394.「唐突な襲撃」
一歩進むごとに憂鬱な気分になっていくのは、湿原特有の心理作用だろう。足元の地面は柔らかく、靴にまとわりつく泥はなんとも不快な気分にさせる。湿っぽい空気は吸い込むたびに、喉をじとじとと湿らせた。湿気を含んだ服は普段より重たく感じ、なんだか余計に疲れる。
「まだかなぁ」
ぼそりとシンクレールがこぼすのも、自然の成り行きだ。たとえならず者の巣窟だろうとも、湿原を延々と歩くよりは腰を落ち着けたい。風もろくに吹かないので、停滞した不健康な空気を吸っている感覚がなんともいえず不愉快である。
「焦ったって仕方ないですよ。気持ちは分かりますが、我慢して進みましょう」
「ヨハン、お前は湿原がよく似合うな。ここならその不健康な顔も自然に見える」
「そりゃどうも。おや、シンクレールさんの足元に蜂が」
「ひっ!」
「冗談です」
「お前……!」
ヨハンとシンクレールの応酬を白々しく眺めつつ、足を運ぶ。辺りは薄靄に包まれていて、気を抜くと方向感覚を失ってしまいそうだった。魔女の邸を出てから真っ直ぐ北に進んでいる自信はあるけれど、いかんせんこの足場と視界だ。
まあ、そもそも『煙宿』の位置はぼんやりとしか分からない。多少歩みが乱れても、当てずっぽうなことに変わりないのだ。
「それにしても、シンクレールさんはローブをたくさんもってますね。おかげさまで助かりましたよ」
ヨハンはニヤニヤとローブの袖をはためかせる。
たとえ悪党どもの巣窟だろうと、わたしたちが気軽に顔を見せていいことにはならない。特に『煙宿』は、王都からの流れ者で作られた宿場町だからなおさらだ。そこでシンクレールが、気を利かせてローブを貸してくれたのである。顔がすっぽり隠れてしまうほど大きなフードが付いており、お誂え向きだった。
「本当に助かるわ。けど、どうしてこんなにたくさんのローブを持ってるの?」
彼の旅行鞄のなかには、五着も六着も同じようなローブが詰まっていたのである。トリクシィと組んでわたしの討伐に出たときに、わざわざ持ってきたものに違いないけど、たった数日過ごす程度なら何着も用意する必要なんてない。
「気分を変えたいときのために持ち歩いてるのさ」
「気分を変えるなら、もっとデザインの違ったものを用意すればいいんじゃない? 似たローブばっかり揃えなくても……」
シンクレールは曖昧に微笑んで「あはは……いつもそう思って買いに行くんだけどね。いざ選ぶとなると、なかなか……。派手なものを買うと、結局袖を通さなかったりするから……」と言葉を濁す。服屋で小一時間迷った挙句、無難なデザインを手に取る彼の姿が思い浮かんだ。
まあ、シンクレールらしい。今度服屋に行くことがあれば、洒落たものを選んであげる――そう言おうとしたが、やめておいた。『今度』がいつになるか分からないし、そもそも大手を振ってショッピングが出来るような立場ではないのだ。来ないかもしれない『いつか』の話が出来るほど、わたしは強くない。
「それにしても、そろそろ魔物が出る時間帯じゃないかな」とシンクレールは露骨に話題を変える。
「そうね……もうすっかり夜だし、いつ出てきてもおかしくないわ」
湿原に入ってからすでに数時間が経過している。靄のせいでぼかされているものの、すっかり夜であることは確かだ。『煙宿』に着くより先に魔物と戦闘になることは、半ば覚悟していた。
「まあ、やむを得ませんな。お二方の活躍に期待します」
「ヨハン、あなたも戦うのよ。ひとりだけ傍観なんてずるい」
「冗談ですよ。お嬢さんは手厳しいですなあ」
「あなたが冗談ばかり言うのが悪いのよ」
ともあれ、ヨハンの魔術に期待しているわけではなかった。テレジア戦では随分と骨を折ってくれたが、普段の夜間戦闘では本気で戦ってくれないだろう。それこそ、わたしとシンクレールで討伐出来るような相手ならなおさらだ。戦闘が楽になるとはいえ、ヨハンの遅延魔術だとか戦術に頼ってばかりというのもよくない。
「あ」
無意識に声がもれた。遠くで魔物の気配がするのだ。その方角に目をやると、薄っすらと魔力らしきものも視える。魔物自体は気配からしてグールだ。
シンクレールも気付いたのか、わたしに頷きかける。言葉を交わすまでもなく、わたしたちはほとんど同時に駆けた。少し遅れて、ヨハンのもたついた足音がしたが、気にしていられない。
魔力の正体がなんであれ、魔物を放置するつもりはない。ただ――。
気配に近付くにつれ、動悸が激しくなった。魔物は倒さなきゃならない。そして、人は守らねばならない。ここに矛盾があることを、知ってしまったんだ。魔物がもともと人である、と。そして、人間と魔物の間を行き来する存在がいることを。
