幕間.「名も無き化物②」
彼は、またひとりぼっちになってしまった。ぎゅうぎゅうと押し潰されそうな胸の痛みを覚え、どうすればこの苦しさから逃げられるだろう、と考え続けた。夜闇を駆けても、藪に飛び込んでも、あるいは腹を満たしても、決して消えない痛み。
リンなら、この感覚がどんな名前なのか、教えてくれるかもしれない。そう思ったが、彼は二度とあの集落には行けない気がした。たとえどんなに山をさまよったとしても、リンに会うことは出来ない。理屈ではなく、直感したのだ。
ひとりぼっちの夜は苦しく、彼はただしくしくと泣いた。涙を流すたびに、自分の姿が脳裏に浮かぶ。全身が毛に覆われ、顔は厳めしく、どうしたってリンとは違う。
それから何日も哀しみに暮れた。
ある朝、彼は寝起きのぼんやりとした頭で、ふらふらと川にたどり着いた。そして、ぎょっとしたのである。水面に映った自分自身の姿が、まるっきり違っていたのだ。五体はあるが、毛は頭だけ。身体は大きいけれど、それまでの巨躯と比較したらちっぽけだ。肌はほかの同族たちと同じく鮮やかな紫で、素朴な顔をしている。
今ならリンに会えるかもしれない。そう思って、彼の胸は高鳴った。温かい気持ちが皮膚の内側を駆けめぐり、目に映るなにもかもが祝福しているようにさえ感じたのである。
やがて陽が落ち、夜になると、彼はひどくがっかりした。どうしてか、元の醜い自分に戻ってしまったのだ。
落胆のまま眠りにつき、陽が昇ると、むくりと起き上がって驚いた。川へと走り、自分の身体を確認すると、ほっとひと息ついたのである。
理由は分からないが、自分は昼間だけ、あの素敵な姿をしていられるらしかった。今までこんなことはなかったのに、と思い、不器用に首を傾げる。そうして頭に浮かんだのは、やはりリンのことだった。
きっとあの子が、名前の代わりにこの姿をくれたんだ。いつしか彼は、そんなふうに考えるようになっていった。
何年か経ち、彼はすっかり自分自身を知った。リンを探して村々に訪れることもあったが、夜になると罵倒と怯え、暴力の嵐だった。結局彼女に会うことも出来ず、『自分は人と関わってはいけない』と考えるようになったのである。それからというもの、山奥の洞窟や、草木も生えない岩山、あるいは鬱蒼とした森を転々とさまよった。しかし、誰とも関わってはいけないことと、胸を搔き乱す寂しさは別物だった。
誰かと仲良く生きられたなら。
それは、絶望的な強さで彼の感情を揺さぶった。しかし、どうなるものでもない。旅人のふりをして村に入り込んでも、夜が来れば、全部台無しになる。それに彼は、醜い自分を目にしたとき、決まって相手が浮かべる慄きの表情が嫌いだった。突き放されたように感じ、途方もなく哀しくなるのである。
ある日彼は、妙な集落を発見した。誰もが白い肌をしていたので、なんとも奇妙に思ったのだ。それまで、人は紫の生き物だと思っていたから。話してみると、彼らは肌の色など気にかけず、随分気さくに、そして親切にしてくれた。
夜が来て、彼はひどく怯えた。こんな親切な人々が、あの恐怖に満ちた表情を浮かべるかと思うと胸が張り裂けそうだったのである。
変わるな、変わるな、変わるな、と、祈り続けた。
しかし、願いは届かなかった。
何倍にもなった身体が、家屋を内側から崩壊させる。せっかく招かれて、宿までもらえたのに。自分はどこまで行っても、誰かと仲良くなんか出来ない。ぽっかりと胸に穴が空いたような感覚になって、彼はただただ月を見上げた。その日は満月で、草木を、大地を、白光が染め上げていた。
もうじき、この静けさを突き破る悲鳴が上がる。『裏切り者』『化物』と、よく分からないけど哀しい言葉が飛んでくる。逃げ出したい気持ちはあったが、彼はじっと佇んでいた。そのうち目の前がうるうるとぼやけ、目元の皺にしっとりした湿りが伝った。
しかし、いつまで待っても悲鳴や罵倒は訪れなかった。意を決して地面に顔を向けた彼は、びっくりして声も上げられなかった。
自分をずらりと囲んだ、毛むくじゃらの生き物。それらはただ黙って、彼を見つめていた。逃げる気配も、攻撃の前触れもない。じっと見上げるだけ。
彼らはどこからやってきたのだろう、と考えて気が付いた。そして、声を上げて泣いた。
彼は、自分を囲む毛むくじゃらが、集落の住民だと悟ったのだ。理屈を超えた納得が頭で弾け、胸の奥底に優しげな痛みが走り、目が熱くなった。
同じ。
同じ、同じ、同じ。
何度も内心で呟き、月に吼えた。その声に呼応して、毛むくじゃらもギャアギャアと、言葉にならない叫びをあげる。ようやく彼は、一緒にいられる相手を見つけたのである。
それからの日々は決して楽ではなかったが、充実していた。集落で慣れない共同生活を送り、少しずつ言葉を覚えた。魔物が現れれば蹴散らし、昼間は狩りにいそしんだ。唯一哀しみがあるとすれば、集落の住民が、少しも夜の記憶――自身が毛むくじゃらであることの記憶を持っていないことだった。彼らと同じく、自分も夜の記憶をなくしていられたら、と苦しく思ったものである。
そんな日常も、唐突に終わりを告げた。
彼の集落に、ひとりの旅人が訪れたのである。白い肌をした男だった。もしかするとこの男も、自分たちと同じ存在かもしれない。そんなふうに思った彼は、旅人を集落に泊めた。
その晩、久しぶりに悲鳴を耳にした。毛むくじゃらに囲まれて、男は絶叫を上げていたのである。どうして変身しないのだろう、と思ったが、段々と『この男は変身出来ないのだ』『自分たちとは違うのだ』と理解した。すると途端に、苦しくなったのである。もう一秒たりとも悲鳴を聴いていたくはないし、怯えた目も見たくない。
握り潰すと、男は簡単に死んでしまった。哀しいけれど、仕方ない。そう思って彼は、男を地面に転がした。すると、異様な光景が広がったのである。毛むくじゃらが群がり、男を食ったのだ。無我夢中になって、なんとも旨そうに。
彼は好奇心に駆られて、血まみれになった指をおそるおそる舐め、その味に身震いした。
五体を持っているから旨いわけではない。それまでも同族を殺して食ってきたから、よく分かっている。
では、男の味はなんなのだろう。陶然と考え、彼はひとつの結論に至った。肌が白くて、変身しない奴は旨いのだ、と。……それが人間と呼ばれているのを知ったのは、しばらく経ってからだった。
やがて彼は、毛むくじゃらを連れて旅に出た。人間を求めていたのだが、理由はそれだけではない。別の集落からひどい侵略を受けたのである。復讐することだって出来たけれど、魅力的なアイデアではなかった。それよりも、人間を求めて移動するほうがよほどいい。
ただ、事態はそう簡単ではなかった。山を降りた先に住む人間は手ごわく、何人もの仲間を失った。そうして山に戻り、比較的小さな村を襲うようになったのである。人間はどれも美味で、イノシシや熊なんかよりずっとずっと、幸福な味がした。
しかし村を潰せば、残るのは廃屋だけ。彼も薄っすらと、そのことを理解しはじめていた。だが、人間を口にするのはやめられない。腹も膨れるし、栄養価が高い。そしてなにより、味である。肉は絶妙な酸味があり、ねっとりした血潮は濃厚だ。
そうして村々を滅ぼしていくうちに、彼はひとつの閃きを得た。人間は脆く、群れていなければ碌に生活もままならない。食い過ぎてしまえば、村が滅ぶ。なら、ほどほどにすればいい。ちょっと食べて、増えるのを待ち、またちょっと食べては待つ。ご馳走にありつけない時間が長くなるのは残念だったが、人間を求めて旅するのも、なかなかどうして困難なのである。だから、ひとつの餌場を大事にしなければならない。
思い立ったはいいものの、そう上手くはいかなかった。収穫すべき量もそうだが、人選も必要だったのである。夜毎に魔物と対峙するような元気のいい奴は、大抵旨い。だけどもそいつを食ったら、小さな村などひと晩で魔物の餌食になってしまうのだ。それもこれも、実際に失敗を積み重ねて知ったのである。
彼は相変わらず言葉も拙く、また、考えも幼稚なところがあったが、仲間が補ってくれた。
その頃の彼にとって、なにより大事なのは人間を食うことと、仲間のことだけだった。絶品の肉。唯一自分を受け入れてくれた相手。どちらも失いたくなかったが、強いて順番を付けるなら、やはり後者のほうが大事である。努力すれば、ひとりでも人間の肉にはありつける。しかし、心許せる存在は得ようとしても得られない。もう孤独に喘ぐなんてごめんだった。
いつしか彼は、名前にこだわることがなくなった。ある日自分が、紫の肌を持つ同族からなんと呼ばれているか知ったのである。
『噛砕王』。
その言葉にどんな意味があるのかなんて、彼には知るよしもなかったが、不快に思うこともなかった。これは、自分を表す言葉だ、と信じたのである。名前じゃないことくらい、なんとなく理解していた。けれども、それを考えることは頑なに避けた。ようやく手にした平穏な生活を、過去の寂しい気持ちで塗り潰してしまう気がしたから。
孤独こそ感じなかったが、その頃、人間を定期的に食う計画は暗礁に乗り上げていた。というのも、山岳地帯の村なんてほとんど消えてしまったのだ。廃墟は見つかっても、そこに人の気配はない。しかたなしに獣や木の実で空腹をしのぐ日々が続いていた。
そんな毎日を過ごすうち、彼は強く思ったのである。
次に見つけた村は、大事に、大事にするぞ、と。
ある日彼は、仲間のひとりから山頂の街の話を聞かされた。そこには多くの人々がいる、と。よだれが止まらなかった。我慢が出来なくなって、立ったり座ったりした彼を、仲間がアハアハと楽しそうに笑い、なんだか彼も、嬉しくてたまらなかった。
仲間の語ったところによると、その街の人間はかなり強いらしい。なんでも、住民のほとんどが魔物を退治出来る、とのことである。
これはなかなか悪くないぞ、と考えて彼の胸は高鳴った。手ごわいのは困るが、ひとりやふたり、間違って戦士を食べてしまっても、その街は滅びないということだ。細心の注意を払って、住民のなかでも戦えそうにない奴を食べれば、万が一にも壊滅はない。いよいよ、長らく夢見た人間牧場を手に出来るかもしれない。
彼と仲間たちは、何日もかけて計画を練った。むろん、彼のアイデアはどれも欠陥があったが、それをなんとか仲間が修正するのである。頼もしいなあ、なんて彼はニコニコするばかりだった。
いよいよ彼と仲間は、作戦を開始した。まずは、仲間たちが街に姿を現す。もちろん深夜に、魔物として、だ。襲うことも、また、戦う住民を助けることもせず、ひたすらじっと観察するのである。そこにはふたつの意味があった。
ひとつは、住民のなかで、食っても影響のない奴を見極めるため。
もうひとつは、毛むくじゃらの存在に慣れさせること。
遠巻きに眺めるだけの存在を、わざわざ討伐しようだなんて思わないのが自然である。ただでさえ、ほかの好戦的な魔物がひしめいているのだ。
作戦の第一段階は、見事に成功した。住民は最初こそ、怯えや不安に囚われていたようだが、次第に反応が薄くなっていったのである。つまり、木々や草花と同様、そこにあるだけの無害なものとして認識されたのだ。長らくそうやって観察を続けるうちに、戦える人間とそうではない人間の選別も出来た。
そして作戦の第二段階――収穫のときが訪れた。待ちに待った日である。だからこそ、今までの準備を台無しにしないだけの理性が必要だった。彼は自分自身の理性のなさを自覚していたので、人間を捕らえてくる役目は仲間が負うことになった。
大成功。そう言って差し支えない収穫だった。彼と仲間はたらふく美食を楽しんだのである。
あと数年待てば、またご馳走を収穫出来る。身が焦げ付くような待ち遠しさではあったものの、彼にとってはたった数年など一瞬で過ぎてしまうものだ。人間の寿命は短く、彼とその仲間たちの命は果てしない長さを持っている。
胸躍る収穫時を待って過ごす日々は、しかし、脆くも崩れ落ちてしまった。
人間が、彼らの住処に現れたのである。そして、まんまと逃げられてしまった。
彼はひどく怯えた。住処に訪れた人間に見覚えがあったのである。そいつは、餌場の人間――それも、戦士だったのである。奴が現れたのはきっと、復讐のためだ。今に大挙して、この平和な住処をズタズタにし、仲間の命だって奪ってしまうに違いない。
そうしたら、またひとりぼっちだ。
考えると、耳鳴りがして身体が震える。段々と耳鳴りは強くなり、やがて頭を貫かんばかりに彼を苛み、全身の震えはもはや、耐えがたいまでに膨らんでいった。
いっそ、先に壊してしまえ。
頭に浮かんだアイデアは、強い魅力を持っていた。滅ぼされる前に滅ぼす。せっかくの餌場がなくなるのは哀しいことだったが、仲間や住処を失うのはずっと怖い。それに、木の実や獣を食って生きることだって出来るのだ。
これほど綿密に用意した作戦でさえ、簡単に崩れ去ってしまう。それだけ人間は、厄介な存在であると知った。
これで最後にしよう。人間は美味しいけど、危ない。いつか大変なことになるかもしれない。だったら仲間と楽しく過ごせれば、それが一番だ。彼はそう決めて、次の晩、仲間を引き連れて山頂へと向かった。
結論から言えば、人間を全滅させることは出来なかった。厄介な奴が数人いたのである。彼が直接相手をすれば倒せたかもしれなかったが、夜明けが近く、また、仲間も疲労していた。犠牲を出してまで、全滅にこだわるのも虚しい。いずれにせよ、街は滅びたのだ。数人の猛者を除き、戦士も住民も食ってやった。もう、充分過ぎる。
かくして彼――『噛砕王』は頂の街キュラスを壊滅させ、巣へと帰還したのである。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『噛砕王』→別名『育ちすぎた魔猿』。『黒の血族』だが、ろくに言葉を扱えず、粗暴な性格。人里離れた場所を好む。毛むくじゃらの巨体が特徴。テレジアに拾われ、頂の街キュラスで青年ハルツとして暮らしていた。ロジェールに撃たれ、絶命。詳しくは『294.「魔猿の王様」』『362.「破壊の渦」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている




