Side Sinclair.「感情彷徨」
緊迫した空気には違いなかった。マドレーヌが徐々に魔力を整えていくのをシンクレールは肌で感じ取り、自らも呼吸を整える。
上質な魔術は深い集中力によって生み出される。そして集中は、芯の通った精神力が導く。騎士見習い時代に何度も叩き込まれた教えである。
厳めしい顔つきの教官を思い出し、シンクレールの心に影が差した。自分はナンバー4の席を得てなお、不安定なままの心を抱えている。何度決意しても、何度『惑うな』と言い聞かせても、大事な場面で気持ちが濁るのだ。本当にこれでいいのかと問う声が身の内に響き、意識がそちらに引っ張られてしまう。そんな迷いのなかで作り出した魔術は、まるで子供じみた練度しか持たない。
テレジアと対峙したときもそうだった。あの場面でシンクレールは、やはり心に迷いを抱えていたのである。戦っていたのは自分ではなくクロエなのに、ぐずぐずと気持ちが溶け出して仕方なかったのだ。恩人に刃を向けるだけの覚悟なんて、とてもじゃないが持てなかった。
橋を落とされてからずっと、シンクレールは考え続けた。なにが正しいか、ではない。自分はどうしたいのか。そのことにひたすら向き合い続けたのである。
シンクレールはマドレーヌを見据え、自分自身に問いかけた。決して声にはならない声で。
『それで、答えは見つかったかい?』と。
マドレーヌの魔力は、もはや目に見えるほどの練度をなしていた。それはまるで風のように彼女の身にまとわりつき――やがて、深紅の鎧と化した。
「魔術換装……」
シンクレールの口から漏れた無意識の呟きに、マドレーヌは挑発的な笑みを返した。
「馬子にも衣装でしょ? 言われ慣れてるわよ、似合わないなんて。けど、これで夜を越えてきたのよ。何年もの間、毎晩」
違いない。シンクレールには彼女の努力が否応なく理解出来てしまった。自身の持つ魔力を鎧として扱うこと自体、決して簡単ではなかったが、マドレーヌのそれは見事な練度を保っている。彼女の得意とするであろう炎の魔術を散りばめているあたり、手慣れていた。
シンクレールが氷の魔術を高めてきたのには理由があった。ひどく消極的な理由が。
氷の魔術の多くは、一度形を作ってしまえば維持は難しくない。瞬間的な集中力こそ要求されるが、それを保つ必要性はないのだ。おおむね、作り出したときの半分程度の集中力で維持していられるし、種類によっては魔力を注ぎ続けなくとも問題ないものまである。
揺らぎや迷い。それらを一瞬だけ封じることが出来れば、あとは楽なものである。決意も覚悟も曇りがちなシンクレールにとってはぴったりの魔術だった。一方で、魔術換装は一瞬一瞬の集中力によって成り立っている。少しでも気を抜けばすぐに解除されてしまうし、迷いなど抱いていたら生成すらままならない。自分には一生かかっても出来やしない魔術。そんなふうに捉えていたのである。だからこそ目の前のマドレーヌを、どこまでも眩しく感じた。
「すごいな、君は。一流の魔術には一流の精神が必要なんだ。君はそれを持っている」
「口ばかり達者なのね。そうやって懐柔しようとしても、アタシには無駄よ。一度決めたことを曲げるつもりなんてないわ」
そうだろうな、とシンクレールは小さくため息をついた。マドレーヌは本気だ。よく分かる。彼女は本気で怒ってるし、本気で哀しんでる。僕を奪うだのなんだの言ったのも、本気に違いない。でなければ、三回転んだら相手の言いなりにならなければいけないなんていうルールを提示しないはずだ。つまり、なんとか傷を抑え、なおかつ精神的にも肉体的にも屈服させようとしているのだろう。なんの拘束力もない口約束だけれど、悪いやり方ではない。なぜなら僕は、交わした約束を破るだけの芯がないのだから。――そこまで考えて、シンクレールは胸の痛みを覚えた。渦巻くような惑いによって。
彼女の言いなりになったら、きっと旅は終わるだろう。言いなりになるということは、自分の意志を超えたことだから。僕が離脱したら、クロエはどう思うだろう。軽蔑はしないだろうけど、落胆は見せるかもしれない。それは、戦力が減ることに対してだろうか。それとも、仲間として? あるいは、親友として?
気付くと、シンクレールの目の前には拳を引いたマドレーヌの姿があった。熱く燃え滾る鎧の温度で、はっと意識を呼び戻す。
――馬鹿じゃないのか、僕は。どうしてこんな場面でぼんやりと考えに耽ることが出来るんだ。まるで現実を見ちゃいない。今ならなんとか回避も間に合う。そうだ。今なら彼女の拳から逃げることが出来る。
とくん、と、心臓が小さく鳴った。シンクレール自身、どうしてそんなわずかな音を意識出来たのか分からないほどの、ささやかな音。そして、視線は彼女の瞳から逸らせなかった。
マドレーヌの目尻に、ほんの少しだけ見えた潤み。火の粉に紛れたその輝き。哀しみ、寂しさ、苦しみ、怒り、情熱、愛情……そんな極彩色の感情が等しく、一滴にも満たない潤いに結実している。そんなふうにシンクレールは直観した。思い込みかもしれない。その涙未満の水分は、瞳の反射的な作用かもしれない。過剰な共感かもしれない。それでも、自分の直観を疑うことはしなかった。
――!!
マドレーヌの叫びと、迫る拳。
騎士団ではひ弱だったが、体術の心得はシンクレールにもある。つまり、彼女の拳を避けることは可能だったのである。生半可な鍛錬はしてきていない。いつだって生きるか死ぬかの戦場を前提としていたのだから。唯一鍛えられなかったのは、精神だけだ。
目の奥で火花が散る。少し遅れて、頭蓋の内側で轟音が響いた。地面が崩れるような感覚と同時に、激しい痛みが全身を駆けめぐる。視界が天と地をめまぐるしく回っていく。
一連の激動ののち、シンクレールの瞳は、振り抜いた拳をそのままにして呆然と立つマドレーヌを捉えた。
シンクレールは奇妙な思いに駆られた。その理由は、わざわざ探るまでもない。彼女に殴られ、自分は地を転げたのだ。無抵抗に。その証拠として、マドレーヌと自分との距離は先ほどより離れている。妙なのは、一切思考が飛ぶことなく、そして自分が今こうして立ち上がっていることだった。殴られ、倒れ、激痛を抱えながらも即座に起き上がれたのである。ほとんど無意識に。
口の中を切ったらしく、やたらに錆臭い味がした。手足は少し痺れていたし、ガンガンと激しい頭痛がする。けれど――。
「なんで避けなかったのよ!」
マドレーヌは狼狽を隠さず叫んだ。避けてほしかったのかもしれないし、避けるだろうと踏んでいたのかもしれない。彼女の本意がどこにあるのかまでは分からなかったが、決して半端な攻撃ではなかった。
「避けるのは……逃げるのは……」一歩踏み出すと、頭を中心に痛みが走った。鮮明で、どこまでも現実的な痛み。「フェアじゃない」
シンクレールは、我ながら妙な言葉だと笑い飛ばしたくなった。けれども嘘ではないのだから参ってしまう。
「命の恩人が、感情の全部を籠めて殴ろうとしたんだ。避けるなんて卑怯だよ」
「アンタ……馬鹿になっちゃったの? それとも元々?」
多分、とシンクレールは思う。元々こんな人間ではなかった。見たくないものからは目を逸らし、恐いと思えば逃げ出すような人間だ、自分は。
「ちゃんと向き合わないから、ずっと駄目だったんだ。痛みなんて一瞬なのに、そこから逃げ出して、逃げたことに苛まれて……まったく、僕は大馬鹿だよ」
自分が真っ直ぐ、全力を出せた瞬間を思い出した。すべての迷いを抱えて、それでも決意した瞬間。
クロエをかばってトリクシィと対峙したあの夜だけは、間違いなく本気だった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。王都を裏切ったクロエとシンクレールを討ち取ったことになっている。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』『第二章 第三話「フロントライン~①頂の街の聖女~」』にて
・『マドレーヌ』→『救世隊』の魔術師。性別は男性だが、女性の格好をし、女性の言葉を使う。シンクレールに惚れている。詳しくは『317.「マドレーヌ」』にて




