409.「皮下の闖入者」
黒い靄は、あっという間にザッヘルの手足にまとわりついた。直後、彼の身体がびくりと跳ねる。目は大きく剥かれ、食い縛った歯の隙間から言葉にならない音の断片が溢れ出た。
「ザッヘルさん!」
咄嗟に彼に寄ろうとしたが、『針姐』の腕に押しとどめられた。
「平気や。驚くのも分かるけど、仕方のないことなんよ。『墨虫』が墨を食うときは、どうしても痛む」
擦り込まれた墨は、皮膚の奥にじわじわと根を張る。先ほど『針姐』が言ったことだ。根を張った墨を、この黒い靄が食っているということは……。
「墨虫は器用な子やから、墨だけを綺麗に食う。けどねえ、どうしたって苦しみはあるんよ。そりゃ、いくら細かい虫でも、皮膚に入ってくるわけやから」
目に見えないほど微細な虫。それらが大量に皮下へ入り込む……。想像するだけで、なんだか痒くなってきた。
ザッヘルは床に転がり、身体を丸めたかと思えばガクガクと手足を伸ばしたりと、身悶えを繰り返している。瞼はきつく閉じられ、目尻に涙が浮いていた。小指を切ったときでさえ、彼はこんなにも苦しまなかったはずだ。
いくつもの痛みが継続し、逃れることさえ出来ない――そんな生き地獄を味わっているのだろう。
「そろそろ終わりやね。墨虫は食事が速いんよ。もっと味わって食うたほうが気分もええと思うんやけどねえ。ウチの旦那もそのほうが嬉しいやろうし」
嬉しいだなんて、ザッヘルの苦痛を見てよく言えるな……。しかしながらそんな想いも、靄が晴れると吹き飛んだ。
床に転がったザッヘルは荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと目を開ける。苦悶に歪んだ口元が、ゆるゆると脱力し――とろん、と余韻に浸るような恍惚とした顔つきに変わった。
あんなに苦しんでいたのに、この変わりようは一体……。
正真正銘、痛みを好んでいるということなのか。まったく共感出来ない。
目が合うと、彼の瞳がうっとりと細くなった。
「まぁた嬢ちゃんは、ウチの旦那を悦ばして……」
そんなに蔑んだ表情をしたつもりはないけれど、ザッヘルの顔を見るに、感情が漏れ出ていたらしい。
痛みも軽蔑もご馳走だなんて……。
「そ、それにしても、墨虫はどこにいったの? もしかするとまだ身体のなかにいるんじゃない?」
「いや、それはないんよ。奴さんは食事が終わると、さっさと地の底に帰るのさ。礼儀もクソもない。まあ、それぐらいさっぱりしてたほうがウチも気分ええけどねえ」
地の底というと、例の井戸だろう。霧散したように見えたが、それぞれ微細なひと粒ひと粒が住処へ戻ったというわけか。
「実に興味深いものを見せていただきました」とヨハンはぺこりと頭を下げる。「しかし、これで終わりではないのでしょう? 墨を消したとなると――」
「そ。墨を塗り直す。そうやって塗り替えしとったら、神経を壊すようなことにはならんからなあ。上手く使うってのは、こういう意味なんよ」
なるほど。墨が身体を蝕む前に取り払って、もう一度墨を塗りこめる。墨消しを怠らなければ、その効果を半永久的に使うことが出来るというわけか。痛みは大きな代償に思えるけど、それすらザッヘルにとってはご褒美なのだから呆れてしまう。
ふ、と思いつきが口からこぼれた。
「ねえ。ザッヘルさん以外にも、墨を塗ることって出来るのかしら?」
「もちろん。墨に魔力を籠めればええだけやし。ちょちょいのちょいや。ま、ほかのモンには『墨に魔力を籠める』なんて出来んらしいけど」
腕のいい絵描き。『毒食の魔女』の言葉が脳裏に浮かぶ。『針姐』の持つ能力は、間違いなくかなり特殊な部類に入る。仕組みが分からないのでなんとも評価は難しいけど、誰にでも出来る技であれば、『針姐』を指して『腕がいい』なんて言わないはずだ。
彼女にしか出来ないその力が、もしかすると役に立つかもしれない。
「『針姐』の墨は、身体強化だけなのかしら?」
「そ。腕力上げたり、動きを速めたり……全般的なモンやな。どこまで出来るかなんて分からんよ。自分でも全部把握しとる力やないからなあ。……ウチより魔術に詳しくて知恵のある奴だったら、ほかの使い方も思いつくんやない?」
なんだかぞんざいな口調だった。あまり追及してくれるな、という意味に聴こえてならない。
「その墨は……どれくらい払えば施してもらえる?」
すると、『針姐』は怪訝な目付きになった。警戒心がありありと表れている。こちらの考えが読まれたのかもしれない。
「お嬢さん、なにを言ってるんですか」
ヨハンは呆れ顔をしていたが、気にするつもりなんてない。わたしは今、ある直感に打たれているのだ。
――墨でわたしの身体を一時的に強化すれば、もしかするとルイーザと渡り合うだけの力が得られるかもしれない。悠長に力を高める時間もなければ、彼女に追いつける保証だってないのだ。なら、リスクを承知で実力を底上げ出来る手段が必須だ。アリスが魔銃を強化し、魔女から魔術を教わったように。
「なに考えとるか知らんけど、これは商売やないよ。ま、どうしてもって言うなら――」『針姐』は空っぽになった瓶を帯にしまい、冷えた笑いを口の端に浮かべた。「金貨百枚。それだけ積みゃあ、請けたるわ」
がっくりと肩が落ちる。なんだその、法外にもほどがある金額は。墨を塗るつもりなんて毛頭ない、と言ってるのと同じじゃないか。
「諦めろ、ってことね」
「そ。悪いけどウチはそういう人間やから。優しくないし、捻くれモンや。そばにおる奴は大事にしたるし、『煙宿』の人間はそれなりに愛しとるけどな」
言って、彼女はザッヘルを抱き起こした。脇に手を回して雑に起き上がらせただけだったけれど、なんだかその乱暴な仕草が照れ隠しのように思えてしまう。
それから彼女は、取り繕うようにこぼした。「だから、レオンみたいなのは嫌いやな」
どうしてここでレオンが出てくるのか分からなかったが……その口調にははっきりした意図はないように感じた。ついつい愚痴が漏れてしまうのと同じだろう。
わたしはというと、レオン、という一語にピクリと反応してしまった。
彼の妙な喋り方。小屋での、敵意の籠った目付き。そして、人形。
いくつかの、決して愉快ではない記憶が頭にこびりついている。
「どうしてレオンが嫌いなの?」
『針姐』は、ふん、と鼻を鳴らして懐からマッチを取り出した。火を灯すと、慣れた手つきで煙管に近付ける。
甘ったるい香りが鼻を刺激した。吸わないでくれって言ったのを忘れたのかしら……。
「アイツは、妙な連中と絡んどるって話したやろ?」
「ええ」
「で、『神隠し』の話もした」
「聞いたわ」
「ウチはな――というより、『ほろ酔い桟橋』の奴らはみんな、『神隠し』がレオンの仕業やと思うとるんよ。妙な連中から袖の下を貰うて、人を消しとる。実際に見たわけやないけど、時期が重なり過ぎるんよ。『不夜城』のボスも一枚噛んどるやろな……胸糞悪い」
『針姐』は、いかにも不愉快そうに煙を吐き出す。確かに『神隠し』が、レオンと、『煙宿』の創設者であるポールによっておこなわれているのなら、反感を覚えて当然だ。『針姐』の不快感はもっともだと思う。そして、彼女の推測はあながち間違ってはいないだろう。
レオンの小屋にあった魔紋。死んだはずの婚約者を模した人形。消えた二人組。
明らかに、なにかがある。
「ふぁぁあ……さて、夜更かしも終わりやね。阿呆な旦那さんに墨を入れる仕事も残っとるし、ウチらは寝床に戻るかねえ。……ああ、嬢ちゃんらはここにいたいだけいてかまわんからなあ。迷惑かけたわけやし、串焼きも貰うたし。そうそう、残った串はココにも分けてやってな。あの子、食い意地は一人前やから」
さばさばと口にすると、『針姐』はザッヘルに肩を貸して出て行った。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『魔銃』→魔力を籠めた弾丸を発射出来る魔具。通常、魔術師は魔具を使用出来ないが、魔銃(大別すると魔砲)は例外的使用出来る。アリスが所有。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて
・『ルイーザ』→ニコルと共に旅をしたメンバー。最強と目される魔術師。高飛車な性格。エリザベートの娘。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『魔女の湿原』~」』参照
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『魔紋』→魔術の応用技術のひとつ。壁や地面に紋を描き、そこを介して魔術を使用する方法。高度とされている。消費魔力は術者本人か、紋を描いた物の持つ魔力に依存する。詳しくは『186.「夜明け前の魔女」』にて




