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花嫁騎士 ~勇者を寝取られたわたしは魔王の城を目指す~  作者: クラン
第二章 第三話「フロントライン~③頂の堕天使~」
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Side Sinclair.「車輪の上」

 迷いが消え去ることなんて、多分ない。シンクレールは確信していた。そして、こうも思う。だとしても、進むことは出来るはず。時々立ち止まりつつも、真剣に前を見つめ続ければ大丈夫だ。華奢(きゃしゃ)で、けれども力強いあの背から目を()らさなければいい。隣に立つことは出来なくても、追いかけることなら僕にだって出来る。


「吹っ切れたみたいね。……なら、遠慮なくいくわ。あと二回転んだらアンタの負けよ」


 マドレーヌの顔から狼狽(ろうばい)が消える。代わりに広がったのは威圧的(いあつてき)な表情だった。


 シンクレールは両手に魔力を集中させ、身構えた。一度倒れたことで確実に不利にはなったが、彼の心に不安はない。むしろ、必要な過程(かてい)だったとすら感じる。迷いを内包(ないほう)しながら対峙(たいじ)するための。


 恩はある。自分は今、間違いなく悪党だ。良心の呵責(かしゃく)が消え去ったわけでもない。それでも戦うだけの準備は整っている。


 マドレーヌが身を低くした。そして、飛びかかる寸前の獣のように前傾(ぜんけい)する。


 彼女を完膚(かんぷ)なきまでに叩き潰すことが目的ではない。勝利を(つか)んでクロエを追うために必要なのは、たった三回の転倒だ。


 マドレーヌの片足が地面から離れる瞬間を、シンクレールは見逃さなかった。


氷の大地(グラス・ピトン)! ――転べ!」


 一瞬にして、マドレーヌの踏み出そうとした足場が凍り付く。着地した瞬間に足を(すべ)らせて、そのまま転倒する――はずだった。


 シンクレールの想定は決して間違っていない。通常であれば、凍らせた大地を踏み抜いて駆けるのは困難である。加えて、マドレーヌの鎧がいかなる炎を(まと)っていようとも、一瞬で魔術製の氷を()かすことは出来ない。


 真っ赤に燃え(さか)る小さな車輪。それがマドレーヌの足裏に出現したのである。車輪は地面からやや浮き、マドレーヌの足は車輪の上部から同じく浮いていた。そして、空中を(すべ)るようにシンクレールへと接近する。


 彼女の拳が、先ほどと同じく引かれた。


 集中しろ――シンクレールは内心で言い聞かせる。たかが宙に浮いているだけだ。氷の大地(グラス・ピトン)で転ばせることは不可能だろうけど、ほかにいくらでも方法はある。


 マドレーヌの拳が目の前に(せま)った。それを受け止めるように、シンクレールは手のひらを突き出す――。


氷の息吹(グラス・スフル)!」


 手のひらから(はな)った冷気の突風がマドレーヌを吹き飛ばした。彼女の身体が宙で一回転する。が、そのまま地面に倒れることはなかった。彼女は空中で不自然なまでに体勢を整え、着地した。――いや、地面から数センチ浮いているので正確には着地ではない。彼女の足裏と大地の(あいだ)には、相変わらず車輪が浮いていた。


 あの車輪が原因か、とシンクレールは思い(いた)る。吹き飛ばされている間も、それは彼女の足裏数センチから動くことはなかった。空中での不自然な体重移動も、おそらく車輪の仕業(しわざ)だろう。さてどうしよう、とシンクレールは(あご)に手を()えた。


 車輪の魔術自体、彼のはじめて目にするものだった。かなりマイナーな魔術であることは間違いない。一般的なものなら知らないはずがないのだから。クロエならなにか知っているかもしれないけど……。


 シンクレールは首を横に振り、思考を振り払った。クロエのことを考えたって仕方ない。今は自分が戦場にいて、頼れるのも自分自身だけなのだ。


「地面を凍らせたり、風で吹き飛ばしたり……優しいのね、シンクレール。傷付けずに転ばせようだなんて。けど、そんなに甘くないわよ。アタシはキュラスを守るために戦ってるんだから、そんな優しい攻撃ばかりでなんとかなると思わないほうがいいわ」


 傷付けずに勝利出来るのなら一番だ。しかし、そこを前提にしてはいけない。シンクレールは拳を握り、呼吸を整えた。


 あの車輪をどうにか出来なければマドレーヌは倒せないだろう。氷獄(コフィン)氷漬(こおりづ)けにしてクロエを追おうか――不意に浮かんだ考えを、シンクレールはすぐに打ち消した。戦わずに逃げるのは違う。戦略的には正しいのかもしれないけど、心が許さない。


随分(ずいぶん)とぼんやりしてるようだけど、またあの女のことを考えてるんでしょ? ……分かってるわ」


 どくん、とシンクレールの心臓が鳴る。それは君の思い込みだ、と否定しようとしたが喉元(のどもと)で押しとどめた。クロエのことを考えていたのは事実である。ありきたりな嘘だからこそ、簡単に口にしてはいけない。そうやって(いつわ)ることに慣れてしまったら、自分はもっと(みじ)めになる。


「君の言う通りだ。僕は、クロエに(あこが)れてるから」


 本人がいないと、ここまで素直に言えるのか。シンクレールは我ながら不思議に思った。面と向かってこんな台詞(せりふ)は口に出来ない。


 刹那(せつな)、熱風がシンクレールを襲った。腕で顔を(さえぎ)っても呼吸が苦しい。肌がひりひりと痛む。目を開けていることさえ難しかった。吸い込む空気さえ熱く、ひと息ごとに肺を痛めつけているような感覚になる。


 目の前が涙で(ゆが)んでいく。マドレーヌから目を離さぬよう意識していたのだが、やがて前方に彼女がいるのかさえ分からないほど視界が怪しくなっていった。


 これではまずい。そう思ったシンクレールが手のひらを前に向けた瞬間――。


 後頭部を鷲掴(わしづか)みにされ、ぐっと後ろに引かれた。体勢を整えようとしたのだが、足が払われる。そのままシンクレールは、抵抗らしい抵抗さえ出来ず地面に倒された。


 これで二回転んだことになる。もう後はない――シンクレールの思考が危機感で(おお)われるのと、マドレーヌが馬乗りになったのはほとんど同時だった。


 彼女の髪が、シンクレールの(ほお)をくすぐる。マドレーヌの目付きも表情も、異様なまでに真剣だった。


「アンタがアタシのものにならないのなら――」


 首に両手がかかったことに気付いて、ようやくシンクレールはもがいた。しかし彼女の身体はびくともしない。首にかけられた手を振りほどこうとしても、あまりの熱で触れることも出来なかった。ただ、首に熱は感じない。マドレーヌが調整しているのだろう。それがどうしてなのかまでは、考える余裕がなかった。


 彼女の瞳が、どろりと(にご)る。瞬間、シンクレールの全身に悪寒(おかん)が広がった。


「――いなくなれ」


 首に圧迫を感じた。それも、致命的(ちめいてき)な圧力を。考えている時間なんてない。すぐにでもなんとかしないと――。


 手のひらをマドレーヌの胸に当て、氷の息吹(グラス・スフル)(はな)とうとしたが、明らかに練度(れんど)()りなかった。そよ風が彼女の身体を()でただけである。


 魔力を整えようとしたが、集中出来る状況ではない。呼吸は問題なかったが、頸動脈(けいどうみゃく)に強い圧迫を感じる。視界を光の粒が飛ぶ。もうじき――おそらく、あと数秒で――意識が散り散りになるだろう。


 焦りと恐怖で全身が震えたが、それとは別の感覚があった。どこまでも静かな感覚が。


 ここで消えたほうが幸せなのかもしれない。不気味なほど落ち着いた声が頭に響く。そんなのごめんだ、と叫ぶ自分自身の声が聴こえた。静謐(せいひつ)な感覚と、本能的な感情がせめぎ合っている。もはや視界は黒く染まっていた。


 手のひらが熱い。けど、その熱もだんだん遠ざかっていく。


 消えよう、と(さと)す声。嫌だ、と叫ぶ声。そのふたつが交互に頭を揺さぶっていく。思考は千々(ちぢ)に乱れ、ひとつのことを考えることが出来ない。自分が今、目を開けているのか閉じているのか、息をしているのか(いな)か、そして生きているのか死んでいるのか――あらゆる物事が曖昧(あいまい)だった。


「ごめんなさい」


 ぽつりと、雨滴(うてき)のような言葉が、シンクレールの耳を()り抜けていった。

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。

登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。

なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。



・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて


・『マドレーヌ』→『救世隊』の魔術師。性別は男性だが、女性の格好をし、女性の言葉を使う。シンクレールに惚れている。詳しくは『317.「マドレーヌ」』にて


・『氷の大地(グラス・ピトン)』→大地を凍結させる魔術。詳しくは『269.「後悔よりも強く」』にて


・『氷の息吹(グラス・スフル)』→氷の突風を放つ魔術。初出は『268.「深窓令嬢」』


・『氷獄(コフィン)』→対象を氷の箱に閉じ込める魔術。閉じ込められた相手は仮死状態になるが、魔術が解ければそれまで通り意識を取り戻す。詳しくは『270.「契約」』にて


・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている

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