372.「ジャイアント・キリング」
獣じみた叫びが天を震わす。ラーミアやアラクネの使う『叫びの呪術』にも匹敵するほどの音が続いていた。しかしながら、地に振り下ろされる拳は先ほどよりも頻度が減り、威力も弱まっている。それもそのはずで、ハルツの片腕は遅延魔術によってほとんど固定されているような状況なのだ。闇雲な攻撃は半分に減り、そして満足な構えから振り下ろせない拳に最大の威力は宿らない。一発で絶命必至の脅威であることには違いないが、随分と楽になった。
ちらりと頭上を仰ぐと、テレジアがなにやら叫んでいるように見えた。ハルツの咆哮に掻き消されて聴こえないが、おおかた落ち着くように呼びかけているのだろう。決して届くはずがないのに。
さすがのテレジアも、ヨハンが一瞬のうちに展開させた隠密魔術を見抜くのは難しいようだった。しかし、そう長く有利な状況が続くとは限らない。ハルツの体躯とテレジアの魔術――優劣なんて簡単に覆ってしまう。限られたチャンスを最大限活かすためには、次の一手を打たねばならない。全力の一手を、最速で。
集中力を研ぎ澄まし、ハルツの膝へと駆ける――と、その身が不安定に起き上がった。
ハルツが立とうとしているのである。しかし、遅延した腕を引けずに妙な中腰になっていた。攻撃を止め、一心不乱に腕を引こうと頑張っている。きっと彼の思考は、鳴り響く騒音でズタズタに乱されていることだろう。一度は身に受けた遅延魔術にここまで動揺するだなんて……もとより単純な性格だとは思っていたが、テレジアの働きがいかに大きいか示している。先ほどまでの乱れのない攻撃とは大違いだ。
とはいえ、状況は少し悪くなった。膝が地面から離れた分、こちらが駆ける距離も長くなる。わずかな違いではあったが、今のわたしにとっては厄介だ。
まだ終わるな。まだわたしの仕事は残ってる。
不意に、視界の端に妙な魔力が視えた。思わず見上げると――。
ハルツの肩に立ち、指先を動かすテレジア。彼女の指の動きに合わせて、空中に薄く線が引かれる。それはみるみるうちに、馴染み深いかたちを作っていった。
「文字……」
なるほど。見聞きしたことのない魔術だったが、確かに文字ならば聴覚に頼らず意図を伝えることが出来る。そしてハルツは、今までの様子から分かる通り、彼女の指示には絶対に従っている。騒音に満たされようと、痛みに苦しもうと、行動が変わるわけではないのだ。彼女の思惑をどこまでも尊重し、一直線に服従するその姿は崇拝心を体現していた。
空中の文字に、氷の矢が放たれる――が、シンクレールの妨害は功を奏さなかった。矢は文字をすり抜け、ハルツの顔の前で不自然に弾かれる。
展開速度も練度も申し分ない防御魔術……思わず歯噛みをしてしまう。
やがて文字は、一連の意味を形作った。
『こえに、みみを、すまして』
単純で難解な一文。普通なら様々な意味に取れる文字だろう。ただ、この状況においては誤解のしようがなかった。
ハルツは文字を見つめ、肩に乗るテレジアに頷きかける。すると、ようやくテレジアは微笑みを取り戻した。
ハルツが目をつむり、動きを止める。異様なほどの静けさが周囲を覆った。
これでハルツが本当にテレジアの呼びかけを聴き取ったら、まずいことになる。彼女もこの状況には混乱しているだろうが、わたしたちを蹂躙する戦略はすでに頭のなかにあるだろう。彼女ほどの才覚なら、突破口を見つけるのに充分な時間が経過している。
決して歓迎出来ない静けさだったが――わたしの仕事はやりやすくなる。
あと三メートル。
二メートル――。
跳躍すると、全身に痺れるような痛みが走った。顔が歪み、呻きが漏れる。けど、動きにゆるみはない。
ハルツの足――そこに生えた硬い毛を掴んだ。腕が脱力を求めて悲鳴を上げていたが、知ったことではない。ここで手を離したら、せっかく掴みかけた希望も全部霧散してしまう。
憎んでやまない協力者によって繋ぎ止められた命。死の淵から、勝利へ。わたしが今よじ登っているのは、大猿の身体ではない。ニコルと魔王へと続く崖を登っているのだ。
ちょうど背中にさしかかる頃、異変が起きた。毛が逆立ち、その内側にある強靭な肉体が震える。それは、歓喜にほかならなかった。
「――聴こえた!! 聴こえたぞ!!! ああ、『教祖』様の声だぁ……」
うっとりと、涙に湿った声。確信と喜びに満ちた咆哮が響き渡る。
最悪の展開だ。まだ目的地にはついていないのに――。
テレジアとハルツ。ヨハンがなんとか断ち切った両者の回路は、再び繋がった。それも、騒音を超えるほどの強さで。
もはやどれだけの音を鳴らそうとも、ハルツがテレジアの声を失うことはないだろう。音の濁流のなかで必死に掴み取った、尊崇してやまない『教祖』の声なのだ。
ハルツの背を降りて、安全圏まで退避しようか?
「ハッ……」
ふと湧いた自問を笑い飛ばす。馬鹿げた考え。今逃げたら、それこそ台無しだ。作戦を立て直すだけの時間をテレジアが許すわけない。待っているのは、ほんの少しの延命だ。確かに、ここで進んだら猛スピードで命が消えるだろう。ほぼ確実に。しかし、進まなければ勝ち目はない。わたしは今、爪の先ほどの勝利に向けて進んでいるのだ。
ちぎれそうになる腕を叱咤し、ハルツの背を這い進む。歓喜に震えるその身体を、上へ上へと。腕が駄目になったら、噛みついてでも登ってやる。わたしは、諦めが悪いんだ。
「ああ、『教祖』様、『教祖』様、『教祖』様!!」
今のところ、ハルツが急激に行動を起こす気配はなかった。ひたすら喜びに打ち震えている。
正真正銘、最後のチャンスかもしれない。この機を逃せば、わたしは振り落とされ、目の覚めない眠りにつくだろう。あと少しなんだ。あと少し――。
ハルツはいまだ、動かない。それどころか、却って静かになった。ゆったりと脱力するのが感じられる。これもテレジアの戦略だろうか。だとすると、妙だ。今のこの状態は――肉体的な辛さはあるものの――這い登るには絶好の具合だ。
いや、と首を振る。妙な疑念は振り切れ。たとえ変に思ったとしても、今わたしに出来ることはたったひとつなのだ。ハルツに致命傷を与える。それも、治癒さえ難しいほどの。その目的のために歯を食い縛って痛みに耐えているのだ。
手を伸ばし、毛を掴む。腕を振り、もっと高い地点へ逆の手を伸ばす。それを繰り返すだけ。余計な考えはいらない。必死で登り、そして――全力の一撃をぶつける。
「ハルツ!!」
ようやくハルツの肩によじ登った瞬間、反対の肩からテレジアの声が飛んだ。なにひとつ余裕のない、焦りにまみれた声が。
見下ろすと、いつの間に遅延魔術が解除されたのか分からなかったが、ハルツは両腕をだらりと左右に広げ、ひたすら脱力している。その目はうっとりと閉じられ、まるで上質な音楽でも聴いているような具合だった。
「ハルツ!!! どうして動かないのです!!!」
はっとして、地面に目を向ける。随分と小さくなったヨハン――その顔が、不敵に笑むのが見えた。
なにをしたのか分からないけど、きっとあいつの策略だ。あのテレジアを罠に嵌め、絶好の状況を作り出したのである。空中には、今、別の文字が浮いている。『うしろに、とべ』と。焦りからか、殴り書きのような文字だった。目をつむったハルツには捉えることの出来ない文字である。
さて。ようやくわたしの仕事が出来る。
サーベルを両手で持ち、呼吸を整えた。
腕は最悪の状態だ。気怠さ、痛み、震え。そうした一切が、わたしに呼びかける。やめておけ、無理だ、後遺症になる、どうせ死ぬだけだ、と。
好きなだけ叫ぶといい。諦める理由なんて、どこまでもちっぽけにしか思わない。わたしの目は、たったひと粒の希望に目を奪われているのだから。
ここまで、長かった。遠かった。心も身体もボロボロになり、一度は生きることさえ諦めかけた。でも、それらの絶望は今この瞬間へ結びついているのだ。
シンクレールに視線を向けると、頷きが返った。呼応するように、わたしも頷く。すべての準備は、すでに整っている。
そして――。
「ハルツ!!!!」
「氷牙!!!」
「風華!!!」
三つの叫びが空を裂く。だが、結果をもたらしたのは二つだけだった。
サーベルがハルツの頸動脈を裂くのと、シンクレールが生み出した巨大な氷の牙がハルツに突き刺さるのは同時だった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』『第二章 第三話「フロントライン~①頂の街の聖女~」』にて
・『ハルツ』→キュラスに暮らす大男。純朴な性格。自分を拾ってくれたテレジアを心の底から信頼している。『黒の血族』のひとりであり、『噛砕王』の名を持つ。詳しくは『313.「あまりに素直で不器用な長話」』『362.「破壊の渦」』にて
・『呪術』→魔物の使う魔術を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『遅延魔術』→ヨハンの使用する魔術。対象の動きをゆるやかにさせる。ヨハン曰く、魔術には有効だが、無機物には使えないらしい。詳しくは『69.「漆黒の小箱と手紙」』にて
・『隠密魔術』→魔術の分類のひとつ。展開した魔術を隠すなど、隠密行動に特化した魔術を指す
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場
・『アラクネ』→蜘蛛の大型魔物。上半身が女性、下半身が蜘蛛の姿をしている。人語を解し、自らも言葉を発することが出来る。知恵を持ち、呪術の使用もこなす。暗闇を好む性質から、人前に姿を現さないと言われている。詳しくは『219.「おうち、あるいは食卓、あるいは罠」』にて




