427.「墜落少女と夜明けの梟」
わたしは何時間かけて、この塔を登ってきただろう。遥か地上に広がる町並みは薄い霧が幾重にも覆って、雲の上にいるみたいだ。そんな摩天楼から落ちたらどうなるかなんて、酔漢でも理解出来る。
視界が、スローに沈んでいく。塔の縁に立ち、わたしを見下ろすビスク。彼女の背後に広がる暁。多分この瞬間、わたしの心臓は鼓動さえ忘れていただろう。全身のあらゆる感覚が急激に失せ、目の前の景色だけが圧倒的な現実味を帯びていく。
思考が、空白で膨れ上がる。死――その一文字さえ、頭に浮かぶだけの隙間がなかった。
「お嬢!!!」
その声は、ひび割れたノイズにしか聴こえなかった。きっと、わたしの絶望的な状況がココの声さえ歪めてしまったのだろう。けれど、彼女の声に籠った感情だけは、真っ直ぐに届いた。
刹那――左腕に鈍い痛みが走った。そして、致命的な落下が止まる。
「はぁ……はぁ……」
息が上手く出来ない。わたしは咄嗟に塔の縁に手をかけ、腕一本で全身を支えていた。段々と感覚が戻ってくる。心臓は破裂しそうなほど鼓動して、全身が震えていた。
あとコンマ一秒、手を伸ばすのが遅れていたら――今頃、死の約束された空の旅に出ていただろう。ぞっとするどころの話ではない。なにもかも終わりになってしまうところだった。
金属音が頭上で鳴る。
そうだ――まだ安堵出来るような状況ではない。絶体絶命の立場にいることに変わりないのだ。見上げると、刃を振り上げるビスクと目が合った。今や空は、異様なまでの紫に染まっている。鷹かトンビか分からないが、大きな鳥が空の深みを駆け抜けていった。
まだ助かってない。もっと言えば、ビスクとの戦闘だって決着はついていないのだ。どう足掻いても絶望的なことには変わりないけれど……。
銀の刃が、生まれたての太陽を反射して煌めいた。鋭利な刃先が宙を裂き、真っ直ぐわたしの左手――文字通り命を繋いでいる、たったひとつの希望に振り下ろされる。
「うっ……く」
剣の動きよりもわずかに早く、右手を塔にかける。そして、左手を離した。手は間一髪のところで切断を免れたが……甲に走った鋭い痛みは、窮状を否応なしに突きつけていた。段々と、お腹の痛みも強くなっていく。
「――!!」
声にならない叫びが、喉の内側で反響する。右手が潰されるような衝撃。ビスクは純白のヒールで、わたしの指先をぎゅっと踏みつけたのである。人間的な仕草――と一瞬思ってしまったが、違う。彼女はヒールでわたしの指を固定しただけなのである。ゆっくりと引いた刃。その向かう先が、わたしの支えである右手なのは明らかだ。
サーベルを塔に置き去った今、抵抗する手段なんてない――。
「ビスクやめて! お願い! お嬢は大事な友達なの!!」
たった数日の付き合いだったが、そう言われると涙が滲んでくる。ココ、ありがとう。
諦めが胸の内側を覆ったが、最後の瞬間はなかなか訪れなかった。ビスクは刃を振り上げたまま、静止していたのである。相変わらず、人形らしい無表情で。
ココの言葉に反応している……? そういえばココが現れてビスクの名を叫んだときも、その動きは止まったっけ。いったいどういう理屈かさっぱり分からないけれど、これはひとつの希望だ。彼女の凶刃さえ止まれば、生還の道も見える。
しかし、それもわずかな間だけだった。ビスクは躊躇いを断ち切るように一気に刃を引き、そして――。
「駄目!!」
右手にかかっていた重みが、ふっ、と消えた。がくん、とビスクの身体が前傾する。彼女の腰には、華奢な腕ががっしりと抱き着いていた。
「ココ!!!」
どうしてこんなことになってしまうんだろう。心に、黒々とした後悔が広がる。ココとビスクの身体が、宙に躍り出る。
――道連れなんて、駄目だ。
必死に伸ばした手は、しかし、ココに届くことはなかった。ビスクのドレスさえ、指にかすりもしない。落ちゆくココは、涙を浮かべ、ガタガタの笑顔を作っていた。
腕の痺れも、腹部の痛みも、意識から遠ざかっていく。胸を押し潰すような感覚だけが、唯一の現実だった。
駄目……こんなの間違ってる。わたしを助けるために、ココがビスクと一緒に落ちるだなんて、正しくない。
落下する二人の姿はみるみるうちに小さくなっていく。
不意に、巨大な羽ばたきが聴こえた。直後、黒い影が滑るように二人へ迫る。
鳥――ではない。真っ黒なマントを羽織った人間である。それは猛烈なスピードで二人に接近し、やがて、マントを広げて激突した。
「え……」
なにが起きたのか分からなかった。マントの人間は、確かに二人とぶつかったはずである。しかし、どこにも二人の姿がない。マントで覆われ、そして、消えてしまったのだ。
助かった……のだろうか。
二人に激突したはずの何者かは、マントを広げて、さながら蝙蝠のごとくバサバサと高度を上げる。
カツン、と塔で靴音がした。見上げると――レオンが下を覗き込んでいる。その瞳はわたしには少しも向けられていない。ひたすら、マント姿の影を凝視している。
状況が見えない。ココはどうなったのだろうか。無事でいてくれるならいいけど……すべては、頂上目指してゆったりと羽ばたく謎の人間次第に思えた。
やがてマントは、わたしの真横を通過し、ちょうどレオンと対峙するかたちで虚空にとどまった。空中に屹立したその靴裏に、確かな魔力が宿っている。
近付いてはじめて、そいつがずんぐりした男であることに気が付いた。飛べていることが不思議に思えるくらい鈍重な体型なのだが、理屈ははっきりしている。彼の羽織ったマントには、質の高い魔力が漲っていたのだ。
おそらく、ルイーザの箒と同じく、空中を移動するための魔道具なのだろう。
それよりもなによりも、彼の顔から目が離せない。口から上を覆い隠すようにかぶった銀色の仮面――目を細めた梟によく似た仮面をしている。
「ごきげんよう、紳士淑女の皆々様がた」彼は妙に甲高い声で、愉しげに言い放つ。「取引のために飛んで来てみれば、ホッホッ、妙齢の女子を二人拾ってしまいました。ホッホッ、儲けものですな。ときにレオン氏よ、約束の人材はどちらにいらっしゃるので? ホッホッ、まさか、塔から叩き落としたわけではあるまい」
そうか、こいつが人攫いか。そういえば、連中は梟の面をつけているんだっけ。
……にしても、腹立たしい物言いだ。二人を拾っただなんて。
レオンは青ざめた顔で返す。「片方は、約束の人材だ。故あって落ちた」
「落ちたァ? ホッホッ、舐められたものです」
「……陳謝しよう。だが、ビスクは返却を要求する。あれは、提供する予定ではない」
小太りの男は、首を九十度傾げた。
「映し人形のことかね? ホッホッ、先ほども言った通り、あれは拾い物……ワガハイが回収しなければ、永遠に失われていた代物です。さぁ、本来の品物を受け取りましょうかね。レオン氏よ、我々は上質な人材を二人、要求していたはずですな? どちらにいらっしゃるので?」
沈黙が広がる。やがてレオンはわたしを一瞥した。
「その女だ」
なにを言ってるんだ、レオンは。けれど、提案としては悪くない。ココが攫われたのなら、わたしも一緒に攫われることで救出出来るかもしれない。
「ホッホッ! 塔に貼り付いてるお嬢さんだってぇ? ホッホッ! 馬鹿馬鹿しい! ワガハイは上質な人材を求めているのですよ。魔力のない小娘なんぞ掃いて捨てるほどいる。マダムの商品にはならない」
なんだかものすごく馬鹿にされてる気がする。腹立たしいけれど、左手で全身を支えている状況では啖呵を切る余裕もない。
「残念だ、ホッホッ、実に残念」と、梟面は言葉とは裏腹に、随分と愉快そうに言い放った。「約束を違えるなど、あってはならぬこと。ホッホッ、まぁ、都合のいい拾い物をしたので、ワガハイは愉快です。愉快愉快、実に愉快! しかぁし……この町は不愉快ですな。……それでは紳士淑女の皆様がた! サヨナラです、永久に」
一方的に言い残すと、男はマントを翻して飛び去って行った。
紫に染まった空に、小太りの影が小さくなって、やがて消えた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ルイーザ』→ニコルと共に旅をしたメンバー。最強と目される魔術師。高飛車な性格。エリザベートの娘。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『魔女の湿原』~」』参照
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』にて




