408.「墨虫」
気まずい沈黙が流れる。『針姐』の機嫌を損ねてしまったのは明らかで――そして、わたしもなんだか気が張って仕方ない。彼女に指摘されたことが、まるで針のように、身体の柔らかな部分に刺さっているのだ。
他人を頼ってばかり……か。確かに図星だけど、自力ではどうにもならないことだってある。
黙って盆を見つめていると、不意に、さらさらと紙を掻く音がした。顔を上げると、ちょうどザッヘルが紙束を差し出したところだった。
『そう気に病まないで下さい。細は、悪気が有って言ったのではありません。貴女を想っての言葉です』
そう……なのかな。なんだか最後は小馬鹿にされた気がするけれど。
しかしまあ、慰めさえ突っぱねてしまうほど子供ではない。
「ありがとう、ザッヘルさん」
すると彼は、満足そうに目をつむり、首を横に振った。
瞬間――。
ぺちん、と彼の綺麗な頭を『針姐』の手のひらが打った。
「余計なことを書きよって……ホントにアンタは阿呆やねえ」
ザッヘルの唇が、ツン、と尖る。客人の前で頭を叩かれたら良い気なんてしないだろう。
そんな彼を冷たく眺め、『針姐』は短く笑った。
「なんだい、アンタ。もっと叩いて欲しいのかい?」
刹那――ザッヘルの顔がとろけ、噛みしめるようにゆっくりと頷いた。
え、なんで……と思う頃には、ザッヘルは我に返ったように元の冷静な顔つきに戻っていた。
「ザッヘルさんは『針姐』さんに叩かれるのがお好きなんですか?」とヨハンがニヤニヤと笑う。
「ご名答」と、『針姐』が間を置かずに答える。「コイツは、ウチにいじめられるのが好きなんよ。どうしようもない人間さ」
「そんな言い方って――」
弁明の言葉が、喉の奥に引っ込む。ザッヘルの瞳がとろり、と甘く『針姐』を見つめたのだ。恍惚という言葉がよく似合う。
もしかするとザッヘルは、飛び切り変な人なのかもしれない。達筆だし、言葉も丁寧で紳士的な人だと思っていたんだけれど……どうやら認識を改める必要がありそうだ。
不意に、さっ、とザッヘルが袖で顔を隠した。なんだろう。わたしが眺め過ぎたのだろうか。
「嬢ちゃん、あんまりコイツも喜ばせないでおくれよ。今、袖に隠れてどんな顔をしてることやら……」
「え、どういうこと?」
「自分じゃ気付いてないかもしれないけどねえ、嬢ちゃんはほんの一瞬だけ、顔を歪めたのさ。ウチの旦那はそれに気付いて、とっても嬉しくなっちまったのさ。顔を隠しちまうくらいにね」
ええ……。それはなんとも、反応に困る。軽蔑や痛みが大好物なのだろうか……。
ちらりとヨハンを見ると、彼は意地悪そうな笑みを浮かべるばかり。まったく、人が困っている姿を眺めるのが楽しくて仕方ないのだろう。とっくに分かっていることだけれど、救い難い性格の悪さだ。
「それじゃ、少し面白いモンを見せたろか」
言って、『針姐』が自分の帯に手を入れる。するとザッヘルは、びっくりするほど俊敏に正座をした。ピン、と背筋を伸ばしていたけれど、頬はゆるんでいる。
いったいなにがはじまるのだろう。ザッヘルの様子を見るに、なんだか嫌な予感がする。この部屋に訪れた矢先に見せつけられた、例の指切りを思い出した。
「嬢ちゃん、コレがなんだか知っとる?」
コトン、と床に置かれたのは手のひらに収まってしまうサイズの小瓶だった。中には黒々としたものが渦巻いている。液体ではなさそうだ。黒い靄が、瓶の内側に詰まっている。
「……はじめて見たわ。ヨハンは知ってる?」
「いえ、さっぱり。なんなんです? このモクモクしたものは」
『針姐』は得意気に鼻を鳴らし、ザッヘルの手首を掴んでくるりと捻った。露わになった彼の手のひらには、筆で描かれたように滑らかで鮮やかな模様が浮かんでいる。しげしげと見つめると、「あ」と声が出てしまった。
ザッヘルの手のひらに描かれた黒の模様。そこに魔力が宿っている。
わたしの驚きに満足したのか、『針姐』はクスクスと笑った。
「やっぱり、嬢ちゃんは魔力が分かるんやねえ。でっかい目標を持ってるだけじゃないってことかい」
鋭い人だ。やっぱり、と言うってことは、以前から推測していたに違いない。最初に会ったときからずっと、わたしの目の動きやらを観察していたのか。
「……うん、魔力は分かる」
「なら、話は早いなあ。ウチはねえ、墨を触媒にして魔力を擦り込むのさ」
魔力を擦り込む? あまり聞き慣れない表現だ。
「あんまし分かっとらんねえ。まあ、ええよ。ちゃあんと説明したるわ。……さっき意地悪いこと言うたの、許してな」
なんだ、気にしてたのか。堂々とかまえているものだから気付かなかった。
「いいのよ、別に。あながち間違ってるわけでもないし……」
すると『針姐』は苦笑して話を逸らした。「嬢ちゃんは、下の井戸を見たらしいなあ。この瓶に詰まっとるのは、そっから汲んだモンよ」
「汲んだ?」
「そう。普段は地の底で大人しゅうしとる奴らがおるんよ。そいつらははっきりした形も持たず、やたらモヤモヤしとる。ウチはなんとなく、『墨虫』って呼んどるわ」
『墨虫』ねえ……。見たこともなければ聞いたこともない。地底にわだかまる黒々したものなんて、誰も知らないだろう。王都の本にだって、そんなものは語られていなかった。
「話は変わるんやけど、ウチが墨で描くモンは便利なんよ。自分で言うのもアレやけど。……で、どう便利かは、嬢ちゃんが身をもって知っとるやろ?」
そういえば『煙宿』に来たそもそもの原因は、ザッヘルに殴られて気を失ったからだ。彼の手足は細く、とてもじゃないが人を気絶させられるような腕力も脚力もなさそうである。となると――。
「あなたが擦り込んだ魔力が、ザッヘルさんの身体能力を支えているのね」
「そ。正確には、両手足だけやけど」
強化魔術かなにかを籠めているのだ、きっと。
「そんでなあ、ウチの使う墨は良いことばかりやないんよ。世の中、上手く出来とるわ。便利なモンはそれだけ裏がある」
「裏って……?」
『針姐』は指先でザッヘルの手のひら――つまり、擦り込まれた墨を撫でた。「この墨は、肉を蝕む」
肉を蝕む?
唐突に飛び出した物騒な言葉に、唖然としてしまった。意味するところがはっきりしない。見たところザッヘルの手足は無事だし、どういうことだろう。
「そら、きょとんとするわな。見た目は普通なんやから。……でもねえ、目に視えるモンなんてごく一部や。この墨は、放っとくと神経まで入り込むんよ。じわじわと。当の本人はそれに気付かない。なにせ、痛みもないし見た目も変わらないからさ。けれどそのうち、墨は皮膚の奥の奥、身体中に深く根を張ってく」
皮下に広がる無数の神経。そのひとつひとつに黒く、微細な糸がまとわりつく様を想像した。いつしかそれらは神経とひとつになり、肉体を蝕んでいく……。
「全身に回ったら、どないなるか……ウチにも想像つかんよ。死なずとも、長生きは出来んやろなあ」
「……でしょうね。それで、どうしてそんな危険なものをザッヘルさんに?」
「そりゃあ、愚問やろ。この墨は、上手く扱えば助けになってくれる。夜なんて怖くないくらいや」
言われて、はっとした。確かに、ザッヘルには見るからに魔術の才能はなく、そして身体の線も細い。彼くらい繊細な人間が、魔術も魔具もなしに、迫りくる魔物を退けるなんて不可能だ。
だからこそ、怪しげな技術を必要としたのか。
他の人に守ってもらえばいいのに、とも思ったけど……まあ、聞くのは無粋だろう。そんな当たり前の凌ぎ方を選ばなかったことが重要なのだ。
「墨を抜く方法はたったひとつ」
彼女は小瓶をつまみ、蓋に指先を添えた。白い指が、靄との対比で鮮やかに映える。
「『墨虫』に、墨を食わせるんよ」
ポン、と小気味のいい音がして――漆黒が溢れた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




