幕間.「名も無き化物①」
彼がはじめて目にしたのは、瞼の裏よりはいくらか明るい薄暗闇だった。自分が何者で、ここがどこなのかなんて知る由もない。彼は幼く、そして知恵を授けてくれるだけの存在がいなかったのだ。
彼が生を受けたのは山間部の農村だったが、物心つく前に洞窟の奥深くに捨てられたのである。彼は、忌み子だった。生まれながら全身に毛を蓄え、母体を死に至らしめるほどの巨躯。村に残る忌み子の言い伝え通りだったのである。現に百年余り前、彼と同様の子が生まれ、生きて出ることは叶わぬとされる迷宮のごとき洞窟に捨て去った事実がある。かくして今回も、村人は風習に従ったのだ。
どれほど幼い身でも、空腹は訪れる。洞窟内の湧き水で喉を潤したとて、栄養にはならない。彼は段々と弱り、死臭に似た臭いを発するようになった。それを敏感に嗅ぎ付けた鼠どもが集まり、無遠慮に彼を襲ったのである。もう食ってもいい、と判断して。
彼は、生まれながら丈夫だった。衰弱してはいても、鼠の十匹や二十匹、簡単に撃退出来る。彼はなかば本能的に鼠を捕らえると、やはり本能のまま口にした。彼には美味など分からぬ。ただ、寄ってたかって己を食わんとする鼠を叩き殺し、口に運んだだけのことである。やがて彼は腹を満たす方法と、生物は『叩けば大人しくなる』という経験を得た。それからというもの、獣のごとく狩りをし、ただひたすらに栄養をつけていったのである。
その頃から洞窟内をうろつき、生物を見つけては追い立て、殺し、血肉にしていった。それが影響してか、迷路のような洞窟も、いつしか彼の庭となっていったのである。
数年経ち、あるきっかけから彼は洞窟を抜けることとなった。別段、特殊な事情ではない。洞窟内に珍しい生き物――蝙蝠がいただけのことだ。彼は蝙蝠を追い、ひたすら洞窟内を駆けたが、ついぞその身を捕らえることは出来なかった。その代わりに得たのは、眼球を貫くような鋭い痛みである。年単位の洞窟生活により、彼の目は闇に慣れ過ぎたのだ。光を、外敵の攻撃と捉えてしまうほどに。
彼は洞窟に戻ることなく、瞼をきつく閉じたまま無茶苦茶に暴れた。そして――崖から落ちたのである。幸いにして無傷だったが、目の痛みは消えなかった。蹲り、幾度か夜を越え、ようやく太陽に慣れることが出来るまでは。
やがて彼は、故郷の村に――まったくの偶然から――姿を現した。怯えた村人は彼を『排除すべき敵』と断定し、武器、話術、呪術、あらゆる手段を行使したが、功は奏さなかった。
村がどんな結末をたどったかは、語るにおよばない。動くものを餌と認識してきた彼にとって、村の人々も鼠や蝙蝠となんら変わりない存在だった。
それから彼は、山々を転々とした。行く当てもなく、目的もなく。ただ、段々と無意味な殺生は減っていった。
そうしてまた何年か過ぎた頃、彼は崖から落ちて足にひどい傷を負った。身動きすら出来ないほどの惨状である。餌を得ることも出来ず、ただただ空腹に耐えるしかなかった。幾日そうやって過ごしただろう。ある日彼は、子供を目にした。助けてほしくて、精一杯の声を上げてみたが、彼女は泣きながら駆け去ってしまった。そのとき、彼の心にはじめて孤独の哀しみが萌したのである。叫んでも助けてくれない。悲鳴を上げて逃げられるだけ。
翌朝、彼は妙な匂いで目を覚ました。爽やかで、豊潤な香り。目の前にあったのは、真っ赤な林檎だった。こんもりと山になっている。ひとつ食い、豊かな酸味に歓喜し、ふたつみっつと、次々に平らげていった。
ふと彼は、木に隠れて子供がじっと見ていることに気が付いた。
「……美味しかった?」
彼には言葉が分からなかった。子供が自分に呼びかけたことだけは理解したが、それがなんなのか、なんのためなのか、一切が不明で、ただ、柔らかくて心地良い音色に感じた。
翌日も、またその次の日も、朝になれば果物や野菜、あるいは肉が彼の前に置かれていた。そして女の子の姿もあり、段々と距離も近付いていった。徐々にではあったが、彼女とコミュニケーション取る時間も増え、彼は音の断片が為す意味を、おぼろげながら理解していったのである。
「あなた、言葉が使えないのね」
「おお、あ?」
「うん、言葉」
「おおあ」
「なら、私が教えてあげる」
これは林檎。これは木。あれは空。
「で、私たちは、友達」
「とおだち」
「と、も、だ、ち」
「ともだち」
「そう。友達」
友達。彼はなんだか、胸の奥のほうにじんわりと温かいなにかを感じた。
足はもう治っていたが、彼はその場所を決して離れなかった。なぜなら、彼女が会いにきてくれるから。ちっぽけでお腹は膨れないけど、珍しい食べ物をくれる。声をかけてくれる。自分の知らない言葉を教えてくれる。
「私は、リン」
「りん?」
「そう。私の名前」
「なまえ?」
「あなたのお名前は?」
彼に名前はなかった。自分を呼ぶ人もいなければ、名を授けてくれる親もいない。名前が必要だったことなんて一度もなかったのだ。
彼は首を振って応えた。分からないことがあれば、そうして見せると彼女に伝わるから。
「お名前、ないんだ……。じゃあ、私がつけてあげる! あなたに名前をあげる!」
嬉しかった。名前が必要だとは思わなかったが、彼女がくれるなら、それはとても嬉しい。それに、名前があるというのは特別なことだ。ひとりじゃない、ってことだ。おおよそそんなふうに考えて、彼は名付けを楽しみに待った。
リンはなかなか思い浮かばなかったようで、「明日またくるから、そのときまでに考えておくね」と言って去ってしまった。
なんだか寂しかったが、待っていれば名前がもらえる。そう信じて、彼は夜を過ごしたのである。しかし、翌日になっても、そのまた翌日になっても、彼女は現れなかった。食料だって、もちろんない。空腹は大問題だったが、それ以上に、友達が姿を見せに来てくれないことが不思議でならなかった。
もしかしたら、どこかで怪我をしたのかもしれない。自分と同じように、崖から落ちて。彼は、いつもリンがやってきて、そして去っていく方角へと駆けた。
やがてたどり着いたのは、小さな集落である。
「りん。りん」
彼女の名を口にしながら、集落へと入っていく。彼の巨躯ならごく自然のことだが、すぐ住民に見つかった。聞けばリンのことを教えてくれるかもしれない、と思って「りん、りん」と言ったが、返ってきたのは絶叫ばかりだった。誰もが彼を指して、悲鳴交じりに「化物」と叫んだのである。語句の意味は分からなかったが、あまり気持ちのいい言葉ではなかった。
「なんだあの化物は!」
「武器を持ってこい!」
「殺せ!」
がやがやと、不安になるうるささだった。それでも彼はついに、人々の間にリンの姿を見つけたのである。
「りん!」
近付こうとしたのだが、いくつもの石や農具を投げられ、それどころではなかった。どうしていじめられるのか分からない。リンに会いに来ただけなのに。彼は、自分が集落の人間にどう捉えられているのか知らなかったのだ。
同族食いの化物。そう呼ばれていたのである。彼が近くの山にいることを知った住民は、不要な外出を禁じ、したがってリンも会いに行けなかったのだ。
「りん! りん!」
彼は何度も、彼女の名を叫んだ。
「おいリン! どういうことだ! 化物と知り合いなのか!」
「あいつを呼び寄せたのはお前か!」
「愚か者め!」
彼は、確かに見た。住民がリンを叩いたことを。そして、彼女を助けなくちゃ、と思った。
住民を叩き潰し、跳ね飛ばし、爪で裂いた。すべては、リンを助けたい一心で。
「りん」
血だまりで蹲る彼女に呼びかける。もう、リンをいじめる人はいないよ、と、そう教えたかった。
彼女の表情は、彼の見たことがないものだった。ガタガタと震え、唇を噛み、涙を流し、自分を睨んでいる。
彼は、自分がとんでもないことを仕出かしたのを悟った。彼女を哀しませてしまった、怯えさせてしまった、嫌われてしまった、と。胸の奥が、ぎゅっと潰れそうなくらい痛い。
彼は、一目散に逃げ出した。無我夢中で山を駆けた。ぽろぽろと流れる涙のせいで、視界は判然としない。木々にぶつかってはなぎ倒し、岩を砕き、真っ直ぐに駆けた。やがて彼は川辺にたどり着き、はっきりと理解したのである。
水面に映った自分の姿は、リンとは似ても似つかない。きっと、この姿が悪いのだ、と。
それからまた彼は、闇雲に駆けた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『呪術』→魔物の使う魔術を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』




