365.「穏やかな密室」
教会へと至る坂の下。寂しさに覆われた微笑を浮かべるテレジアと、彼女の背後に立つ巨大な獣――『噛砕王』。太陽は頂点へと差しかかり、眩い光を注いでいた。
決心なら出来ている。相手がいかに強大であろうとも、決して退くものか。そしてきっと――テレジアも同じ想いだろう。後戻りのチャンスを何度も与えたにもかかわらず迫り続けるなら、撃退しなければならない。いかに争いを避けようとしても、向き合わねばならないタイミングがあることぐらい、彼女はよく知っていることだろう。ニコルとともに魔王の城を目指した事実は、そんな経験の連続を指しているように思えてならない。
「止めないでください、『教祖』様」
『噛砕王』は威圧的な眼差しをじっとこちらに向けたまま言い放った。地の底から響いてくるような低い声で。
「止めません……仕方ないことですもの」
『噛砕王』とは対照的に、テレジアはひどく切なげな口調で呟いただけだった。きっと彼女は今でも慈愛を胸に抱えているのだろう。だからといって、容赦してくれるわけではないことぐらい理解しているし、甘い戦闘なんてもとより期待していない。相手は『黒の血族』と、勇者一行のひとりだ。
「ただ」と続け、テレジアは『噛砕王』を振り仰いだ。「わたくしも……ともに戦わせてください、ハルツさん」
一陣の風が吹き、彼女の髪がふわりと踊った。ひどく場違いなイメージだけれど、まるで清潔なカーテンが午後の風を抱きとめる様子を思い浮かべてしまう。
「あ、あ、あ、ハルツ! 貴女がくださった俺の名前だ! ハルツ! なんて良い名前なんだ! はい……恐れながら、お力を貸してください」
そうか、と悟った。彼女が街の全員を教化出来た理由は、決して特別なことじゃない。街全体に洗脳魔術を放ったのでもなければ、トリクシィのように精神的な圧迫をかけたわけでもなく、ただひたすらに純粋だったからだ。膨大な魔力を持ち、常軌を逸した治癒魔術を使い、それなのにこんなにも清らかで包容力がある。そして彼女の優しさは、弱さとはイコールではないのだ。その心には、強い芯がある。どれだけ力を込めようとも決して折れない内面こそが、街ひとつぶんの宗教を支えるに足る要素だったのだ。
跪きたくなる気持ちは――決して認めたくはないけど――理解出来る。彼女に付き従うことは、圧倒的な正しさと安心感をもたらしてくれるだろうから。今この瞬間でさえも、キュラスの住民は彼女の正しさを信じているに違いない。そして、神聖な勝利が訪れることも。
『噛砕王』――いや、ハルツの手のひらにテレジアが乗った。それからゆっくりと、いかにも慎重な動作で彼女の身体が運ばれていく。
ハルツの肩にたどり着くと、彼女はその首に手を添え、ニッコリと微笑みかけた。
二人の様子を見る限り、共闘するのははじめてのことだろう。いかに強大な者同士であっても、単に手を組んだだけでは意味がない。互いの戦闘方法を熟知した上で、有効な戦略を共有しなければ最大限の力は発揮出来ないのだ。下手をすると、ひとりで戦ったほうがよほどマシな場合だってある。テレジアとハルツの場合は後者に思えた。
あの様子なら、こっちのほうが却って有利かもしれない。そして――仕掛けるなら早ければ早いだけ有効だ。
サーベルをかまえ、ハルツの足へと駆けた。
ハルツの強さは実際に戦わずとも充分に理解出来ている。その怪力はもちろんだが、もっとも厄介なのは機動力だ。その要となっているのは、当然のごとく足である。とはいえ、そこを狙うのはあまりに危険だった。魔物討伐の常識だが、敵が大きければ大きいほど、その身体自体が凶器足りえる。巨体が転倒するだけで、人の身体など簡単に潰れてしまうのだから。加えてハルツは、巨大な身体に似合わぬ身軽さを持っている。彼ならば、足元に寄る者がどれだけ素早くとも、致命的な攻撃を軽々と連発してくるだろう。
つまり、ハルツの足元は文字通り死地なのである。生還率など考えるだけ無駄と思えるほど。
それでもわたしが突っ込んだ理由はたったひとつ。ほかの住民がそうであるように、彼もまたテレジアを信奉している。それだけだ。
彼は――そしてテレジアは――相手の戦い方をまるで理解していない。互いの力を存分に発揮するなら、肩に座らせるなんて真似は決してしない。
集中力を高めて、さらに速度を上げる。ハルツの足まで残り三メートル。サーベルを振りかぶった――。
ハルツは迎撃しようにも、過度な対応は出来ないはず。なぜなら、肩には崇拝する『教祖』様がいるのだから。激しい動きなどしようものならテレジアは容易く落下してしまう。もちろん、彼女に負担のかからない範囲で動けば問題ないだろうけど、そこまで繊細で器用な攻撃がハルツに出来るとは思えなかった。
つまり、わたしの一撃には充分な勝算があったのだが――。
サーベルは空を切った。ハルツが後退したのである。咆哮が響き渡り、そして――。
頭上に、巨大な拳があった。
「――!」
間一髪のところで回避したものの、拳は次々と降り注ぐ。まさしく、容赦なく叩き潰す勢いで。遠慮など微塵もない。
地面が揺れ、転がっては身を起こしつつ、回避を続ける。向かってくる拳をサーベルで迎え撃つ準備など、到底出来なかった。なにせ、こちらが不意を突かれたのである。攻撃は想像以上に激しい。
頭の奥で警鐘が鳴っていた。この領域は危険すぎる、と。一撃でもかすれば重症間違いなし。そして、その先に待っているのは走馬燈さえも許さない速度の絶命だ。
命からがら。まさしくそんな様子だったろう。襲いくる拳の雨を必死で回避し、地を転げつつハルツの攻撃範囲から外れた。
そしてわたしが見たのは、彼の肩で相変わらず寂しそうな微笑を浮かべるテレジアである。彼女の身体には、整った魔力が溢れていた。全身を薄く覆うように。
なるほど、と感心している余裕はない。ハルツの身体が沈み込み、宙へ躍り出たのである。
即座に着地点を計算する。この勢いと高さなら、ちょうどわたしの背後だろうか。
迷っている暇はない。前方――先ほどハルツが立っていた場所へと駆ける。ちょうど双方の位置が入れ替わるように動けば、少なくとも危険域には入らない。
戦闘は一瞬の決断を積み重ねていかねばならない。勝利が近ければ、なおさら慎重に歩まねばならないし、敗北が濃ければ、それを少しずつ薄めていく動きが必要となる。ただ、その積み重ねは敵の攻撃を先回りしてはじめて成立する。あまりに意想外の出来事は、堅実な積み重ねを足元から崩壊させてしまうのだ。
跳躍するハルツの手が、太陽を掴まんばかりに掲げられた。そして巨体がわたしの頭上へ差し掛かる瞬間――。
「穏やかな密室」
確かに、テレジアの声が聴こえた。冷静に、落ち着き払った口調。その言葉とほとんど同時に、ハルツの手のなかに半透明の箱が現れた。
穏やかな密室――頑丈な箱に、対象を格納する魔術だったはず。橋を落とされたあの晩、テレジアが住民を閉じ込めたのとまったく同じものである。それ自体は防御魔術であり、ほかの使い方など不可能だ。
しかし、そんな常識を粉々に砕くほどの状況が、頭上にある。
穏やかな密室を握りしめたハルツ。その腕の筋肉が盛り上がるのが見えた。次になにが起きるのか、考えなくても分かる。
ハルツの腕が振られた。そして――。
おぞましい風切り音ともに、穏やかな密室が真っ直ぐに迫るのが見えた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』『第二章 第三話「フロントライン~①頂の街の聖女~」』にて
・『噛砕王』→別名『育ちすぎた魔猿』。『黒の血族』だが、ろくに言葉を扱えず、粗暴な性格。人里離れた場所を好む。毛むくじゃらの巨体が特徴。テレジアに拾われ、頂の街キュラスで青年ハルツとして暮らしていた。詳しくは『294.「魔猿の王様」』『362.「破壊の渦」』にて
・『ハルツ』→キュラスに暮らす大男。純朴な性格。自分を拾ってくれたテレジアを心の底から信頼している。『黒の血族』のひとりであり、『噛砕王』の名を持つ。詳しくは『313.「あまりに素直で不器用な長話」』『362.「破壊の渦」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。王都を裏切ったクロエとシンクレールを討ち取ったことになっている。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて
・『洗脳魔術』→魔術の分類のひとつ。読んで字のごとく、対象を洗脳するための魔術
・『治癒魔術』→読んで字のごとく、治癒の魔術。それほど高い効果はない。他者を癒すことは出来るが、術者自身にかけることは出来ない。詳しくは『131.「ネクスト・ターゲット」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている




