362.「破壊の渦」
ハルツの瞳から溢れ出ていた涙が、唐突に止まった。わたしが彼の正体を看破したことが原因だろう。その反応を見る限り、『噛砕王』に聞き覚えがないわけではなさそうだった。その響きを知っているからこその反応だ。
彼を刺激しないよう、少しずつ後退する。一歩、二歩。
ハルツはこちらに襲いかかってくるわけでも、とぼけてみせるわけでもなかった。ただただ黙ってこちらを眺めるばかり。
その唇が、ほんのわずかに開かれる。
「『噛砕王』……」
記憶をめぐるように、ぽつりと呟く。
彼はほかの魔物とは違うはずだ。昼と夜とで姿が否応なく変化してしまう血族なんて聞いたことがない。
沈黙が続く。ハルツの視線は動かなかったが、その瞳はもはやわたしを認識していないように思えた。記憶の底の底。積もった澱を掬い上げて正体を確かめているような、そんな具合。
不意に、囁きが耳に届いた。落ち着き払った声が凛と響く。
『クロエさん。残念ながらわたくしと貴女は、相容れないようですね。ニコルさんと旅をしているときにも、何度かこういった場面はありました。その度に迷ったものです。本当に自分が正しいのか、と……。クロエさん。その果てでわたくしは知ったのです。……人は間違いを犯します。ほとんど無意識に。しかし、それで良いのです。いつか必ず懺悔の時が訪れますから。わたくしは今日の選択を、いつか懺悔するかもしれません。それでも、わたくしは今日という日、わたくしという在りかた、紡いだ言葉、それらすべてを正しいと確信しています』
ぱちん、と弾くような音が聴こえた。けれども、物理的になにかが起こったわけではない。それはきっと、これまでテレジアが抑えていたものを解き放った音だったのだろう。
音の直後、ハルツは蹲って頭を抱えた。そしてしきりに「思い出した、思い出した、思い出した」と繰り返している。
忘却魔術。そのことに思い至ると同時に、後方へ跳んだ。ハルツの身体から毒々しいまでの魔力――否、呪力が噴出したからだ。それは堰を切ったように辺りに満ち、やがて彼の肉体へと収束していく。
サーベルをかまえ、ハルツを見据えた。これからなにが展開されるにしても、望ましいものではないだろう。血の匂いの絶えない悪夢に違いない。
ちらりと教会を見上げると、目を疑うような光景がそこにあった。テレジアが、防御魔術を解除していたのである。
そんなことをしたら魔物が――。
しかし、大型魔物はテレジアに見向きもしなかった。彼女の魔力は巧妙に隠蔽され、その代わり、ハルツの身にさらなる魔力が溢れたのである。
魔物を引き寄せる魔術――疑似餌。それも、飛び切り強力なものを、ハルツの身体に対して施したのである。
キマイラが次々と急坂を下り、ルフが急降下してくる。いずれも目標はハルツだった。地鳴りが轟き、キュクロプスがゆっくりと移動する。
巻き込まれない程度に距離を置くと、蹲ったハルツにキマイラが飛びかかった。あまりに一瞬のことで、ただただ見つめることしか出来ない。ハルツは今、大量の魔物の下敷きになって、その身を裂かれているに違いなかった。
なぜ彼は避けようとも、応戦しようともしなかったのだろう。疑問が頭を覆い尽くし、やがて予感へ変わった。精神か肉体かは分からないが、ハルツの肉体はまだ、整っていなかったのではないか。大量の魔物が迫ってきても身動き出来ない程度には。
通常なら、ひとたまりもない。あれだけの群に襲われて生きていられるはずがないのだ、本来は。そう――急坂の上から遠隔で治癒魔術を使われていなければ。
一瞬で起こった変化は、またも瞬間的な異変へと遷移した。
群がる魔物の中心に、巨木ほどもある毛むくじゃらの腕が伸び、キマイラを掴んだかと思うとあっという間に地面へ叩きつけたのである。腕がもう一本伸び、ルフの身体を振り回し、別のルフへと投擲する。もうもうと上がる土煙のなかで、次々と魔物が投げ飛ばされた。
魔物が蒸発する際の靄と、土煙。そして血飛沫。それらがヴェールとなっている。
なにが起こっているのかは、おおかた想像がついた。ロジェールの見た大猿。そいつが群の中心で次々と魔物を討ち取っているのだ。
息を呑み、目を凝らすことしか出来なかった。あの破壊の渦の飛び込んでいったら、間違いなく無事ではいられない。
またも、耳元に囁きが響く。
『一度忠告したはずです。貴女が次にキュラスを訪れたら容赦しない、と。しかし、もし貴女が降伏し、この街を永久に去ってくれるなら――全力で守りましょう。……いかがいたしますか?』
この期におよんでまだ退路を作ろうとするだなんて。甘い……のだろうか。たぶんテレジアのそれは、わたしの甘さとは決定的に違う。強さと信念に裏打ちされた、生きかたそのものなのかもしれない。
煙が晴れ、ようやく『噛砕王』の全貌が露わになった。それはロジェールの語った通り、本能的な怯えを誘ってやまない姿である。十メートル近い巨体。相応に発達した筋肉。全身は黒の毛で覆われており、皮膚は紫、顔は猿そのものだった。
これが彼の本来の姿なのだろう、きっと。今まで見せていた純朴で不器用な青年ハルツは、テレジアか彼自身の変装に違いない。
すでにキマイラは全滅していた。あとは彼の頭上を飛ぶ二体のルフのみ。
『噛砕王』の身体が沈み込むと、一瞬でその巨体がルフの高さまで躍り上がった。二体をそれぞれの腕でがっしりと掴むと、下敷きにするように落下して――。
轟音と地震。立っているのがやっとだった。
消えていくルフ。割れた地面。むくりと立ち上がった大猿。
これを絶望的と言わずになんと言おうか。
大猿は天を仰ぎ、その口を裂けんばかりに開いた。まずい、と思って咄嗟にサーベルを納めて両耳を覆う――。
――!!
殴られたような衝撃が後頭部に広がり、平衡感覚を失いそうになる。そのあとに訪れたのは、巨大な耳鳴りだった。まるで警告音のように、それは響き続ける。
大猿の咆哮。予期していたし、その強烈さも想像がついていた。けれども、耳を塞ぐ以外に対処のしようがなかったのは事実である。
段々と耳鳴りが収まり、音が返ってくる。しかし頭にはじんじんと鈍痛の波が寄せては返していた。
『噛砕王』はゆったりと周囲に視線を移し、最後にわたしを見つめた。感情の読めない、黒目だけの瞳。彼の口がゆっくりと開かれる。
「まだ残ってる」
おそろしく低く、朗々と響く声。
まだ残ってる……わたしのことだろうか。殺すべき標的がいることを、確かめたのか。奥歯を噛みしめ、サーベルをかまえた。気圧されるな。あれよりも大きい魔物は今までだって討伐してきたじゃないか。怯えるな。戦うんだ。
しかし、『噛砕王』の次の言葉は意外なものだった。良いかどうかはさておき、まったく想定外の台詞だったのである。
「俺はデカいのをやる。お前らは、あいつをやれ」
あいつ、というのがわたしを指していることは理解出来た。しかし、お前らとはなんのことだ。
理解の追いつかないまま、『噛砕王』を目で追う。急坂を登りはじめた彼が目指すのは――キュクロプスだ。
まだ生き残っている魔物がいるから始末する、というわけか。けれど、ほっと胸を撫で下ろせるような状況ではない。むしろ、さっきよりも厄介なことになっていたのである。
息を呑んで周囲を見回す。
辺りには、人間の姿をした存在――キュラスに住む、敬虔な信者たちがいた。彼らは少しずつ数を増し、やや距離を空けてわたしを取り囲んでいった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』『第二章 第三話「フロントライン~①頂の街の聖女~」』にて
・『ハルツ』→キュラスに暮らす大男。純朴な性格。自分を拾ってくれたテレジアを心の底から信頼している。『黒の血族』のひとりであり、『噛砕王』の名を持つ。詳しくは『313.「あまりに素直で不器用な長話」』『362.「破壊の渦」』にて
・『噛砕王』→別名『育ちすぎた魔猿』。『黒の血族』だが、ろくに言葉を扱えず、粗暴な性格。人里離れた場所を好む。毛むくじゃらの巨体が特徴。テレジアに拾われ、頂の街キュラスで青年ハルツとして暮らしていた。詳しくは『294.「魔猿の王様」』『362.「破壊の渦」』にて
・『ロジェール』→キュラス付近の山岳地帯にひとりで住む青年。空を飛ぶことに憧れを抱き、気球を完成させた。テレジアの幼馴染であり、元々はキュラスの住民。『救世隊』の一員だった。詳しくは『298.「夢の浮力で」』『347.「収穫時」』『349.「生まれたての太陽の下に」』にて
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。『吶喊湿原』のキマイラのみ、血の匂いに引き寄せられる。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて
・『ルフ』→鳥型の大型魔物。詳しくは『37.「暁の怪鳥」』にて
・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場
・『呪力』→魔物の持つ魔力を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『忘却魔術』→記憶を喪失させる魔術。短期的な記憶に限り、消せると言われている
・『疑似餌』→魔物の持つ魔力誘引特性を利用した魔物引き寄せの魔術。対象の身体に魔力を注ぎ込むので、対象者が引き寄せの力を持つ。詳しくは『83.「疑似餌」』にて
・『治癒魔術』→読んで字のごとく、治癒の魔術。それほど高い効果はない。他者を癒すことは出来るが、術者自身にかけることは出来ない。詳しくは『131.「ネクスト・ターゲット」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている




