418.「煙を超えて」
ぞわぞわと、妙な寒気が全身を這っている。立っているのが気怠い。横になれたらどれほど気分がいいだろうか。
けれど、駄目だ。それはこの勝負の負けを意味する。
ポールはニヤニヤと腕組みをしてこちらを眺めていた。その目に浮かんでいるのは悦楽である。
彼の口にしたことを必死で整理した。今わたしがこんな体調になっているのは、水蜜香が原因である。この部屋の床には微細な穴が空いており、その下でずっと水蜜香が焚かれていた、というわけだ。強烈な香りを誤魔化すために、ポールはこれ見よがしにパイプを吸っていたのだろう。
ふと、気が付いた。そういえばポールは、この勝負のはじめに『我慢比べ』と言っていたっけ……。
なるほど。水蜜香に満ちた部屋に閉じ込められているのは、彼も同じだ。過剰摂取にどれだけ耐えられるか――もとより彼は、この馬鹿げた勝負に持ち込もうとしていたに違いない。
「それにしても、大人しく聞いてくれて助かったよ。おかげでお前は、サーベルを拾えないくらいクラクラになってやがる」
悔しいが、彼の言う通りだった。思えば、眩暈を感じたときにおかしいと気付くべきだったのだ。同じ空間でポールが吐き出した煙ごときで、こちらの体調に変化が起きるなんておかしな話じゃないか。けれどもそのときは、彼の話に意識を向けて深く考えなかった。繰り広げられた長話さえ、きっと彼の戦術なのだろう。
「ひ……卑怯者……!」
「卑怯? 笑わせるんじゃねえよ。俺はルールを破っちゃいねえ。話に気を取られたお前が悪いんだよ、ド素人め。いいか? 俺は是が非でも勝たなきゃならねえんだ。うちの若えのが束になったって敵わねえ奴は、こうやって煙漬けにしてでも黙らせる必要がある。それによぉ、俺だって条件は同じなんだぜ?」
がくん、と足の力が抜け、思わず足踏みした。少しでも気を抜いたら、崩れ落ちてしまう。
悔しい。なんだか、涙が出てくる。それなのに、ちっとも不快感がない。それどころか――決して認めたくはないことだったが――ときおり意識がふわふわとして、なんともいえない気持ち良ささえある。
「どうだい? いい気分だろ? 頭のなかで音楽が鳴ってるか? 神の声は聴こえるか? 脳神経がスパークして、感情が抑えらんねえだろ?」
「そんなことない!」
びりびりと、自分の声が鼓膜を揺らす。なんて分かりやすい強がりだろう。
「そうツンツンするなよ。素直になればもっと気持ちいいぜ? なんなら、肌に触れてやろうか? そうすりゃ、一発で天国に昇れるぜ」
冗談じゃない。そんな誘惑に負けたら、なにもかも終わりだ。この勝負だけの問題じゃない。一過性の快楽に溺れてしまうようじゃ――。
あれ。わたしはポールに勝って、『針姐』とココを救い出して、それから……どうするんだっけ。
思考が乱れ、記憶が混濁する。なのに鼻を通過する香りはやけに鮮明で、肌は痛いほど敏感になっていた。足が震え、両腕で自分自身をぎゅっと抱きしめてしまう。身体だけが別の意思を持ったかのように、無意識に動いている。
「もう立ってるのも限界だろ? いいよ、座っちまえ。理性だってギリギリだろ? 楽になりゃいいじゃねえか」
ポールは半ばうんざりしたように言う。彼の口にした言葉の意味さえ、よく分からない。なにか考えようとするたびに、頭が拒否反応を起こしているみたいに思考が霧散する。
わたしは今、さぞや間抜けな顔をしていることだろう。もう身体のどこに力が入っているのかさえ、はっきりしない。今にも挫けそうな足を、なんとか維持しているだけ……。
「あなたはどうして……立ってられるの?」
「あ? ああ、そりゃ簡単なことだ。俺は水蜜香に耐性があるんだよ。そのせいで、ガッツリ吸わねえと天国の門を叩けねえ。いけずな神様だよ」
耐性……。ずるいじゃないか、そんなの。自分だけ圧倒的に有利な勝負じゃないか。
そういえばこれは、相手を床に倒したほうの勝ちなんだ。なら、身体の動くうちに状況を打破しなきゃ……。
踏み出した足が、ぐにゃりと膝から折れる。バランスを崩し、慌ててもう一歩踏み出したが、足がもつれ――。
「おいおい、『ほろ酔い桟橋』の阿呆な酔っ払いよりひどいぜ、お前」
言われなくても分かってる。転倒のリスクを冒してまで踏み出した足だったが、ポールとの距離を一メートルすら縮められなかった。たかが五メートルが、こんなにも遠いものだなんて……。
「あんまり頑張るなよ。見てて辛くなっちまう」
「……うるさい」
「なんだ、口も元気ねえじゃねえか。ま、そりゃそうか。この部屋の水蜜香の濃度はよぉ、割とヤバいことになってるんだぜ? ウブな田舎娘を放り込んでみろ、あっという間にブッ壊れた娼婦になっちまう」
無心で一歩、踏み出した。唇を噛み、意識を保ちながら。
「なんだってそんな必死になるんだよ。まったく理解が出来ねえ。そんなに二人を助けてえのか? 『煙宿』が壊されるとしても?」
一歩、また一歩と進む。そのたびに身体が大きく揺れ、持ちこたえるにもかなりの体力を使った。
「俺はこの勝負じゃ負けなしだ。いいか? お前に勝ち目があるわけねえんだよ。だってそうだろ? お前はフラフラで、俺は多少マシに動ける。胸倉掴んだって、今のお前じゃどうにも出来ねえだろうが」
薄く、浅い呼吸。確実な一歩。それだけを頭に強く擦り込む。気を張って歩いているはずなのに、全身がどろどろに溶けそうだ。頭のなかで、誘惑が叫びをあげている。もう諦めろ、休め、床に転がれば楽になれる、理性なんて飛ばしてしまえ、と。
ノイズだ。全部。
たとえわたし自身の強い欲求だとしても、目的に反する声になんて、耳を傾ける価値すらない。
目的……目的? 考えはじめると途端に見えなくなってしまう。ただ、なにかがわたしを駆動させている。誘惑を振り切る強さで。
「それ以上近寄るんじゃねえ! いいか? さっきも話した通り、俺は『煙宿』を守らなきゃなんねえんだ! これを最後の犠牲にしなきゃ、ビスクが余計惨めになっちまう!」
さらに踏み出す。ポールとの距離は、手を伸ばせば届きそうなほど近付いていた。
ここから自分がなにをすべきなのか――分かっている、と言うと嘘になる。ただ、どう動くべきかは本能が教えてくれた。わたしはずっとお節介焼きだったし、それは簡単には変わらない。つまり……こんな状況にあってもわたしはわたしでしかないのだ。
ふらり、と足の力が抜けて前傾する。今力を籠めるべき場所は、理解していた。
「おい! なにしやが――」
倒れ込もうとしたわたしは、ポールのシャツに必死でしがみついた。本当は胸倉を掴みたかったけれど、贅沢は言えない。
ポールが語った言葉。そこに嘘は含まれていない。状況的には決して信用すべきものではなかったが、なぜか、そう確信出来た。多分、これも水蜜香の錯覚なのだろう。それでもいい。
わたしの手を離そうともがくポールを、じっと見据えた。
「わたしが、その連中をなんとかする。『針姐』も、ココも、『煙宿』も、あなたも――全部全部救う」
感情の針がおかしくなっているらしく、涙が止まらなかった。ただ、言葉に偽りはない。人攫いを排除しなければ町に平和が訪れないと言うのなら、そうするまでだ。
ポールは抵抗をやめ、ただひたすら絶句していた。
どのくらい経ったろう。やがて、わたしは倒れ込んだ。わざと仰向けに倒れたポールに引っ張られて。
◆改稿
・2018/09/21 誤字修正。




