400.「筆、語る」
きいきいと廊下が鳴く。遥か遠くで人の声がするけれど、何枚もの壁を通しているからか、言葉ひとつ捉えられない。
「さて、と……」
大きく伸びをして深呼吸すると、なんだか甘ったるい匂いがした。たぶん、石鹸の香りだろう。湯上りでポカポカしていた身体はすっかり冷め、さっぱりした気分も段々と淀んでくる。
どうしてこんなことになってるかと言うと――。
「……迷った」
口に出すと余計に惨めな気持ちになった。正しく状況を理解するのも、なかなかどうして辛いものがある。
浴室に来るまでは、ひたすらココの後ろを歩いていたから意識しなかったが、こうしてひとり屋敷をさまよっているとまるで迷路としか思えない。何度も分かれ道に出くわすし、部屋数も多い。そしてどこへ行っても暗いのだ。進んでいるのか、それとも同じ場所をぐるぐると歩いているのか……それすら曖昧である。
しかし――。
袖を見つめ、スカートをつまみ、その場でくるりと回転した。ふわりと裾が翻る。
湯から上がると、脱衣所にはココの用意したらしい服があったのだ。代わりにわたしの着ていた服は消えていたけど。シャツもスカートも平凡なフォルムで、黒を基調としていたが、決して暗い印象ではなかった。それどころか、要所要所にあしらわれた飾りが品のいい愛らしさを演出している。袖とスカートには花を模したレース。上下のデザインが統一されているのもポイントが高い。
可愛すぎず、おとなし過ぎず。わたしの一番好きなスタイルだ。『最果て』を旅していた頃からずっとズボンだったので、スカートを着ることが出来てちょっぴり嬉しくもある。
とまあ、うきうきしていたのも最初のうちだけである。延々と屋敷を歩いているうちに、幸せな気持ちも吹き飛んでしまった。だからたまに、自分を鼓舞する意味で一回転するのである。そうでもしないと、ぐったり落ち込んでトボトボ歩くだけになってしまう。
さて、もう一回転――。
「えっ! ざ、ザッヘル、さん!? いつからそこに……!」
誇張でもなんでもなく、心臓が止まりそうになった。気付くと廊下の先に、まるで幽霊のようにザッヘルが立っていたのだ。彼の肌は――つるつる頭も含め――暗闇でもぼんやりと白い。
一瞬遅れて、猛烈な恥ずかしさが襲ってきた。彼がいつからわたしを見ていたのか知らないが、ニコニコと一回転する様子をバッチリ確認したことだろう。
ザッヘルは困ったようにはにかんで、懐から紙束と銀色のペンを取り出した。そして、なにやら書いている。
なんだろう。
やがて彼は手を止めて、紙面をこちらに突き出した。
『驚かせて、御免なさい』
流麗な字で、そう書いてある。惚れ惚れしてしまうくらいに綺麗な文字……。これほど達筆だったとは。
――いやいや、感心するところではない。なんでこれしきのことを紙に書いて見せるのだ。
すると彼は紙束をぺらぺらと捲り、目的のページを見つけたのか、またもこちらへ突き出した。
わたしが息を呑んだのは、なにも字の美しさばかりではない。
『生まれ付き、声が出ないのです』
「あ……」と思わず口からこぼれた。
彼はニッコリと笑みを浮かべ、それからまた、眉尻を下げてさらさらとペンを走らせた。
『今朝の事ですが、失礼致しました』
「ええと……今朝のことって、指を切ったアレのこと?」
『其の節は、驚かせて申し訳御座いません。あれしか謝意を伝える方法は無いと思いましたので。そも、貴女を殴り付けた私が悪いのです』
そしてザッヘルは、深々と頭を下げる。薄暗闇に、電球頭がぼんやり灯った。
「あの……そんなに気にしないで。確かにびっくりしたけど、おかげで『煙宿』まで来れたんだから」
『ヨハンさんから伺っております。『煙宿』の敵ではない、と。此れは断じて言い訳では無いのですが、てっきり王都の役人か騎士だと思ったのです。我々の生活を脅かすのではないかと。現に、そういった輩は多く現れます。ですから、先んじて退治すべしと感じた次第。面目無いです』
ヨハンがザッヘルと『針姐』を説得したというのは、どうも本当らしい。彼の申し訳なさそうな表情を見るに、かなり説得力のある説明を展開したのだろう。彼らしく、舌を存分に駆動させ、踊るように虚実を織り交ぜて。
想像すると、なんだかザッヘルたちが気の毒に思えた。
「でも、指を切るなんてあんまりよ。ココの布があっても、痛みはそのままなんでしょ?」
『仰る通りです。痛みまで失ったら禊に成りませんから』
「禊って……まあ、いいわ。別に恨んだりしてないし、本当に気にしないで頂戴」
『然し、気が済みません。いっそ、私の頬を張って頂きたい』
文面を見せると、ザッヘルは目を閉じ、薄い頬をこちらへ寄せた。
「勘弁して。もういいの」
すると彼は、少し気落ちしたように目を伏せた。
『其れで、如何してこんな場所に』
「ええと、お湯を借りて……その……」
『迷ったのですか』
「そうなの……」
『針屋は広いですから、無理からぬ事です。現に、客人は頻繁に迷います。運悪く墨井戸に近寄ったら……』
墨井戸、というのは例のガラス張りの空間のことだろう。
「近寄ったら、どうなるの?」
『細が、素っ裸に剥いて大道に置き去ります』
それは……なんとも恐ろしい。
けれど、なんだか妙だ。細と言われても、なんのことやら分からない。いや、書かれている字は分かるのだが……。
「細って、『針姐』さんのこと?」
『ええ。細君の、細、です。見慣れぬ言葉でしたか』
うーん……。そもそも、細君と書かれてもなんのことやら。
「ごめんなさい、さっぱり意味が分からないわ。細君って?」
ザッヘルはやや躊躇いがちに、ほんの少し頬を赤らめて紙を見せた。
『愛する、妻の事です』
「妻……妻!? え、二人ってそういう関係だったの!?」
『そうです。細には、迷惑ばかり掛けていますから、今朝の通り、痛罵を頂戴するのです』
痛罵を頂戴って……いくらなんでもへりくだりすぎではないだろうか。まあ、二人の関係性のことだからあれこれ言うつもりはないけど。
ザッヘルはニコリと笑い、『では、座敷に戻りましょう』と見せて歩き出した。
相変わらずの暗闇を、『煙宿』の男――つまりならず者と進む。なんだか怪しげな状況だ。ザッヘルは見る限りおだやかな人みたいだけど、油断していると厄介なことになるかも……。ひと皮剥けば、人間なんてどんな本性をしているか分からないものだ。
「それにしても、『針姐』さんって何者なの? 表には『針屋』って書かれてたけど」
『医者の様な者です。針で身体を治すのですよ』
針で治すなんて聞いたことがない。「それって身体に針を突き刺すってことかしら?」
『そうです。細が言うには、身体には目に視えない流れがあるそうで、滞った箇所に針を刺す事で詰まりを取るのです。百聞は一見に如かず、是非治療して貰うと宜しいかと』
「興味はあるけど、遠慮しておくわ」
身体に針を刺すだなんて、なんだか信じられない。傷の絶えない日々を送っていても、わけの分からない痛みには当然抵抗がある。
『そうですか。残念』そう見せた直後、ザッヘルはなにか思い出したように、すぐさらさらと書き足した。『そうそう、細は絵を売って稼ぐ事もあります。近頃依頼が無いので忘れていましたが、それはもう、見事な作を描きますよ』
絵か。
ん? なんだか引っかかる。
そういえば――。
『毒食の魔女』の言葉が蘇る。曰く――湿原の絵描きは、腕がいい。
「絵の話、もう少し詳しく聞かせて。――いえ、それよりも描いた物を見たいわ」
もしや、『針姐』が湿原の絵描きなのだろうか。いや、でも、全然絵描きには見えない。
『後程、御目に掛けましょう。今は駄目です。要らぬ誤解を生みますから』
「誤解って?」
たずねても、ザッヘルは意味深に微笑むだけだった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる土地。正式名称はハルキゲニア地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