だとしても、魔物は倒す。結論は出ていたが、やはりというかなんというか、なにもかも以前の通りというわけにはいかない。集中しようにも、キュラスでの光景が邪魔をする。
やがて、魔力の正体が視えてきた。スキンヘッドの痩せた男と、背の高い女――男は手足に整った魔力をまとい、女のほうは全身にまとまった魔力が感じられる。魔具使いと魔術師だろうか。男は寄ってくるグールを次々と蹴りと殴打で撃退している。見事な身のこなしだが、それ以上に気になるのは手足の魔力だ。拳も蹴りも、常人ではグールをひるませる程度にしかならない。しかし男は、数体のグールを掌底で吹き飛ばす芸当を見せていた。魔術的な細工をしているのは明らかである。
グールの量はみるみるうちに増加していく。
走りつつ、鞘に手を添える。指先の震えを無視して、サーベルを抜き放った。
二人はこちらに気付いた様子で、じっと視線を向けている。靄の先から突然現れた者を不審に思うのは当然だ。だからこそわたしたちは、彼らの味方であることを証明しなければならない。
にじり寄るグールを切り伏せようとサーベルを振り上げた瞬間、妙な違和感を覚えた。先ほどまでグールと相対していたはずの男が消えているのだ。いったいどこへ――。
グールを切り伏せた瞬間、「クロエ!!」というシンクレールの大声と、背を中心に、脳へ突き抜けるような衝撃が走った。
それきり、なにもかも分からなくなった。
「お目覚めですか?」
声のしたほうに顔を向けると、ヨハンがいた。相変わらず不健康を体現したような骸骨顔をしている。寝起きに彼の顔を見るだなんて、不吉極まりない。
ぼんやりした頭で周囲を見回す。板張りの質素な床に、木目のはっきりした天井。見た目にもざらざらした土壁。極端に低いテーブルには、ランプを薄紙で囲った立方体の灯具。そして隣では、やたらぺらぺらした寝具に横たわるシンクレール。息はあるようで、胸はしっかり上下している。
わたしも同じく、ぺらぺらした寝具に寝ているわけだけど……状況が見えてこない。記憶は確かにあるのに、今の光景と上手く結びついてくれないのだ。
「……ここは?」
「『煙宿』ですよ」
「え……」
どうして『煙宿』にいるのやら。そして、なぜわたしとシンクレールは――寝具こそ別々だが――隣り合って寝ていたのか。なんだか妙な魔術にかかっているような感じだ。
「混乱してますな……身体は平気ですか?」
「うん、大丈夫みたい」
確か、背中に強烈な衝撃を受けたはずだ。それ以降は記憶が途切れている。
「なら、説明しましょう」
そしてヨハンはゆったりと語り出した。わたしがスキンヘッドの男の一撃を受けて意識を失ったこと。シンクレールも同様に攻撃を受けて気絶したこと。
「そしてわたしは、お嬢さんがたを襲った輩を組み伏せたわけです。で、言葉を交わしてみると、どうも勘違いをしていたようで、彼らのねぐらに運んでくださった、というわけです。とんだ災難でしたなぁ」
その『ねぐら』とやらが『煙宿』だったわけか。しかし、勘違いで襲うなんてどういった料簡だろう。そして、ヨハンが組み伏せたというのもなんだか怪しい話である。
疑いでいっぱいになっていると、不意に、床板の軋みが聴こえた。二人分の足音が、部屋のすぐそばまでやってくる。そして、簡素な木戸が開け放たれた。
現れたのは見事なまでの電球頭の男と、流れるような真っ直ぐな黒髪をした女性だった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。王都を裏切ったクロエとシンクレールを討ち取ったことになっている。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。魔王の血を受けており、死後、『黒の血族』として第二の生命を得たが、クロエに討伐された。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』『第二章 第三話「フロントライン~①頂の街の聖女~」』にて
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『遅延魔術』→ヨハンの使用する魔術。対象の動きをゆるやかにさせる。ヨハン曰く、魔術には有効だが、無機物には使えないらしい。詳しくは『69.「漆黒の小箱と手紙」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている




