禍を断つ聖なる光
血を糧として、願望成就の力が発動する。
空から一筋の雷光が、八面体にムカデのような触手が巻き付いたサワリへと降り注ぐ。
『人魚姫』の生み出した雷が秘めた威力は絶大と言う他なく、大気すらも喰い殺しながら、敵に襲いかかった。
だが、あっさりと弾かれる。
強大な力は霧散し、宙を微かな電火の残光が舞う。
それを見て、七海は歯噛みした。
「第二等級なら十はまとめて消し飛ばせるんだがな」
比べるな、とでもいうかのようにサワリが反応する。
生えている触手が一気に伸びて、鞭のように振り下ろされた。
「くっ……」
大きな風切り音を聞きながら、七海は全力で横に跳んだ。
一瞬遅れて、彼女のいた場所を触手が叩きつけ、地面が割れる。
そこで攻撃は止まらず、地面に深々とめり込んだ触手が、道路の舗装をめくりあげるようにして、横薙ぎに振るわれた。
迫る破壊の津波に、七海は無数の茨を生み出すと、触手へと絡みつかせた。
『人魚姫』の能力の副次的な生成物とはいえ、曲がりなりにも第一等級魂装者の展開した魂装の一部だ。
一本一本が強靭にして、鋭い棘は鋼鉄ですらバターのように抉る。
だというのに、髪の毛でも千切るかのごとく、触手は止まらず七海へと迫った。
とはいえ、七海の行為が完全に無力だった、というわけでもない。
僅かに生まれた遅れ、その隙に七海は地を蹴り、上空へと逃れた。
だが、そこにさらに二本の触手が振るわれる。
左右斜めから振り下ろされた攻撃に対し、千波は一瞬の迷いも無く……左手の小指をへし折った。
骨の折れる痛々しい音と、僅かに顰められる眉……その結果もたらされたのは、七海を中心に吹き荒れる暴風の刃だった。
見えざる刃は、迫っていた二本の触手を細切れにするだけに留まらず、眼下を薙いだ触手も、それどころか地面、建物、一切関係なく微塵に引き裂く。
当然、八面体のサワリの本体にも襲いかかった。
禍々しい虹色を湛えていた八面体に、いくつもの深い傷が刻み込まれる。
だが……その傷跡を埋めるように、内側から大量の触手が生えた。
一瞬のうちに数百本へと増加した触手が、七海へと殺到する。
「クソが……、出し惜しみしてる場合じゃねえか」
ついで七海は、左手の薬指から人差し指までを一息にへし折り、親指までをも乱暴にあらぬ方向へと捻じ曲げた。
だが、それに留まらない、
七海の左肩のあたりが蠢き、服の下から――否、皮膚の下から茨が生えて、左腕をきつく拘束する。
かと思えば……肘の関節があらぬ方向へと曲がる。
「づ、ぁああああああああああああああッッ!」
魂装の特性上、痛みには慣れているはずの七海ですら絶叫するほどの激痛が、左腕だけに留まらず、全身を無数の虫のように這いまわる、
左腕の完全欠損――それによって叶えられる奇跡は、果たしてどれほどのものか。
大気が脈動するかのように震えた。
「……消えろ」
極めてシンプルな、たった一言だった。
だが、あまりにも劇的な一言だった。
七海に迫る触手には何も起こらない。
止めるものも阻むものもなく、触手が七海に触れ――その瞬間、血のように赤い泡となり、ふわりと空へと舞い上がった。
まるで紙の上に鉛筆で書いた落書きを消すかのように、七海に触れた場所から触手は泡になっていく。
触手の先端から遡り、本体へと近づいていく。
そこで八面体から新しい触手が生えて、泡に侵食される触手を断ち切った。
だが、侵食は止まらない。
余裕をもって切断したというのに、触手の断面が泡立つ。
さらに、切断した触手も、泡に侵食され始めた。
己の触手を切断、触手を生成、切断、生成、切断……一瞬のうちに数え切れぬほど繰り返すが、どうしたところで、『人魚姫』の願望成就は止まらない。
消えろ。
その願いのままに、サワリが蝕まれる。
七海の悲劇が、巨大な魂の化け物を侵していく。
ついに、触手から本体の八面体へ、泡の侵食が及んだ。
瞬く間に八面体は泡に覆われるが、それを掻きわけるように大量の触手が飛び出し、己を突き刺す。
その触手も泡と化し、次第に質量が減り、圧倒的な魂の澱は無色に還元されていった。
最後の泡が、ふわりと空へと舞い上がる。
赤いしゃぼん玉は、小さな音を立てて破裂し、跡形もなく消滅した。
それを見送り、七海は荒れた息をゆっくり整える。
既に左腕は、痛みを通り越し、酷い痺れのような感覚と、最低の違和感に包まれていた。
「っ、ぁあ、あ、あ……」
掠れた声を咽喉から絞りだしながら、七海は皮膚を突き破って生えた茨を左腕全体に巻きつけると、強引に肘や指の向きを矯正した。
襲いかかる激痛に脂汗を流しながら、茨の力を使って、本来動かないはずの左腕を持ち上げ、拳を握るこむ。
ただそれだけの動作で、肉体が悲鳴を上げ、茨の棘は新しい怪我を刻み込んでいく。
これで、最低限腕としての機能は保障された。
「へっ、悪くねえ……」
嘘ではなかった。
七海は心から、悪くない、と口にしていた。
これで、一歩進むごとに針に貫かれる痛みに襲われた『人魚姫』と同等だから、と。
もう一度、軽く腕を振るう。
燃え上がる激痛が脳髄を突き刺し、頭の後ろで間違って繋がれた電線がスパークしているかのようだった。
奥歯が砕けるほどきつく噛みしめ、絶叫を抑えた七海の痛みが、彼女の腕が振るわれた延長線上にあるあらゆるものを、百メートル以上に渡って破壊する。
「準備運動は、これまでかぁ……?」
顔中に汗をかきながら、七海は空を見上げる。
歪んだ極光から降りそそぐ魂の澱は、その勢いを緩める気配がない。
故に――これで終わりではないのだ。
† † †
空を翔ける銀色の輝きが、怪魚のサワリの体表をびっしりと覆う剣鱗を数枚打ち砕いた。
高い攻撃力を持つ。
高い防御力を持つ。
高い俊敏性を持つ。
そして……空をも飛んでみせる。
万能。それこそ『勇者』の真髄だ。
だが、決して全能ではない。
「っ……!」
朱莉の加速が緩まり、宙を悠然と泳ぐサワリの頭上で制止する。
白銀に輝いていた鈍いは、ところどころがひび割れ、欠けている箇所すらあった。
そして、露わになった肌からは、決して少なくない量の血が流れている。
彼女の身についた傷は、例外なく鋭利な刃物による切創だ。
朱莉が攻撃し、その剣鱗を数枚打ち砕くのと同時、怪魚はまるで弾丸のように鱗を飛ばして朱莉を傷つけた。
しかも、剣鱗は失われるか破壊されると、すぐに再生してしまう。
結果――朱莉が敵に与えた損壊は皆無だ。
攻撃力が高い、防御力が高い、俊敏性が高い、空を飛べる……そんなものも、意味を発揮しない時がある。
純粋に、より頑強で、大きな力を持ち、速さで上回り、空を飛ぶことになんの利点も見いだせない……そういった相手に、万能またちまち器用貧乏……あるいは、無能に成り下がる。
「はぁ……はぁ……」
上空で剣を構える朱莉に、怪魚のサワリは警戒した様子を微塵も見せない。
「……とことん、舐めてるんだ」
苦笑しながらも、ゆっくりと呼吸を落ち付かせていく。
朱莉は一瞬のうちに加速すると、今度こそ両断するつもりで、聖剣を怪魚のサワリへと振り下ろした。
纏う銀光は人々を苦しめる魔を払う浄化の力、込めるのは一点の曇りもない慈愛の心だ。
澄んだ魂の刃は……剣鱗にあっさりと受け止められてしまう。
銀の火花を散らしながら、さらに剣に力を込める朱莉へと、怪魚の巨躯を覆う剣鱗が数枚逆立ち、放たれた。
全身のいたるところを狙った攻撃に、朱莉は怪魚の切断を諦め、一気に地表まで下降した。
放たれた剣鱗はそれぞれが意思でも持っているかのように、朱莉の後を追尾する。
朱莉は地面に触れるか触れないかのところを、這うように滑空し、頭上から落ちてきた剣鱗は勢いのまま、朱莉のつま先を掠める様に、地面に次々突き刺さる。
全ての剣鱗を振り払ったところで、朱莉は地に足をつけ、滑空の速度を地面に聖剣を突き立て抉りながら殺していく。
数十メートルに及ぶ跡ををつけながら静止した朱莉は、頭上を見上げた。
そこで、硬直する。
怪魚は、全身の鱗を全て逆立てていた。
それの意味するところが何か……考える前に、朱莉は盾を構えていた。
ありったけの力を込めた盾は眩い光を放ち、本来防げる範囲以上に、守りの力を発揮する。
次の瞬間、怪魚の前身から剣鱗が放たれた。
切断の暴威が、朱莉へと降り注ぐ。
正に剣の雨……逃げ場などなく、ただ防ぎ抜く他、生き残る術など存在しない。
「重、い……!」
盾の光に、無遠慮に無数の刃が叩き付けられる。
襲い掛かる衝撃に、今にも耀の膝は折れてしまいそうだった。
それでも、決して諦めない。
折れることは、勇者に許されないのだ。
剣の雨が止んだ時、そこにはひびだらけの盾を構えた朱莉の姿があった。
一拍置いて、盾が砕け散る。
小柄な身体がふらつき、朱莉はどうにか聖剣を杖代わりに立ち続けた。
仮に、ここが市街地であったなら、今の攻撃で大勢の人間が命を奪われて板だろう。
ここで朱莉が目の前のサワリを倒せなければ、そんな未来が実現してしまうかもしれない。
故に、勇者はより力を込めて、剣を握る。
満身創痍、肉体は既に限界を訴えていた。
だというのに、力はさらに高まる。
人を守る意思が、勇者の力だ。
その源泉が枯れる事などない。
「絶対に、ここで倒す……!」
鋭い視線が、頭上を泳ぐ怪魚を睨みつけた。
だが、それをあざ笑うかのように、怪魚は再生した全身の剣鱗を、また逆立てる。
絶体絶命と言うにはこれ以上ないほどの状況だというのに、朱莉は焦ることなく、静かに怪魚を睨み続けていた。
瞳の奥に宿るのは、義憤の炎だ。
想像する。
このサワリに蹂躙される人の暮らす街を。
想像する。
このサワリのせいで不幸になる人々を。
想像する。
あらゆる嘆きと悲しみを。
そして、その全てを否定した。
絶対に守る。
失うものか。
全ての人に祝福を。
聖剣が、これまでで一番強い輝きを放った。
光は渦となり、朱莉を中心に夜の闇すら払いのける。
「……来い」
勇者は怯まない、勇者は愚直に剣を振るう、勇者は勝利する。
それこそ、朱莉の求める『勇者』だった。
剣の雨が、再び降り注ぐ。
迫る無尽の刃に朱莉は剣を高く掲げた。
その動きだけで、光の作る並みが放射状に広がり、迫る剣鱗を次々に砕いた。
人を守る為、己の存在を貫く為なら……『勇者』はどこまでも高まる。
光の波を貫いた剣鱗も、朱莉に届く前に、光輝の渦にのみ込まれ、微塵と化す。
「例えどれほど微かな希望だとしても……貴様らには一つとして奪わせはしない!」
空気を震わせる怒号とともに、聖剣が振り下ろされた。
光が溢れだし、極大の刃となって、怪魚のサワリを飲み込む。
あまりの眩さは、まるで光が世界を二つに引き裂いたかのようだった。
全てを打ち払う聖なる輝きが晴れた後、地面に両断された怪魚の後ろ半身が落ちて、無色の魂となり虚空に還る。
宙に残ったのは、残り半分のみ。
怪魚の口が裂ける様に開き、甲高い悲鳴を上げた。
残ったヒレから汚れた虹色の霧が吹きだし、周囲を包み込んでいく。
虹色の霧にふれたものは、まるで腐るように溶け、崩れていった。
朱莉も例外ではない。
虹色の霧が白銀の鎧を歪ませ、肌を溶かし、聖剣に絡みつく。
だが……それら全て、剣の一振りで打ち払われた。
淀みは一瞬で清廉な大気へと変わる。
「『勇者』の剣は、不幸を断ち切る!」
叫び、朱莉が放つ聖なる断罪の輝きが、サワリを消滅させた。
誇るように、朱莉が聖剣を高らかに掲げる。
彼女の雄姿には、まるで神話の一幕でも切り取ったかのような、神々しさがあった。
だが……英雄譚の困難はまだ終わらない。
空から降り注ぐ魂の澱は、さらに降り積もり、現実界での形を生成する。
今倒したサワリと同等……あるいは、それ以上の気配がして、頭上を見上げれば、巨大な影が落下してくるところだった。
朱莉は口元の端を持ち上げ、悠然と剣を構え直す。
「構わないから……かかってこい! 私は負けないッ!」
守るべきものがこの大地に存在する限り、『勇者』に敗北はない。
そう信じ、貫く強靭な魂が、咆哮する。




