411.「これはブドウジュースですか?」
人攫いのビジネス。なんてどす黒く、卑怯で、野蛮な響きだろう。金や物で人をどうこうしようだなんて反吐が出る。そして、ビジネスという名目で悪の泥濘に群がる連中が存在するという事実。
許せない。
「許せないんだよぉー!」
大声を上げると、多少すっきりした気分になった。けれど、胸の奥がムカムカとしてとめどない。声を張り上げるたびにこちらを振り返る酔漢も気に入らないし、そこここで漏れ聞こえる引き笑いも不愉快だ。
そしてなにより――。
「なんでぇ、ヨハンはぁ、そんなにぃ、冷静なのよぉ!」
酒場の丸テーブル越しに、彼は明らかな苦笑を浮かべる。困惑の二文字が頬にべっとりと貼り付いていて、なんとも腹立たしい。
「大人ぶるなぁー!」
「わ、分かりました、お嬢さん。頼むから落ち着いてください」
落ち着けるわけない。身体が上気し、頭がふやふやと茹だったみたいになってるんだ、こっちは。それもこれも全部ヨハンのせい。情報収集の名目でまた酒場に繰り出して、ぶどうジュースを頼んだつもりが……どうしてかこうなっている。さっぱり分からない。分からにゃい。ジェニー、元気かな。
「シンクレールさん……これでは有益な情報なんて集められそうにありません。どうにか連れ帰ってくれませんか?」
「それって……クロエと二人きりでひと晩過ごすってことか? さ、さ、さすがの僕も心の準備が――」
「ああ、シンクレールさんも酔っ払ってましたか。これはもう、どうしようもないですな」
「お前って奴は、そうやってすぐに人を馬鹿にしやがって……! 僕は酔ってないぞ! 断じて酔っていない! その証拠に、宙がえりだって出来るぞ! そーれ」
「ちょ、馬鹿な真似はやめてください! ……まったく。私は頭が痛くてたまりませんよ」
ヨハンは額に手を添えて俯く。彼が困ってる姿は、見ていて気分がいい。参ったか悪党め!
「ああ、全部私が悪かったんです。ぶどうジュースがワインの隠語だなんて、誰も分かりませんよ……」
「わたしはワインなんて呑んでないですぅー。これはぶどうジュースですぅー」
深紅の液体が並々と注がれたグラスに手を伸ばすと、一瞬早くヨハンに回収されてしまった。
意地悪!
「お嬢さん、冷静に聞いてください。といっても、朝にはなにもかも忘れているんでしょうけど……。まあ、それは致し方ないとして……。第一に、私たちはなんのためにこの場所に来たか覚えてますか?」
「悪者をぉ、やっつけるためー」
ビシッと拳を振り上げると、ヨハンは露骨にため息を吐き出した。ありゃ、呆れられちゃったか。腕の角度が駄目だったのかな。もうちょっと、こう、天を突くような感じで――。
「……いいですか、お嬢さん。悪者を倒すのは、確かに私たちの目的です。しかし、ここには本物の悪党なんていやしません。あるのはダダ漏れになった情報だけ。ちょうど、今のお嬢さんみたいにね」
「失敬なー」
口を尖らせてみると、なんだか愉快な気分になった。もうちょっと尖らせてみよう、こう、にゅっ、と。
あはは、なんか鳥になったみたい。
「ヨハン、お前の言いたいことは分かる」と、シンクレールは挑むような目付きでヨハンを見据えた。「つまり、今のクロエはまったく『らしくない』ってことだろ? 気持ちは分かるさ。確かに意外だ。はじめてみたよ、こんなに自由な彼女を。僕は今日という日、この瞬間を祝福する」
シンクレールが手を組み合わせて瞑想したので、慌ててわたしも手を組み合わせた。なにに対してお祈りするのかよく分からないけど。とりあえず「自由に感謝」と言っておいた。自分でもなんで口にしたのかさっぱりだ。しかしながら、思考がぷつぷつと千切れて、なんだかはっきりしない。絶好調なのに、なんでだろう。
「シンクレールさん、あなたは見境なく呑み過ぎです」
「悪魔のくせに硬いことばかり言うなよ。もう少し寛容になろう。な?」
「な? じゃないんですよ。……ああ、帰りたい」
目をつむって瞑想していると、周囲の音がやけにぼやけてきた。
「ヨハン、お前こそ冷静になったら――」
「私は大丈夫で――」
「なにが――」
「口の――」
「――」
「――」
喧騒が遠のいていく。二人の声さえ、どうにも遠い。何枚もの壁を通して聞いているみたいだ。摩訶不思議。そばにいる人の声さえ聴き取れなくなるだなんて。なんだか頭が重たい。ちょっぴり抵抗があるけれど、テーブルに頭を乗せてしまおう。うん、それだ。ナイスアイデア。やっぱりわたしは、いつになく冴えてるじゃないか。さすがわたしだ。
起き上がってヨハンにちょっかいでもかけてやろうと思ったのだが、どうにも身体が起こせない。とろり、と眠気に手を引かれる。
「ああ、目覚めましたか」
「わたしなにを……痛っ!」
喧騒が徐々に耳に戻り、それと同じくらいのスピードで頭痛を感じた。頭のなかで鐘が鳴り響いている。ごうん、ごうん、と容赦なく。
「ここは酒場で、お嬢さんはさっきまで酔って寝ていたんですよ。……少しは冷静になってくれてなによりです。ひと口しか呑まなかったおかげでしょうか。いやはや、助かった」
お酒、と言われてもピンとこない。というより、酒場に足を運んだ記憶すらなかった。記憶の最後にあるのは、『針屋』の二階でニヤつく骸骨顔である。彼の口から飛び出した提案は確か、『今夜も酒場で情報を集めましょう』だったはず。どうしようもなくはっきりしないのは、アルコールを口にしたからか。
酔っ払って記憶を飛ばすなんて、言語道断だ。
「ヨハン……ごめん、水をオーダーしてもらえる?」
「そう言うと思って、先に用意しときましたよ。……どうぞ」
「ありがと」
ぬるい水が喉を通り抜ける。ほんのりとお酒の香りがする呼気もすべて、洗い流してくれるみたいだ。頭痛は収まってくれないものの、多少気分は回復した。
落ち着いた気持ちで周囲を見回すと、数人の客がカウンターやテーブルに陣取って騒がしい声を上げている。
「ま、なんにせよ良かったです。朝までぐっすり眠られたんじゃ困りますから」とヨハンは心底ほっとしたように言う。
そんなにひどい酔いかたをしたのだろうか、わたしは。お酒に関しては、決していい思い出はない。いや、そもそも記憶自体がない。
「あ、クロエ起きたんだね……おはよう」テーブルに突っ伏したままシンクレールが顔を向ける。「なんだか君は、酔うと素晴らしく饒舌になるね。いつも以上に、くだけてたよ」
「うっ」と思わず顔を背けてしまった。顔が熱い。わたしはなにを仕出かしたんだ。
「わたし、なにかとんでもないことをしてなかった?」
「とんでもないことってなんですぅ?」とヨハンはニヤニヤ笑いで身を乗り出す。なんだろう、いつになく煽ってくる……。
不意に、喧騒に混じって気がかりな言葉が耳に入った。
「『煙宿』も、もう終わりかもしれねえな」
ヨハンの挑発は無視して、そちらの会話に耳を澄ました。
「終わりってどういうことだよ、おい」
「そう怒るなよ。ワケがあるんだ。あのな……昼間に『不夜城』で妙なものを見ちまったんだ」
「真昼間からあそこに行くたぁ、おめえ生粋の盗人だな」
「馬鹿野郎! 盗みなんてするわけねえだろ! 食堂で腹を膨らまして、少し散歩してたんだよ」
「へえ、それで?」
ヨハンとシンクレールも会話に気付いたのか、黙り込んでいる。やけに真剣な目付きで。
「路地裏で、ポールと知らねえ男が話してやがったんだ。慌てて隠れたから姿は見てねえけどよぉ」
「なんだい、見てねえのに知らない男だなんて」
「一度聞きゃあ忘れねえ声をしてたんだよ。粘っこくて、甲高くて、なんだか気味の悪い声さ」
「で、そいつとポールはなにを?」
「取引がどうとか、もうやめにしたいとかなんとか言ってたな。けどよぉ、男のほうは呑まねえんだ。で、『煙宿』を壊すだとか言いやがったんだぜ」
「おいおい、物騒だな」
「ああ。それでポールは、やけに必死に頼んでたんだよ。そいつはやめてくれってさ。ま、あいつも根っからのクズじゃねえってこった」
「それだけかい?」
「いやいや、肝心なのはここからだ。男はそれでも引き下がらなくてよぉ、最後には妙なことを言いやがったんだ。『煙宿』で、とびっきり上等な力を持った奴を差し出せってさ」
「力ってなんだよ。よく分からねえな。別嬪さんのことか?」
「ヒヒッ、違えねえや。ポールもそれを呑むなんて、いよいよ斜陽だな。ボスがワケ分からねえ奴に脅されるなんて、ぞっとするぜ――」
わたしたちはほとんど同時に立ち上がり、もどかしい気持ちで勘定を払うと、外の喧騒へ駆けだした。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照




