417.「すべては煙宿のために」
ポールの語った悲劇が、部屋に漂う甘い香りと交わって、わたしの心を怪しげに揺らしていた。たとえ『過去をしまっておける花瓶』があったとして、人攫いをしていいだなんてことにはならない。そんなこと、彼にも理解出来ているだろう。これはあくまで、ポールの歩んだ経緯でしかない。
「話はこれで全部かしら?」
正直なところ、これ以上聞いている気にはなれなかった。それは、『針姐』とココを救い出そうとする焦りからではない。
ポールの吸った水蜜香がわたしにまで影響しているのか、なんだか眩暈がするのだ。『煙宿』のボスが招いた悲劇には関心があったものの、今は冷静な判断が出来そうにない。ときおりポールの表情が、白く濁りさえするのだ。
視界が落ち着かない。なんだか、入眠前の感覚に似ている。
「いや、まだあるさ。ここからが大事だったりするんだ。おいおい、ちゃんと聞いてくれよ」
ポールは両腕を広げ、呆れたように言う。
「分かった、聞く……だから、水蜜香を吸うのをやめて頂戴。気分が悪いわ」
実のところ、気分は決して悪くなかった。それどころか、ふわふわとした心地良ささえある。だがそれは、危険信号にほかならない。身体に甘美な煙が入り込んでいる証拠だ。これ以上彼が吸うようなら、話どころではない。
「オーケーオーケー。そうならそうと先に言ってくれよ。ほら、もう灰を落とした。これで大丈夫。……ハハ。それにしても、副流煙でクラクラきちまうなんて、お前は耐性がないんだな」
「うるさい……早く続きを聞かせて」
もうこれで、水蜜香に身体を侵されることはない。とにかく、落ち着いて彼の話に耳を傾けよう。決して油断しないように。
ポールは一拍置いて、続けた。
「『煙宿』の人間と引き換えに、俺が宝を手にしたところまで話したな。その後、定期的な人材提供はしっかりと続けたさ。お前の知る通り、ほかの奴らには『神隠し』だなんて嘯いてな。それが破綻したのは、つい最近のことだ」
酒場で男たちが噂していたのを思い出した。確かポールは『取引をやめたい』と相手に持ちかけたはず。
「俺だって人間だ。人身売買みたいなことを続けるのは、良心が痛む。けれど、花瓶を失うなんて考えられない。いいか? その花瓶は俺にとっちゃ、娘と会えるたったひとつの手段なんだよ。たとえ記憶をなぞるだけの道具だとしても、俺には、命よりも大事なものなんだ」
記憶。ポールはそれに縛られているだけではないだろうか。記憶が命以上に大切だなんて……。
否定が心に浮かんだが、すぐにかき消えた。理由は、分からない。なぜだか彼への共感のようなものが、じわじわと胸を覆っていくのだ。一連の話はすべて嘘かもしれないのに、どうしてか心を打つ……。
「ある日俺は、いつものように花瓶の世界に入り込んだ。けれど、なんだかその日は集中出来なかったんだ。こう、胸に靄がかかったみたいに。……多分、場面が悪かったんだな。その日なぞった記憶は、ビスクの誕生日の場面だったんだ。十三歳の。すっかり忘れていたけどよぉ、俺はその日、ビスクと喧嘩したんだ。滅多に怒らないビスクが、あのときばかりはカンカンだった」
「……どうして?」
「ん? ああ、簡単な話さ。俺が取引よりも、ビスクの誕生日を優先したからだよ。実際大事な仕事だったが、一人娘のバースデーには代えられない」
言って、ポールは額に手を当てた。そして、ため息とともに続ける。
「花瓶を覗くまでは、些細な問題だと思ってたさ。十三歳にもなりゃ、一丁前に親に反抗して見せるだろ? まあ、そんなモンだろうと思ってたわけだ。……正直に言うと、俺もカリカリしてたよ。だってそうだろ? ご馳走を用意して祝ってやろうとしたのに、却って不機嫌になるなんて不条理だ。そんなわけで、何日か口を利かずに過ごして、なあなあでまた元通り。それだけだ。だが俺は――娘のことをはき違えてたことに、ようやく気付いたのさ」
ポールはじっとこちらを見つめて、浅い呼吸を繰り返している。
どうにも頭がぼんやりしていたが、耳は確かだ。彼の語る誕生日の情景まで思い描けるくらいに。
「なにを気付いたの?」
「そう焦るなよ。ちゃんと話してやる。……俺はその誕生日を、花瓶のなかで繰り返した。何度もその記憶に沈み込んで、娘のことをしっかりと見つめたわけさ。俺が得意になって、ビスクのために仕事をひとつすっぽかしたことを冗談っぽく言った瞬間、あいつ、泣いたんだぜ。こう、きゅ、っと唇を尖らせてよぉ……。で、こう言ったんだ。『そんなふうに祝ってもらっても嬉しくない。パパは煙宿のために、一生懸命働いてよ』。……生意気な台詞さ。けど、心からビスクは言ったんだ。あいつは俺に、この町を守って欲しかったんだろうよ。あいつも馬鹿じゃねえ。ここで暮らす奴らが、ほかのとこでは生きられねえくらいどうしようもないクズばかりだって知ってたのさ。知ってて、愛してもいた。だから、この町のボスが、家族の笑顔見たさに仕事をおろそかにする姿なんざぁ、見たくなかったってわけ」
彼の口から語られるビスクという少女が、鮮やかな輪郭を得て、想像のなかに現れる。ビスクは心の底から、この町を大事に想っていたのだろう。『針姐』やココがそうであるように。
「で、馬鹿な俺は、ようやくビスクの考えに気付いたわけだ。あいつが今の俺を見たら、きっと失望する。俺は娘に会いたいがために、あいつが最も嫌うことをしてたってわけだ。『煙宿』の奴らを犠牲にしてまで娘を優先するなんて、誰も望んじゃいない。俺のエゴだったんだ。ようやく……ようやくそのことが分かった」
彼の虚ろな瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。いくつも、いくつも。それを演技だなんて思えない。というより、もはや彼の言葉を疑う気なんて起こらなかった。
共感の波が次々と押し寄せ、心を満たしていく。やがてわたしは、頬に熱い湿りを感じた。
「……おいおい、泣くなよ。そんなつもりで話したんじゃねえんだ」
ポールは涙をこぼしながら笑う。なんだかその強がりに、余計に心を揺さぶられた。
「いいから、続けて……!」
肩が震える。涙がとめどない。
どうしてこんなに、感情を動かされるんだろう。
「オーケー……。で、俺は決めたんだ。花瓶を奴らに返そう、ってな。ビスクのためにエゴを捨てるんだ。勢い込んで連中と話をしたが、奴ら、認めやがらねえ。どうしても人材が欲しい、ってことだろうよ。俺も退くわけにはいかなかったからよぉ、強気に出たんだ。そしたら連中、『煙宿』を潰すなんて言いやがる。そりゃ、さすがに困る。で、どうにか妥協点を見つけたのさ。連中はどうも、飛び切り上等な人間を欲しがってるようだった。事情は分からねえがな」
「それで、『針姐』とココを渡して、手を切るように約束したのね」
「ああ。なんとか、ねぇ。かなり雲行きは怪しいけどな。実際、二人を渡したところで手を引いてくれる保証はねえよ」
なんだそれ。じゃあ、結局出たとこ勝負じゃないか。
「そいつらは、どんな奴なの」
「梟の仮面をつけた妙な奴らさ。詳しくは知らねえ。けどな、嗅覚で分かるんだ。とびっきり危険で、容赦のねえ奴だって。連中は、元からかかわっちゃいけない奴らだったんだ。だが、今さら悔いたって仕方ねえ。二人を最後の犠牲にすることだけが、今の俺に出来る最大の罪滅ぼしなんだよ」
罪を雪ぐために、さらなる罪を犯す。そんなことがあっていいだろうか。ほかに方法はなかったのか……?
それにしても、梟の仮面だなんて聞いたこともない。王都とは無縁な連中なのだろう。
「……これで話は終わりだ。さて、お前はどうする?」
ポールは試すような口調で投げかけた。
どうするもこうするもない。今の状況を許しておけるほど、わたしはリアリストではないのだ。そして二人には、恩がある。
「二人を助け出すわ」
「そうかい……なら、勝負だな。おっと、一分じゃきかないくらい時間が経っちまったなぁ。お前、案外気が長いんだな。助かるよ」
助かる? なんのことだ。
ポールの言葉を深く考えないようにして、サーベルの切っ先を持ち上げ――。
「え、あ……」
カラン、と金属音が響き渡る。わたしの手からすり抜けたサーベルが、床で跳ねた。
おかしい。手に力が入らない。
それどころか全身に、一定以上の力を込めることが出来ない。歩くことさえ難しいくらいに。
体調が悪いわけではない。なんだかふわふわと、夢心地の気分だ。
「いい顔になってきたじゃねえか、お前。長話に付き合ってくれてありがとよ。どうだい、水蜜香は? いい気分だろ? この部屋は特殊でよぉ、床下で水蜜香を焚けるようになってるのさ。で、小さな小さな穴を通して、気持ちいい煙が昇ってくるってわけ。――ハハ! いいねえ、お前、いい顔だよ!」
今さら口元を覆ったところで、なんの意味もなかった。
◆改稿
・2018/09/21 誤字修正。
◆参照
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




