432.「百面相」
巌窟王……なにやら厳粛な響きである。目の前の老人がそんな呼ばれ方をしたことに違和感を感じてしまった。ニコニコと微笑むその姿は、親切なおじいさんでしかない。
「そちらの御仁は?」
巌窟王は裏表のない声で言う。ベンチでたまたま隣り合ったので、なんとなく話しかけてみたような、そんな牧歌的な調子である。
「えー、っと……」
思わず口ごもってしまった。どこであろうと、わたしは自分の名前を口にすべきではないのだ。ましてや、得体の知れない老人や、『煙宿』のナンバー2の前では。
「この方は、ただの旅人です。名前など大した意味を持ちません」
レオンは淡々と告げ、わたしを一瞥した。彼が助け舟を出すなんて意外だ――まあ、そんな思惑じゃないんだろうけど。『煙宿』の人間だからこそ、他人の素性には無頓着に違いない。そういえばココも『針姐』も、わたしに名前を聞こうとはしなかった。
「ホホ……確かに。名は過去の集積。要らぬ因果を呼び寄せる蜜じゃ。レオンも、世の成り立ちが分かってきたな」
柔らかな声色に似合わず、やけに難しいことを……。ヨハンが同じ台詞を言ったなら鼻で笑ってやるけど、この老人が口にするとなんだか示唆的に聞こえて仕方ない。
「さて……レオンよ。世間話をしに来たわけではあるまい」
巌窟王の目が、すっ、と細くなった。瞼の奥で、瞳がランプの灯りを反射する。髭をモサモサと蓄え、顔以外を薄汚れた布ですっぽりくるんだ姿には、どうにも似つかわしくない真剣さである。
「巌窟王。貴方に教えていただきたいことがあるのです」
跪いたままレオンが紡いだ言葉は流暢で、普段の彼とはまったく印象が違う。四六時中ぶつぶつと独り言の絶えない、コミュニケーション能力に重度の欠陥がある人間とは思えない。というか、そんなにきっちり話せるならわたしの言葉にもちゃんと反応してほしいものだ。
巌窟王は、じっと彼を眺めて、やがて重々しく唇を開いた。もはや、優しいおじいさんの雰囲気はない。なんだか賢者じみている。
「なにを知りたい」
「ここにいた人々はどこへ行ったのですか?」
「そんな当たり前のことを知りたいわけではなかろう?」
巌窟王は問いを重ねる。
「……では、正直にお聞きしましょう。ルーカスは何人連れてここを出ましたか?」
行き先は聞くまでもない。ココとビスクがマダムの住処へと連れられていったのは、もはや明らかだ。『倉庫』にいないということは、すでにルーカスが取引に出かけたことを物語っている。
「一人と一体。これで答えになるかね?」
「ええ……結構です」
一体、というのはビスクのことだろう。操り手であるレオンから離れたら、ビスクはただの人形になる。そんなのは道理だ。
ビスクが連れていかれたとすると、ココも一緒だったに違いない。
「もうひとつ……ルーカスは何時間前にここを出ましたか?」
レオンが問うと、巌窟王はくぐもった息を漏らし、肩を震わせた。それが老人の笑いであることに気が付くと、少しだけ薄気味悪くなった。
最初は優しいおじいさん。次は、賢者。そして今は――老いた悪魔のような雰囲気をまとっていた。目の前の老人をどう見ていいか分からない。そもそも何者かも分からないのだ。
ひとしきり笑うと、巌窟王は重々しく呟いた。「この場所では、時間など意味をなさない」
「……ルーカスをかばっているのですか? 貴方をこの牢獄に閉じ込めた彼を」
そういえばここには、どうして老人だけしかいないのだろう。労働力にもならないから、マダムに売らないのだろうか。いや、だとしたら牢に入れておく理由もない――。
頭を覆った疑問は、巌窟王の返事によって一気に吹き飛ばされた。
「ひとり息子を大切に思わない親がいるとでも?」
息子?
「それってつまり――おじいさんはルーカスの父親なの?」
思わずたずねると、老人は愉快そうに肩を震わした。通低音のような、低い笑いが石壁に反響する。
「いかにも。わしはあいつの父じゃ」
「なら、どうして牢屋なんかに――」
巌窟王の鋭い眼差しに射られ、思わず言葉が引っ込んだ。聞いてはいけないことを聞いてしまったのかも。怒っている雰囲気はないけど、明らかに機嫌は傾いている。もはや、優しいおじいさんの面影なんて欠片も感じられない。
「好奇心は――」言葉を切り、老人は顔を歪めた。半月型にカーブを描いた口。目尻には下卑た皺が寄り、鼻がわずかに膨らんだ。またも彼のまとった雰囲気はがらりと変わっている。意地悪が好きで好きでたまらない、嫌な老人と化していた。「――猫をも殺す。そうだろう、旅のお方」
聞き覚えのある言葉だ。どこで聞いたんだっけ……。
脳裏に、不健康な笑みが浮かぶ。へらへらと、反省なんて少しも知らないような笑い。ああ、そうだ。確か『最果て』で色々な物事に首を突っ込んでいったわたしを、ヨハンが揶揄したんだっけか。
ほとんど無意識に、一歩後ろに下がった。
「懐かしいかね? 旅のお方」
疑惑は確信へと傾く。巌窟王と呼ばれるこの男は、わたしの歩んだ道のりを知っている……? それも、かなり細部まで。ヨハンが口走った些細な言葉を再現するということは――。
「動揺するな。記憶を食われるぞ」
ぼそり、とレオンが耳元で囁く。老人には聴こえないくらい、小さな声……。
記憶が食われるとは、なにを意味しているのか。まさか、言葉通りじゃないだろう。忘却魔術をかけようとでもいうのだろうか。気付かれもせずに? いやいや、そんなこと――。
ありえない、とは言い難い。そもそもわたしは――とっても不本意だけれど――洗脳魔術に弱いらしい。ケロくんしかり、グレガーしかり、何度も辛酸を舐めさせられたのである。
と、不意にカラカラと爽やかな笑いが室内に響き渡った。それは長いこと壁に反響し、ランプの仄灯りを揺らす。
「悪く思わんでくれ。老人のたわむれじゃ。長いこと牢にいると、客人が嬉しくてのう……」
今度は好々爺。いい加減にしてくれ。
「嘘ね。だってここには、ルーカスの攫った人たちがいたんだもの。たとえマダムに売られるとしても、話し相手には事欠かなかったはずよ」
冷たい沈黙が流れた。老人は微動だにせずこちらを見つめている。そこにはもう、なんの感情も認められなかった。枯れ木のような無表情――それでいて、どことなく威圧的である。
サーベルに手を伸ばし、柄に触れた。ルーカスの父というだけで、警戒すべき相手には間違いない。彼はずっとこの場所で、息子の攫ってきた人々を眺めて暮らしていたんだろう。その百面相のような雰囲気も、多くの感情を吸い込んで養った特技かもしれない。
「やめておけ」とレオンがぴしゃりと言う。
彼には彼の考えがあるんだろうけど、だったら共有すべきだ。いい加減、秘密主義者にはうんざりしてるんだから。
「大人しく、ルーカスがここを出た時間を教えて頂戴。彼の行き先も、ちゃんと自分の口から話して。でないと――」
「斬るのか? こんな非力な老人を?」
「安っぽい煽りをするのね、巌窟王さん。悪いけど、いつまでもあなたに付き合ってる時間なんてないのよ」
老人は一笑に付し、レオンを一瞥した。「ところが、レオンはそうではない。わしの機嫌を損ねれば、台無しになることを知ってるからじゃ」
台無しって、どういう――。
老人は言葉を続けた。
「お前さんがたは、ルーカスから娘を奪いに来たのだろう? ココと言ったか……騒々しい娘じゃ。まあ、人格は悪くない。わしもすぐに気に入った。……ときにレオン。お前さんは、アテが合ってここまで来たんじゃろう? たとえ小娘が出発したあとでも、ルーカスに追いつける方法があるからな」
「回りくどいことを言わないで。いったいあなたになにが出来るというのよ」
老人は「ホホ」と愉快そうに笑う。そういえばこの笑い方も、なんだかルーカスに似ている。
レオンは依然として黙っていた。なにを考えているのかもさっぱり分からない。本当に巌窟王をアテにしていたというのなら、次のプランを熟考しているのだろう。
やがて老人はぺろりと唇を舐め、たったひと言、とんでもないことを言い放った。
「ここの地下には、マダムの領地まで続く通路がある。旅のお方もよく知る、魔術式の通路じゃ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『レオン』→ビスクの婚約者。人形術を得意とする魔術師。独り言が多く、コミュニケーションに難がある。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~②不夜城~」』にて
・『ココ』→『煙宿』にある針治療の店『針屋』に居候する女性。気さくで明るい。魔術の才能があり、得意の裁縫と組み合わせ、魔力を織り込んだ衣服を作る。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『ビスク』→レオンの婚約者であり、ポールの娘。故人。ポール曰く、控えめで優しい性格とのこと。彼女の死後、レオンはその姿を模した人形を所持するようになった。彼は人形もまたビスクと呼び、大切にしている。レオンが傷付くと、人形は彼の魔力を吸い上げて駆動する。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~②不夜城~」』にて
・『針姐』→『煙宿』で針治療の店を営む、本名不詳の女性。派手な着物姿。語尾の上がる独特の喋り方をする。ザッヘルの妻。食後に、煙管で水蜜香を一服するのが好き。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だった男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。詳しくは『205.「目覚めと不死」』にて
・『忘却魔術』→記憶を喪失させる魔術。短期的な記憶に限り、消せると言われている
・『洗脳魔術』→魔術の分類のひとつ。読んで字のごとく、対象を洗脳するための魔術
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる土地。正式名称はハルキゲニア地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて




