371.「反撃は騒音と共に」
家屋の投擲は、当然わたしたちにダメージを与える目的ではない。そして、直後に放たれた穏やかな密室もブラフだ。本命は転移魔術。しかし、わたしに見せた通りのやり方では読み切られる。なら、背後に転移するのがもっとも意表を突ける戦術だ。
テレジアは今、滑り落ちる視界でなにを感じているだろう。
巨大な地鳴りの直後、ふわりと身体が浮いた。転倒を恐れたハルツが、咄嗟に手を突いたのだ。いや、それは『手を突いた』なんて生易しいものではない。拳を叩きつけ、大地ごと氷を砕いてバランスを取ったのである。
今、テレジアは次の作戦を考えているだろうか。それとも、すでに戦略を共有しているのか――どちらでもいい。わたしたちは真っ直ぐ、それぞれの役割を遂行するだけだ。
サーベルをかまえ、踏み出した。徐々に勢いをつけ、駆ける。目標はハルツの足元――氷の大地に突いた片膝だ。
集中力を途切れさせるな。一心不乱に駆けろ。迷いも恐れも断ち切って、崩れ落ちそうになる身体を意志で支えろ。痛みなど、失敗の後に訪れる悲劇に比べればなんてちっぽけなものなんだ。前を向き、目標から決して視線を逸らさなければ刹那的な苦しみなんて些細な問題になる。
「『教祖』様ァ! どうすればいいか教えてくれぇ!! あの痛い虫が来る!!」
痛い虫か。ひどい言われようだ。まあ、彼にとってはわたしなんて虫けらみたいなものだろう。軽く握るだけで簡単に潰れ、遠投するだけで瀕死になる。指先で弾けば気を失い、どうしようもなく脆い骨を持つ。
けれど、それが人間だ。簡単に消える命を必死に燃やして、明日へ手を伸ばす姿は、ハルツからすれば滑稽だろうか。いや……それすら感じなかったに違いない。少なくともテレジアに出会う前の彼は、キュラスを『都合のいい餌場」程度に見ていただろうから。
徹底的に軽んじられ、蹂躙され、弄ばれ、消えていく。そんな日々のなかで、連綿と繋いできたものがあるんだ。命から命へ。魂から魂へ。ロジェールが味わった深い絶望と、全身が裂けるような苦しみ。それが今日という日に続いている。
「早く命令を――!!」
ハルツの身が、ぶるりと震えた。漆黒の毛がぞわぞわと逆立つ。彼の両手が持ち上がり、自身の両耳へと真っ直ぐに向かった。
苦痛と驚愕のあまり、飛び出さんばかりに見開かれた瞳。そんな彼の横で、明らかに狼狽するテレジア。
刹那――。
「オアァァアァァァァァァ!!!!」
絶叫が響き渡り、あまりの音圧に身体が押し戻されるような感覚を得た。歯噛みしつつ体勢を整えると、両耳を押さえて苦しげな表情を浮かべるテレジアが見えた。彼女には、なにが起こっているか理解出来ているだろうか。
大地の凍結による転倒。そこから、ハルツの絶叫が響き渡るまでのわずか数十秒間。その貴重な時間を、テレジアは戦略を立てるために費やしたのである。決して長考とはいえない時間だったが、相手を誰だと思ってるんだ。こっちにはとびきり性格の悪い、正真正銘の悪党がいる。テレジアにとってはわずかの時間でも、彼にとっては、攻撃態勢を整えるのに充分な時間だろう。
『交信魔術を使えるのは、なにもテレジアさんばかりではありません』。即席の作戦会議で、彼はそう言っていた。
『交信魔術が使えたって意味ないわ。ハルツはテレジアの言葉しか聞かないだろうし』
すると彼は首を横に振り、いかにも悪漢じみた表情を浮かべたのである。
『説得するつもりなんてありませんよ。とっておきのノイズをプレゼントするんです』
騒音魔術。頭のなかを騒音で満たす魔術。それ自体はわたしも知っていたけれど、騎士団で使っている人間なんて見たことがなかった。それもそのはずで、魔物相手に騒音魔術を使うタイミングなんてほとんどない。せいぜい、知恵のある魔物を混乱させるのが関の山。その程度の効果のために、わざわざ会得する騎士がいなかっただけのことだ。
まったく、性格の悪い魔術はなんだって使ってのける。ヨハンはどこまでも狡猾でひねくれ者だ。ただ、今この瞬間だけは、その悪質な性格を讃えたい。
ハルツの頭は、もはやなにも考えられなくなるほどの騒音で溢れかえっていることだろう。その証拠に、途轍もない呻き声と歯軋りが鳴り響いていた。テレジアの指令なんて、届く余地もない。
「アァァアアアァァアアア!!! 『教祖』様! 『教祖』様あ! 『教祖』様ァァアアア!!!」
「ハルツさん!! わたくしの声を聴いてください! 聴くんです!!」
テレジアはもはや、交信魔術ではなく肉声で叫んでいた。声色は相変わらずの柔らかさがあったものの、それ以上に焦りを示している。
不意に、前方が薄暗い影に覆われた――。
轟音と、氷の破片。ハルツの拳が、間一髪わたしの目の前に振り下ろされたのである。思わず見上げると、彼はこちらの姿など見ていなかった。
次々と拳が地を打つ。何度も、何度も。
ハルツは両膝を地に突き、滅茶苦茶に暴れていた。身体のバランスだけはなんとか保ったまま、腕を振り回し、地面を砕き続ける。
「ハルツさん!!」
テレジアの叫びが、獣の咆哮に虚しく掻き消される。こうなってしまえば、テレジアもほとんど無力だ。ハルツの持つ強靭な力と、テレジアの揺らぐことなき知性。その回路は、たった今断ち切られたのである。
ともあれ、これではまともに駆けることも出来ない。ただでさえふらつくような体調なのだ。転ばずにバランスを取るだけでみるみるうちに体力が減っていくような感覚がある。けど――負けてたまるもんか。
奮起したものの、すぐそばに拳が打ち下ろされた。割れた大地にバランスを崩し、否応なく転倒してしまう。全身に焼けるような痛みが走り、すぐさま頭上へ視線を移すと――あまりに感情的で、獰猛な瞳と目が合った。食い縛った歯から、唸りが漏れる。そして、わたし目がけて狙いすまされた拳が迫った。
現実は残酷で、非情だ。傷付いた身体を振り絞って駆けた結果、転ぶ。その上、壊滅的な攻撃が訪れるだなんて――こんなありふれた展開が読めないわけないでしょ?
即座に起き上がって右に跳ぶと、ハルツの拳が地面に叩きつけられる寸前でスローになった。
『遅延魔術を奴の全身にかけることは出来ないのか?』とシンクレールが怪訝そうにたずねる。それが出来れば一番なのだが、答えは聞くまでもない。
『さすがに無理です。私の魔力なんて些細なものですからね。遅延魔術の範囲はせいぜい、私が両腕を広げたサイズくらいです。そして、複数発動することは不可能』
『それってつまり、二回目を使ったら、一回目の遅延が解除されるってこと?』
『ご名答』
ハルツの瞳がなにを捉えたか。見るまでもない。またたきひとつ分の間を置いて、痛ましい激突音がわたしの鼓膜を震わした。
「ウオォォォオアァァァ!! 痛てぇ! 痛てぇよぉ!!!」
痛みまでは遅延しないのか、と、意外な発見をした気になった。
スローになったハルツの拳。そこに激突したのは、テレジアがブラフのために投げさせた穏やかな密室だった。
ヨハンの、悪魔じみた高笑いと上機嫌な台詞が、ハルツの唸りを裂いて響き渡る。
「放たれた攻撃は必ずや被害を与えねばなりません! たとえ、攻撃した張本人が受けることになろうとも! さあさあ、フロントラインの『教祖』様ァ! この展開が読めましたか!?」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』『第二章 第三話「フロントライン~①頂の街の聖女~」』にて
・『ハルツ』→キュラスに暮らす大男。純朴な性格。自分を拾ってくれたテレジアを心の底から信頼している。『黒の血族』のひとりであり、『噛砕王』の名を持つ。詳しくは『313.「あまりに素直で不器用な長話」』『362.「破壊の渦」』にて
・『ロジェール』→キュラス付近の山岳地帯にひとりで住む青年。空を飛ぶことに憧れを抱き、気球を完成させた。テレジアの幼馴染であり、元々はキュラスの住民。『救世隊』の一員だった。詳しくは『298.「夢の浮力で」』『347.「収穫時」』『349.「生まれたての太陽の下に」』にて
・『転移魔術』→物体を一定距離、移動させる魔術。術者の能力によって距離や精度は変化するものの、おおむね数メートルから数百メートル程度。人間を移動させるのは困難だが、不可能ではない。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『交信魔術』→耳打ちの魔術。初出は『31.「作戦外作戦」』
・『騒音魔術』→対象の頭に騒音を鳴らす魔術。詳しくは『Side Alice.「狂気と音のアリス」』にて
・『遅延魔術』→ヨハンの使用する魔術。対象の動きをゆるやかにさせる。ヨハン曰く、魔術には有効だが、無機物には使えないらしい。詳しくは『69.「漆黒の小箱と手紙」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている




