仲間になんて言い草だ、お前は――
「ふざけた事を抜かしてるんじゃないわよ」
大鎌を構えた千華の視線の先で、魂の巨人は、腕の切断面からいくつもの程い管を伸ばし、落ちた腕を再びくっつけた。
「どいつもこいつも、私にとっては、壊す以上の価値なんてないのよ!」
『黄泉軍』と『伊邪那美』……死と冥府に縛り付けられた二人が、咆哮する。
「――滅びの塔を駆け昇れ、我は黄泉竈食ひの獣なり――」
「――黄泉比良の命、千を殺めも分かず――」
至高と滅亡が、魂の夜に幕を下ろす。




